「え?」
「逃げるの。病院から脱出してさ、知らない場所に行くの。ゆっくりのんびり、気ままに誰に邪魔されるわけもなく」
「駆け落ちですか?」
一葉さんがぶはっと噴き出した。
「いやぁ、近頃の中学生はオープンだね」
一葉さんがぼくの頭を抱き寄せて、くしゃくしゃに撫でまわしてきた。甘ったるい香りが更に濃くなる。
「そうだね。駆け落ち。うん。駆け落ちだ」
「冗談止めてくださいよ。僕たち、さっき会ったばかりじゃないですか」
「会ったばかりだけど、わたしと賢治の相性が良いってことはわかるよ。……それで、どう? わたし、結構本気なんだけど」
一葉さんが顔を覗き込んでくる。
ぼくも退院したら、また勉強漬けの生活だ。血を吐き続けるマラソンをもう一年続けるだなんて正気じゃない。それに、合格した後は? 次は大学。その次は就職。母さんの期待に応える義務を背負い続けなくてはならない。それならいっそ、自暴自棄のような考えに身を任してみるのもいいかもしれない。
「……行きます」
喉の奥から絞り出すように声を出した。
「マジで? からかってるわけじゃないよね?」
「本当に行きます。ぼくもどうでもいいんです。受験とか、親とか、考えたくないんです。だったら、なにもかも棄てた方がマシだ」
母さんの顔が脳裏にちらつく。罪悪感が胸をジクジクと刺した。
一葉さんが唐突に手を叩いた。
「よぅし! 善は急げだ。じゃあ、今すぐ逃げるよ!」
「え? 今すぐですか?」
「そうだよ。わたしだって明日になったら退院しちゃうんだから。ほらほら立って。脱出経路なら知ってるから」
腕を取られ、無理やり立ち上がらせられる。
ぼくたちは院内に戻った。時刻は午前一時。まだ警備員が徘徊している時間だ。
スリッパを脱いで、抜き足差し足忍び足、音を立てずに廊下を歩いていく。
階段を降りていると、ライトの光が下の階から上がってきた。警備員が昇ってきているのだ。一葉さんがぼくの背中を押してきて、女子トイレに連れ込んだ。足音はぼくらに気づかず、遠ざかっていく。一葉さんが、にひっ、といたずらな笑みを浮かべた。
二階に到着し、一葉さんの病室に入っていく。同室の患者たちは全員寝ているようで、起きる気配はない。一葉さんは頭の包帯を外してゴミ箱に捨て、自分のネームプレートがはめられたベットのシーツをはいで、端を窓の近くの手すりに縛り付けた。
「まさか、このまま降りませんよね?」
「シーツは頑丈だし、二階だから落ちても大した怪我にならないよ」
そう言いながら、シーツを掴んで窓から身を乗り出して降りていく。やめてしまおうかと思ったけど、「ほら、早
く早く」という声で行かざるを得なくなった。
「下は見ないほうがいいよ」
声に従ってゆっくりと降りていく。たっぷり数分くらいかけて、やっと地面に足が付いた。
そのまま電灯の光を避け、裏門まで走っていく。裏門には小さな警備室があったけど、幸いその中の警備員はぐっすりと居眠りしていた。
音を立てないようにゆっくりと門を抜ける。病院が小さく見えるまでひたすら走っていった。
「やったやった! 大成功!」
一葉さんが飛び跳ねながら万歳をする。
その後も走り続け、病院が見えなくなってから、タクシーを拾った。
「さあ、街に行くよ」
「そういえば、ぼくお金持ってきてないですけど……」
「へーきへーき。わたし、結構持ってるから。運転手さん、適当に近くのホテルに送って」
白髪の運転手がぼくらをちらりと見ると、「あいよ」とアクセルを踏んだ。
病院がどんどん遠ざかっていく。ぼくはあそこから逃げてきたのだ。そう考えると、妙に興奮して、全身が熱くなった。
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