風の到達不能極(インレット)~ラーセン・マグナコア)⑫ 終極の対蹠地球 最終話前編
風の到達不能極(インレット)~ラーセン・マグナコア)⑫ 終極の対蹠地球
ドイッチェラントの土木工学が世界一である事は周知の事実である。特に掘削技術は群を抜く。それはどんなに強固な岩盤も鋼鉄の如き永久凍土も重く圧し掛かる海水すらも貫き通す。異世界の隔たりでさえもだ。
ハーベルトはヨーゼフが砕氷船内に残した豊穣角笛機械(コルヌコピアマシン)を用いて世界通信機を急造した。そして我らがハヴァロフスクの蒸気魔と連絡を取り、異世界ボーリングマシンの出動を要請した。
「あの男は私たちがぬいぐるみ心理学を克服する事を想定済みよ。そしてTWXの奪還を待ち構えている。故意にエリスの暗号を見逃したのよ。さもなくば魔王失格よ」
ハーベルトが操るアルクイーク・ノーヴォスチ号は異世界水路を突き進んでいく。浅海を想わせる濃緑色の闇は時おりさざめいて、真の暗黒を垣間見せる。それが敵地に近づくにつれて頻発するようになった。今では数秒間隔で世界が瞬く。
「ハーベルト。こりゃ、いよいよヤバイよ。キミは乗り込む気満々だけどさぁ」
祥子は鼻歌交じりで舵輪を捌いているハーベルトに不安を感じている。
「丸腰の砕氷船一隻で死地に赴くっていうの? 随分と見くびられたものね。私は提督の肩書を持つ女よ」
トロイメライ提督はムッとしつつ、ブリッジの天井に勢力図を投影した。
歪んだ卓球ラケットみたいな南極大陸の航空写真があらわれた。次に北米大陸の白地図が重なる。するとクルーがどよめいた。
カナダの東部分と南極大陸の半分がぴったりと重なるのだ。
「これは対蹠地(たいせきち)と言って、地球の反対側にあたる部分を投射したものよ。つまり南極の裏側に北米があるわけ」
提督がレーザーポインターを揮うとハドソン湾の付近が急速に拡大した。その一角にキラリと光る場所がある。そこをハウゼルは鮮明に記憶していた。
その地名が喉の奥まで出かかった途端、ハーベルトが機先を制した。
「え~次はヤンガードライアス。ヤンガードライアス。終着港ヤンガードライアス。彗星爆心。人類発祥地。万物開闢点。ヤンガードライアス。お忘れ物の無いようご注意ください」
「――って、ハーベルト!」
「そうですよ。列車長。南極大陸から地球の奥深く、中心部を経由して反対側はヤンガードライアス北米激突中心(レフレックス・ゼロ)。地底人ネフィリムの故郷を縦貫する大地軸孔(だいちじくこう)。これこそが、諸派が相争う要衝なんですよ」
トロイメライ提督が言うには、ヤンガードライアス彗星は造物主がヒンズー教でいう万物の卵――梵卵(ぼんらん)を叩き割るために放った雷である。
「その梵卵とは地球のこと?」
「ヒンズー教ではそうなるわね。混沌から最初に昼と夜が生まれて、大地と水が分離してうんぬん。創世記も他宗教の創造神話も似たような内容でしょう。原始宗教はおおむね地動説に立脚しているから部分的には正しい。でも天文学に反してる。この矛盾をどう解決するか。国立研究所(アーネンエルベ)の研究者とイリュージョン回線が繋がってるわ」
ハーベルトが両手を広げると、艦橋にゆらゆらと眼鏡っ娘があらわれた。糊のきいたビジネススーツに膝上丈のタイトミニスカート。肩まである栗毛をリボンで束ねている。彼女のスカートがふわりと揺れて濃紺ブルマーが丸見えになる。
すると、その傍らに釣り鐘状の金属部品が幻影実体化(イリュージョン)した。大きさは半径3メートル、高さ4メートルほど。黒光りする表面に巨大な鍵十字が記されている。そして裾の部分をルーン文字がぐるりと飾っている。
眼鏡少女は恭しく敬礼した。
「トロイメライ提督、ハートレー大総統の許可を得て機密開示いたします。これはディグロッケのレプリカです」
「ご苦労様です。皆さん。これが全ての謎を解く鍵ですよ。ソースコード出身の祥子にもわかるよう、端的に言えば、レコード針です。アカシックレコードを鳴らすもの……といえば、わかるわよね? 祥子さん」
その後、祥子は当時の説明をおぼろげにしか覚えていない。あまりに常軌を逸した内容だった。
アカシックレコードとは網羅的な記憶の保管庫である。個人の細々した思い出から宇宙それ自体の生涯まで余すところなく記述されている。それがこの世のどこかにあるという。
オカルト主義は未来予知や遠隔透視や以心伝心をすべてアカシックレコードの関与で説明している。ナチスドイツは外来文明の援助を得て円盤型の飛行物体ディグロッケを開発していたといわれるが、エーデルヴァイス海賊団の女性陣は大分裂後にこれを独自調査し一つの結論に至った。
ディグロッケは何らかの再生装置だ。ヒトラーは晩年、これの開発に没頭したという。彼を突き動かす者は何か。強迫神経症や統合失調症が原因と言われるが、伝承によれば彼は神の声に従ったという。そして戦後、世界各地で類似した円盤が目撃されている。同時に磁気異方性や金属音が観測されたことから、研究者は宗教的儀式に共通点を見出した。
詠唱はどの宗教にも欠かせない。それは教典――聖者の知恵を再生する手続きだ。従ってヒトラーの耳は幻聴でなく物理的な音波を知覚したのだ。アーネンエルベは極秘裏に極秘裏に調査研究を進め、アカシックレコードの有力候補にたどり着いた。
「南極は地球上で唯一、どの国家にも統治されていない大陸です。近代まで、大陸の偏りを補正するために南半球にも未知の巨大大陸メガラニカが存在すると空想されてきました」
博識なハウゼルが開拓史を述べると、祥子が口を挟んだ。
「これって、大きな確率変動の塊とみなせるよね」
「そうです。この空白はヤンガードライアス彗星によって生じたものです。地球の自然は『環境破壊』といった邪悪な概念を『知らず』に生きてきました。そこに『二足歩行の動物による創造神話』が激突したのです。『ショックを忘れるために』世界の自然治癒力が働いて前人未到の大陸、換言すれば巨大な空白域が準備されたんです」
眼鏡っ子が締めくくるとハウゼルは腕組みした。
「フムン。つまり、南極大陸は新品の記憶媒体。どっかの馬鹿が彗星を用いてアカシックレコードを吹き込もうとしたけど、書き込み失敗している。そういうこと?」
「概ね、あっています。終末期異論人にとって南極大陸は頭痛の種です。彼らは宇宙のエンディングを観賞して都合よく解釈するしかないのですからね。そこでホウ素12Λで重石(おもし)をしたのでしょう」
「アカシックレコードに予期しない挿入歌を収録されては困るってわけね。それで、提督。どうするの?」
ハウゼルの問いにハーベルトは一言で答えた。
「忘れないでね。私たちは重水素二量体操演者(ダイマーダンサー)よ」
◇ ◇ ◇
一寸先は闇か蒸気か。湯けむりに少女と大人の嬌声が渦巻いている。ドスンバタンと鈍い音が響き、石鹼箱やタライが乱舞する。
「やめてったら! そんなもの塗ったらボクは一生男子になれないじゃない」
卍固め(まんじがため)をかけられて悲鳴をあげる祥子。ハーベルトは相手の足を薙ぎ払い、組み伏せた。
「ほ~ら、観念しなさい。男子になるのは大変なのよ。苦しいホルモン療法を受けたり、痛い思いをしなくてはならない」
ハーベルトはそう言いながら、祥子の脚にクリームをたっぷりと塗り込んだ。
「ひどいじゃないか。ボクの脛を剃るなんて!」
祥子の嘆きを聞き流しながら、脚の産毛を洗い流していく。
「ラジウム放射性物質入りの脱毛クリームよ。毛根までピンポイントでばっちり殺してくれるの。はい、おしまい。ほーら、つるっぺたの肌美人~♪」
ハーベルトはうつぶせになったままの祥子にシャワーを浴びせた。ツルツルの禿天使を中心に毛くず入りの泡が広がる。
「いいこと? 無理やりに体を男子にしても永く生きられないのよ。ホルモンバランスが崩れて鬱を患った挙句、自殺する人もいるの」
さりげなく怖い話をすると、祥子がガバっと跳ね起きた。そして、青ざめたまま、浴室を出た。
ハーベルトは異世界逗留者たちにピッタリとした全身タイツを支給した。顔以外はつま先から頭頂部まですっぽりと覆うタイプだ。翼とエルフ耳を出す穴が開いている。
「キャットスーツというのよ。今回のミッションはワールドノイズの荒波をもろに被る危険な任務なの。そのための防護服」
ハーベルトは裸体をピッタリとフィットさせ、その上からアンダーショーツを履いた。
「は、はいてない状態で着るの?」
祥子は半べそを書きながら、キャットスーツに足を通す。
「そうよ。余計な繊維を身に着けているとワールドノイズと共鳴してしまうの。ほぉら、死ぬまで美人さんなんだから、淑やかにしなさい」
「だってさぁ、ボク……」
二の足を踏む祥子にハーベルトは無理やり旅人の外套一式を着付けした。
■ ラーセンマグナコア 南極大陸 成層圏
双頭の鷲を詐称する悪性国家は漁夫の利を得ようとオオガラスを白夜の雪原に放った。
「こちら、オオガラス46。枢軸の砕氷船が間もなくロス海に到着する」
「連合国軍総司令部。オペレーション・ハイジャンプ・マックスモアの最終フェイズを発動する」
飛び交う量子暗号の遥か下ではステイツ海軍南極開発大隊、通称|VIXEN6《ビクセンシックス》が包囲網を狭めている。
コード1946、獅子月。当時の米海軍少将リチャード・バードは4700名の兵力を南極に派遣した。埋蔵資源の航空調査という大義名分に隠された本当の狙いはナチスの南極地下空軍基地を発見し壊滅する目的だったという。彼らは三か月かけて広範囲を測量し、地磁気のデータを収集し、氷洞を探し求めた。
斥候を直接指揮したバードは6機の飛行艇に地下施設を探る最新の磁気探知機やカメラを装備した。任務の終了間際にエンジントラブルが発生した。バード少将と僚機は搭載貨物を捨てて撮影済みフィルムだけを持ち帰った。残りの四機は行方不明になったと公式記録にある。しかし、実際は突如出現したナチスの円盤に奇襲され、操縦不能に陥った。結局、彼と部下一人が命からがら逃げかえったという。
彼らの身に何が起こったかは明白である。
そして、現在、当時と同一のイリュージョンが南極横断山脈を越えている。
「パンセ・ドゥーリットル。メタンハイドレートどもが騒ぎ出すまでバカの頭を押さえておけ」
リチャードバードの残留思念は撃墜された四名を従えて熱力学第二法則の底から帰還した。
「早くチャン・ゴック・カイのパターンを撃たせてください。リメンバー・サンタモニカ」
少女はパフの操縦席でその時を待ち望んでいる。レーダーには異世界水路を包囲する空母機動部隊が照らし出される。彼らは砕氷船に手ぐすねを引いている。
「そう焦るな。ダッチマンはまだ気球から観測データを受け取っていない。我々が妨害しているからな。遮断周波数はワールドノイズと紛らわしい。気が熟したら妨害を止める。同時にパターンを放て。奴は南極石の限りを尽くして暫定王者になろうと目論む。そのためには効率よく世界の支配構造を飲み込まねばならん。まずは女尊男卑社会の枢軸だ。倒して秩序を再構築するより、屈服させるだろう。その瞬間に隙が生じる」
「わかりました。ですが、ハーベルトが勝てばどうなりますか」
「同じことだ。トロイメライはパールヴァティの現実に打倒されるのだ」
バード少将は高らかに笑った。
■ ドンファン池
「さすがに寒くなってきたわ。機関車に戻っていいかしら……」
望萌はTWXに戻ろうとして魔王に引き留められた。ガラスケースは沸騰と冷凍を数え切れないほど繰り返し、限りなく体感温度を下げていく。彼女はアンダースコートに一分丈スパッツを重ね、ハーフパンツを厚着していたが、外套効果が追い付かない。ついに網タイツとドロワースを追加した。それでもむき出しの膝が震える。
「もうじき魔王に嫁ぐというのに、我慢できない女だな。世界を掌握すれば気候変動など意のままになるぞ」
ヨーゼフはいらだち気味に嫁をなじった。観測データが届く時刻はとうに過ぎている。
「地球が丸いかどうか、たちどころに判明するんじゃなくて?」
アンダーショーツ一枚に剥かれ、逆さづりにされた純色が挑発する。
「臨界まで幾分もないぞ。俺の確率変動が黴菌どもを打ち負かしたら、駆け引きは強制終了だ。そうだろ? 宇宙人」
ヨーゼフは出方を変えた。強情な運命量子色力学者を揺さぶるための卑怯な手段がある。
「純色、私に構わないで」
エリスが男の意図を見抜き、先手を打った。だが、彼はにこりともせず、ガラスケースを突き付けた。
「宇宙人の解剖標本と氷漬けサンプル。どちらもお好み次第だ。もっと細かい注文も聞いてやりたいが時間がない。どうするね? 邨埜純色」
その言葉に純色は背筋を凍らせた。
「まさか……わたしに責任転嫁したいの?」
恐る恐る尋ねると、ヨーゼフは口笛を吹いた。
「俺としてもヤンガードライアス彗星に盾突くジャンヌダルク姫を殺めたくない。つまらない維持は捨てて、俺たちのファミリーにならんか? 望萌と四人で仲良くやっていこうじゃないか?」
彼は望萌に命じて瀟洒な邸宅をコルヌコピアさせた。SF映画に出てくるような頑丈なドームが風雪をしのいでいる。透明なガラス越しに花が咲き乱れ、ボルゾイ犬の仔が庭を駆けまわている。
「なぁ。エリスをゆっくり養生させてやろうぜ。望萌も寒いだろう。室温は25℃にしてある。さぁ……」
「そんな甘言で私がなびくと思っているの?」
純色は安っぽい誘い掛けをきっぱりと拒絶した。
すると、ヨーゼフはますます嫌な男を演じた。
「甘言? そうですね。邨埜純色先生。あなたは人の絆が世界を纏める。確か、セミナーでそう仰った。世知辛い世の中を?」
純色は押し黙ってしまう。
「いいえ。人の情けは世にある時ですよ。甘い考えだと馬鹿にされてきた恒久平和は人と人の絆から始まる。先生。僕はそう教わりましたよ。平和の原資は安全欲求の満足で齎される。僕は弱者救済。社会福祉こそが出発点だと考えます。だから、たった一つの権力が平等な権利を支配する。こんな素晴らしい先生の教えが理想論を導いたんです。なのに、あなたはプライドでそれを破壊する」
ヨーゼフは女を泣かせる天才だ。こんな正論をぶつけられたら感情の糸がぷっつりと切れてしまう。
「わああああああああああ!」
その号泣を凛とした声が断ち切った。
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