柴原さんの言葉が頭の中でぐるぐると廻っている。
自分の考えを持たない羊は、狼に食われる。一分の隙もない真言だ。ただ、それは今までの母さんとの日々を否定しているかのようだった。
いい高校へ。いい大学へ。その為に人生のすべてを捧げている今のぼくは、完全に哀れな羊だ。
でも、その考えから脱することはできない。狼の気配に気づいたとしてもどうしたらいいかわからない間抜けな羊だ。食われるとわかっているのに、なにもできないその姿は傍から見たらさぞ滑稽だろう。
いったいどうすればいい? 答えの影すらもない。ぼくの頭では、解決方法なんて考え出せそうもない。
「おーい、賢治ー?」
考えに耽っていると、一葉さんがぼくの顔の目の前で手をひらひら振ってきた。
「思いつめた顔してどうしたのさ。また死にたくなったの?」
「大丈夫です。ちょっと考えごとしてて」
「わたしもちょうど悩みがあるんだよね」
「なんです?」
一葉さんが一万円札をひらひらと摘み、「このお金の使い道、どうしようかなって」と言った。
「ホテル代……も駄目ですね。すぐ使い切っちゃいますし」
「ここら辺にはラブホもないし、どうしよっかなぁ」
能天気に悩むその姿からは、柴原さんが言うように弱さや脆さは少しも感じられない。気丈で、強い女の人だ。
「ねえ、あそこのコンビニ、タピオカフェアやってるんだって。ちょっと買ってみない?」
「それだけはやめましょう」
コンビニに向かおうとする一葉さんの手を掴んで止める。飲んだことはないけど、クラスの女子が一杯数百円すると言っていたのを小耳にはさんだことがある。一円たりとも無駄にできない状況で、ジュースを買うのは自殺行為だ。
すると、向こうから白いバンがゆっくり走ってきた。人がいない田舎だからいいけど、人が早歩きする速度と変わらない。もしかして、故障でもしたのかな、と見ていると、ぼくらの近くで停まった。
中から派手な服を着た、不良のような三人が降りてきた。明らかに苦手なタイプだ。できるだけ関わらないように早歩きで逃げようとすると、金髪の男が走ってきて一葉さんの肩を鷲掴みにした。
「ちょっとなにすん――」
一葉さんの目が見開かれる。
「久しぶりぃ。元気してた?」
「なんであんたがここに……⁉」
「細かい話は後にしようぜ。とにかく、今は車乗れよ」
金髪の男が親指で白いバンを差す。
「嫌だ、近寄らないで」
「そんなめんどくせぇこと言うなよ。ほんの少しで終わるからさ」
明らかに普通の関係じゃない。ぼくは勇気を出して、「あ、あの。一葉さんが嫌がってるんですけど……」と言っ
た。
「なんだお前? ……もしかして、お前また男作ったのか?」
金髪の男が口角を上げて一葉さんに一歩近づく。ぼくは無意識に一葉さんの前に立った。
「邪魔すんなよ」
「でも、一葉さんが嫌がってますし、その……」
「あ? 文句あるの? おれ、こいつの元カレなんだけど?」
「本当なんですか?」
ぼくが聞くと、一葉さんがためらいがちに首を縦に振った。
「っつうわけだから。早くどけや」
「で、ですけど、その、あんまり一緒に行きたくない感じですよ」
金髪の男は舌打ちをすると、「こいつも連れてくぞ」と後ろの二人に命令した。二人は頷くと、ぼくの手や肩を掴
んできた。
「やめて!」
「抵抗すんな! そこのガキも後部座席に乗せろ!」
必死に逃れようとするけど、力が強すぎて歯が立たない。あっという間にバンの中に入れられてしまった。
男二人が前の座席に座り、金髪の男がぼくと一葉さんの真ん中に腰を下ろす。
「ビビんなよ、昔みたいに殴りはしねぇ」
「なら、どこへ行くつもりなの?」
「そうだな。お前ら、ホテルでも行かないか?」
男二人が歓声を上げる。
「はい決定。なあ、久しぶりに一発やろうぜ」
「絶対に無理。あんた、わたしにしたこと忘れたの?」
「さあな。ちょっとあったような気もするけど、忘れろや」
「そんなあんたとやるわけないでしょ!」
「少しくらいいだろ。ほら、お前の新しい彼氏にも見せつけてさ」
金髪の男が邪悪な笑みを浮かべる。そして、一葉さんの顎を乱暴につかむと、強引に引き寄せてキスをした。
一葉さんが離れようとするけど、力の差があり過ぎて引きはがせない。濃厚なキスの後、もう一度笑顔で、「ど
う?」と聞いた。
一葉さんが張り手をする。
「最低!」
すると、金髪の男は真顔になり、一葉さんの頬を殴りつけた。
「このクソが! 下手に出れば調子乗りやがって!」
二、三度拳が振るわれる。一葉さんの鼻から血が飛ぶ。それが金髪の男の頬にかかった。
強烈な動悸がした。自分が殴られてるわけじゃないのに、物凄く胸が痛い。
景色がゆっくりになったような気がした。
一葉さんは怯えていた。今にも泣きそうな顔で、誰かに助けを求めていた。ほんの一瞬にも満たない時間だけど、
はっきりとわかった。
ぼくは恐怖を誤魔化すように、考える間もなく金髪の男の腕に組みついていた。
「やめろ!」
「邪魔すんなクソガキ!」
もう片方の手でぼくの顔を殴ってこようとするけど、車内は狭く、前の座席に当たって軌道が逸れ、ぼくの肩に当たった。
がむしゃらに体を乗り出し、一葉さん側のドアを開ける。
「飛び降りて!」
一葉さんが目を見開く。そして一瞬のうちに決心した表情になり、道路に躍り出た。後ろに流れていく道路と一緒に転がっていく。
ぼくも脱出しようと身を乗り出した。しかし、金髪の男がそれを阻むように体を押し込んでくる。
「やらせるかクソガキ!」
ぼくは思いきり手に噛みついた。悲鳴が上がる。肉を食いちぎる勢いで更に深く噛みつく。口の中に鉄の味が溢れてきたけど、それでも強く歯を立てた。
金髪の男の手がやっと緩まった。迷う間もなく外に飛びだす。
体が地面に触れた瞬間、天地がものすごい勢いで回転した。体がアスファルトに何度も叩きつけられる。やっと止まった時には、体中が軋むような痛みをあげていた。
「賢治! 大丈夫!?」
「へ、平気です。早く逃げないと……!」
白いバンが止まって、中の男たちが血相を変えて出てくる。ダメだ。体中がばらばらになったみたいに動かない。
男たちが近づいてくる。せっかくここまでやったのに……!
そう思った時、対向車がやってきた。ぼくらの近くで停車し、サングラスをかけた若い男の人が出てくる。
「なにやってるんですか」
男たちが悔しそうな顔で退散する。一般人に見られたからには、警察に通報されるリスクもあるからだろう。
白いバンが完全に視界から消えてから、やっと顔を上げた。
「君たち、どうしたんだ?」
妙に聞きなじみのある声だった。不思議な感覚に囚われながら、目を凝らす。やはり初めて会ったとは思えない。
それは相手も同じのようで、ぼくを見て小首を傾げている。
そして、サングラスを取った。
「お前、もしかして賢治か?」
ぼくは息を呑んだ。それは、紛れもなく数年前に失踪した兄さんだった。
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