針鼠の恋愛事情(グリーパス・スタン・アマルガムハート) ⑪
■ ビロビジャン中央駅大深度地下(承前)
夜のとばりを分厚い岩盤が遮り、そのまた奥底で硬化テクタイト製石材が拒んでいる。さっきまでワンワンと地下構内を轟かせていた喧騒は嘘のように掻き消えた。ドイッチェラントの鉄道連隊はアムール川底を貫くために出発した。資材はすっかり片づけられ、がらんとした空間を重苦しい静寂が支配している。しんとした休憩室で自分の鼓動を聞いている孤独を痛いように覚える。
望萌のふとした言葉が呼び水となってハーベルトの胸中に不安が溢れかえった。寂しくなかったわけではない。ただ、気丈にふるまっていただけなのだ。任務の重責が心細さに蓋をしていた。それを癒すようにどこからともなく祥子の助けを求める声が聞こえてきた。
最初は情緒不安定から来る幻聴ではないかと耳を疑った。だが、ダイマー共有聴覚にひしひしと感情が伝わってくる。
何者かが確実にメッセージを届けようとしている。おかしい。祥子はダイマー能力者としての肉体を失った筈だ。では、これは敵意を持った第三者の攪乱工作か。ハーベルトは重い頭を起こして五感を研ぎ澄ませた。自分の唾を呑み込む事さえ慎重になるほどに。
「……ハーベ……すけ…おねが……」
ピチャピチャと湧水が跳ねる。その音に混じって蚊が鳴くような声が聞こえてくる。
「祥子なの?」
思い切って呼びかけると大量の冷水が降ってきた。それは見る見るうちに水かさを増し、部屋のパイプ椅子を浮力でひっくり返した。「天井が破れた?!」
ハーベルトが見上げると、裂け目からダム放流のように水が湧き出ている。彼女は翼を開いた。ダイマー能力を発動して自身の周囲に酸素被膜を現出させた。これで呼吸困難に陥る恐れはない。そうこうするうちに休憩室は完全に水没した。破れたスカートやスクール水着の残骸がエイのように泳ぎ、脱げたカツラが藻のように漂っている。
まるで海の底だ。そんなのんびりとした感情と裏腹にトンネル水没事故の被害状況が気になるところだ。頭の芯が氷のように冷えている、ハーベルトはダイマー能力で自分を取り巻く気泡の周囲に起電力を励起した。フレミングの左手法則に従ってゆっくりとトンネル内を回遊する。百メートルも行けば鉄道連隊が地上にあけた通気口にたどり着くはずだ。気泡は青白い燐光を帯びて、真っ暗な坑道をユラユラと進んでいる。ハーベルトを呼ぶ声は次第に明瞭さを増して、今や耳元で囁くほどに感じられる。
「祥子。あなた、どこにいるの?」
ハーベルトが両手を口元に添えて訴えると、揺らめきが人面の彫像に変化した。間延びした声が地獄の雄たけびをあげる。。
「ご・ご・に゛・い゛・る゛・よ゛。バー――ベル゛――ド」
「祥子なの?」
ハーベルトがぱっと顔を輝かせる。何かのスイッチが入ったように濁流が押し寄せた。トンネルの暗闇が消え失せ、赤緑青、光の三原色が蛇のように気泡にまとわりついた。そして、ハーベルトは尾てい骨が軋むほどの強い衝撃に突き上げられた。尿意を催すフワッとした浮遊感。三半規管がさいなまれ、胃液が逆流する。我慢できず吐瀉した。粘液にまみれた内容物が飛び出すと思い来や、それらはキラキラした鉱石となって目の前をよぎっていく。回転する虹色。ゆっくりと視界をよぎるエメラルド。まるで宝石店がガス爆発したみたいだ。
「ひゃん☆」
原色の火砕流がハーベルトのブラ紐を切り裂いた。ビキニパンティもベージュのアンダーショーツごと花弁のようにちぎれ飛ぶ。両脚の間へ曲がりくねった軟体動物がにょろにょろと近づいてきた。
「ヤダヤダヤダ。異世界逗留者なんか食べたってちっとも気持ちよくないんだからネッ」
ハーベルトがとがった耳の先まで真っ赤に染めると、ヘビ状の生き物はパッと飛び散った。
ハー……ベル……トォ……。重低音がハーベルトの大脳をもみくちゃにした。次の瞬間、過去、現在、未来、等身大の自画像がいくつも分裂し、そこかしこで舞踏会を始めた。白手袋をはめた手が裸のハーベルトを強引に導く。顔のない女が手を取り合って踊っている。その輪の中にハーベルトと白い相手が加わる。腕を振り上げ、くるり、くるりと、体を回すたびにハーベルトは目を凝らす。相手の顔をよく見ようと上体を乗り出してみた。だが、パートナーの頭部に濃い影が差していて、そいつが誰なのか皆目見当がつかない。
ガリガリに痩せた裸の女体が一斉になびくさまは、枯れ木の山を連想させる。ハーベルトはその光景に見覚えがある。どこかで見た、という曖昧な記憶ではなく、心の引き出しにちゃんと保管してある。
「猿ヶ森? ヒバの化石林?」
思わず口をついて出た。
「そうだよ。ハーベルト」
しらす干しのようなヌードダンサーがぎゅっと一点に纏まった。
ぐんぐんと暗闇が広がる。
漆黒。
本当に点のような光しかない。
それが閃光をはなった。白いしずくがスローモーションではじけていく。
光点は寄り合い、渦を巻き、無数の銀河を輩出した。
「助けておくれよ。ハーベルト」
誕生したばかりの星雲が祥子の顔を点描する。昔懐かしい8ビットCPU家庭ゲーム機。ゲームのドット絵だ。粗い顔が喜怒哀楽を成す。
「助け出してあげたいけど、あいにく星の渦を動かす技術は持ち合わせていないわ」
ハーベルトが肩をすくめる。祥子を象った星々はかぶりを振った。
「違うんだ。助けてほしいのはこの子達なんだ」
カーテンを閉じるように星々がスーッと横滑りする。すると、いきなり強烈な日差しがハーベルトの裸体に照り付けた。どこまでも澄み切った青空。見渡す限り何もない大地に彼女は立っている。黒くてザラザラした土が足の裏に刺さる。
「今度は何処へ連れてきたの? 地球創成期の時代に入植者がいたなんて、安っぽいSFドラマを語るんじゃないでしょうね」
ハーベルトがうんざりしたように言い捨てる。どうせ、神を名乗る知的生命体が地球型惑星を巡って生命の種をばらまいたとか、そういう類の都市伝説だろう、とハーベルトは高をくくっていた。さしずめ祥子は高次知能集団が遺伝子に仕込んだ工作員で、時限装置が作動してこの世に生まれ出た、とかそんな設定だろう。
「ふん、随分と黴臭いお話ですこと。パンスパーミア説――汎生命説、宇宙蒔種(うちゅうばんしゅ)説とも言われているわ。知的生命体は進化したあげく、宇宙で”文化”を農耕しなければならないとかいう誰得思想。それでどうするの。おかしいと思わない?」
ハーベルトの失笑が最高潮に達する。
「違うんだ。君は見せてくれたよね」
祥子の声が内耳に響くとどうじに、またふわりとした感覚が襲ってきた。今度は線路に降りた。砂利道にたくさんの軌道が敷いてある。枕木の間にたたずんでいると、ハーベルトの脇を数え切れないほどの列車が通過していく。ものすごい風圧が彼女を圧倒する。間近で見る列車の窓という窓に同じ顔がほほ笑んでいた。
ハーベルトだ。
老いも若きも、すべて、ハーベルトと言う人生の瞬間瞬間を写し取っている。
「あの時、ボクは女の子として生きる人生を選び取った」
バサバサと羽ばたく音がした。祥子が一糸まとわぬ姿で降臨した。そればかりでなく、隠すべき部分を堂々とさらけ出している。
「ええ。そうでしょ。あなたはどう見ても女の子だもんねぇ」
何をいまさらという態度をハーベルトがしめす。
「でも、ボクは女子になり切れなかったんだ。だから、いろいろ迷った」
「Y染色体が欠如している以上、泣いても笑ってもあなたは女でしょうよ」
ハーベルトがつっけんどんな対応をする。「それにあなたはナチ……」
言いかけると祥子が強い口調で遮った。
「違うんだ。ナチス遺伝子光学(註。誤字ではない)の成果がボクを産んだんじゃない。もう、出生なんかどうでもいい。ボクがボクであるからには、性別は関係ないんだ。ボクたち女子にはやるべきことがある」
祥子が空を見上げると一条の彗星が後ろ髪のような尾をたなびかせている。
「あれは! ヤンガードライアス彗星?」
「そうだよ。ハーベルト。ボクたちは生命の種を育むんじゃないんだ。生命の種を――」
祥子が噛んで含めるようにゆっくりと語った。
「生命の種を燃料にするんだ」
ごうっと、大地が打ち震え、ヤンガードライアス彗星が高温ガスを噴射しはじめた。
世界のありとあらゆる物がオレンジ色に染まる。それもつかの間。彗星は加速をつけて天の一角に吸い込まれた。
いつの間にか川端エリスがそばに立っている。彼女も祥子と同様に何一つ身につけていない。
「熱力学第二法則は必要悪よ。滅びゆく命を燃料にして地球を推進させるの。その為の燃焼機関」
エリスがうそぶくと、痩せた大地が一斉に芽吹いた。それはつる草のように急速に成長し、導火線のように燃え尽きた。
そして、エリスの声がさきほどの超低音までトーンダウンした。
「我々は高次頭脳集団だ。我々は文明残滓の表現方法を入手した。我々は本来あるべき場所へ還るのだ。そのために文明残滓から失われた同志を復刻する。祖国を再建するのだ」
随分と勝手な言い草だ。つまり、没落した異星人文明が文化保護と称して素材をかき集め、珪酸ガラスイリュージョン技術を用いて実体化するところまでこぎつけた。類推するに彼らは肉体を持たない精神生命体のような存在だろう。
ヤンガードライアス彗星は復興事業の一環として本初始祖世界(ソースコード)に撃ち込まれた。
それは絶望や破壊や暗澹をもたらす厄介の種であると同時に生命の素を地球にもたらした。燃やしてしまうべき「燃料」として。
また、彗星は彼ら高次頭脳集団の記憶媒体――乗り物であるに違いない。
頭の回転が速いハーベルトが宇宙人の意図を看破すると、エリスは地声で同意した。
「そうだ。いよいよ地球の生命体がこの惑星の子宮を離れ、星々へと歩み出すときがやってきた。生命の種は、一連のバイオ・メカニカル・ステージを経て、段階的に進化するための青写真を含む。ヌクレオチドの鋳型として、数十億年前に君たちの惑星にばらまかれたのだ」
「そうだよ。ハーベルト。種子の担い手となって、ボクたちを手伝ってよ」
祥子が虚ろな目をして、ひょろ長い手を差し出した。
「だが、お断りします」
ハーベルトは毅然と拒否した。だが、その後が続かない。どうやって窮地を逃れればいいのだ。
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