アドレナリンが出たせいか、興奮しすぎて夜はまったく眠れなかった。
男は朝方に目を覚ましたけど、身動きできない状況に観念して、抵抗することはなかった。
神社を去る時、お堂の扉だけは開けておいてあげた。これで誰かには気づいてもらえるだろう。ただ、一葉さんが復讐と言って、ズボンとパンツをはいで神社の裏に捨てたから、とんでもない姿のまま発見されるのだろうけど。
ぼくらはまた当てもなく歩き続けた。京都と言っても、有名どころじゃないからどこを歩いているかほとんどわからない。東京なら、数百年の歴史あるお寺なんて滅多にあるものじゃないからすぐにわかるけど、京都にはコンビニ感覚で至る所に歴史的名所がある。おまけに一葉さんのスマホも壊れてしまって、詳しい場所は全く分からない。
でも、土地勘は大した問題じゃない。一番は食う寝るだ。食べるごとにただでさえ少ないお金が減っていくし、寝る場所は雨風が凌げて安全な場所じゃなくちゃいけない。一葉さんなら、顔も知らない一般宅に行こうと言い出すかもしれないけど、それも不安だ。もしかしたら、ぶぶ漬けを出されて追い出されるかもしれないる。
帰りの運賃も当然ない。その場しのぎでやっていくしかない。ないないずくしだ。
一葉さんにそう伝えた。そう伝えたはずなんだけど、
「なんで銭湯に入ろうとするんですか」
一葉さんはぼくの制止も聞かずに、小くて古びた銭湯に入ろうとしていた。
「だって体汚いじゃん」
「それはそうですけど、我慢すればいいじゃないですか。お金だってないんですよ」
「二日もお風呂に入ってないんだよ? 昨日は野宿同然だったし、歩いて結構汗かいたし。もしかして、賢治って三日に一回入るタイプ? 不潔ぅ」
「毎日入りますよ。ぼくは財布の中身を気にしてるんです」
「じゃあさ、こう考えてみようよ。お金はいつでも稼げるでしょ? でも、健康はしょっちゅうメンテナンスしなくちゃダメじゃん。それでね、なにが不健康かっていうと、不潔が一番ダメらしいの」
「そうですけど」
「でしょ? それに、これから不潔が原因で風邪でもひいたら、命に関わるじゃん。そしたらわたしたちの旅は即終了。たった一時の油断がきっかけで、わたしたちは道端で野垂れ死んでしまうのでしたー」
一葉さんが舞台役者のように誇張した動きで野垂れ死ぬふりをする。
「っていうわけで、入ろうよ」
「どういうわけですか。とにかく、今はお金を節約してですね」
「そのお金は誰の物だっけ?」
耳に手を当てて顔をよせてくる。そう言われればぼくはお手上げだ。仕方なく同意するしかなかった。
建物は昔ながらの構造をしていて、男女が左右で別れる形だ。真ん中の高い座席に、八十代くらいのおばあさん番頭がうつらうつらとしながら座っている。一葉さんが男子風呂に入るのを、数人のおばさんがぎょっとして見ていた。
「一葉さんって男風呂に入っていいんですか?」
「別に大丈夫でしょ。心は女だけど、そこらへんは弁えてるし。賢治こそわたしの裸見て大丈夫なの?」
「な、なんともないですよ。だって同じ男じゃないですか」
「わたしと付き合った男たちも、最初はそんなこと言ってたっけなぁ」
耳に息が吹きかけられて、背筋がぞわりとした。一葉さんの服の下……いや、ぼくとなにも変わりないじゃないか。
「一応、離れて脱ぎます」
一葉さんは小さく笑うと、「ご自由にー」と奥の方に行ってしまった。
幸いにも出入り口にタオルが平積みにしてあった。一つ取って中に入る。
中も伝統的な作りで、手前に洗い場、奥に大きな浴槽があり、壁一面には京都の風景が描かれている。銭湯に行っ
たのなんて、一体いつぶりだろうか。――少なくとも数年、まだ兄が失踪する前だろう。
浴槽には誰もいなかった。贅沢にも貸し切りだ。
頭と体を洗い、湯船に入る。気持ち良すぎて肺の奥から深い息が出てきた。三日分の疲労が溶けて出ていくようだ。
「賢治ー、入ったー?」
「もう浸かってますよー」
一葉さんは髪をポニーテールにしていた。下半身はタオルで隠している。でも、胸は丸見えだ。
「なに見てんの? やっぱり、興味津々なんでしょ、スケベ」
「ち、違います!」
「はいはい。なら、見ないでね」
そう言って髪を洗い始める。長髪であれだけサラサラだから、普段からよく手入れしているのだろう。時間がかかりそうだ。
なにも考えずに絶妙な湯加減に身を任せていると、新しい客が一人入ってきた。百九十センチはあるくらいの大きな背丈に、丸太のように太い筋肉。更にその上に、鯉や桜の刺青が鮮やかに彫られている。一目で同じ世界の人間じ
ゃないとわかった。
その人は軽く掛け湯をすると、まっすぐ湯船に向かってきた。急いで横に移動する。ぼくには一瞥もせずに、腕を組んで湯に浸かり始めた。
なるべく視線を合わせないように別の方向を目をやっいると、「すまんの。カタギの人を怖がらせるつもりはないんやが」と話しかけてきた。
「いえ、お気になさらないでください」
「それなりゃよかった。刺青で入れるのはここだけでの。最近じゃ、どこ行っても白い眼をされる。ヤクザもんには厳しい世の中になったもんや」
「はぁ……」
関西の人ってフレンドリーだな、と思っていると、いつの間にか浴槽の端に立っていた一葉さんが、「あー! 柴原さんじゃん!」と巨漢を指差した。
「お前は一葉!? おい、なんでここにおるんや!?」
「あー。それはいろいろあってさ」
「なら、この坊主は誰だ? 新しい彼氏か?」
親指でぼくを指してくる。
「まあ、そんなところかな」
「今度は真面目そうな男連れてきたな」
「冗談冗談。旅のツレだよ。ちょっと髪の毛洗ってるから、二人で適当に話しでもしてて」
柴原さんと顔を見合わせる。柴原さんは、にこっと、いかつい顔には似つかわしくない純粋な笑顔を浮かべた。
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