【サブタイトル】
世界文明瀑布(グレートスタジアンアビス)最終話 終着駅・トラピスト・ワン
■ ディグロッケ
「待ってよ! ハーベむぎょ……!!」
TWXのドアが開くと同時に肌を切るような風が吹き込んだ。祥子はそそくさとセーラー服を襤褸切れに変えて、ハーベルトの後を追う。
裏返しになった世界地図が横たわっている。そこにポツンと引かれた細い糸がTWX1369の一編成だ。
列車を一歩離れると、そこはもうシュールレアリスムが支配している。
二人はディグロッケが稼働している空域をめざした。
。
ラーゼン・マグナコアの南極大陸。いや、もうそこは確率変動の嵐に浸食されて、抽象概念しか残っていない。地名から連想するステロタイプなイメージが残像として漂っている。視界を閉ざすブリザードに白く輝く氷山。万年雪を被った山脈が時おり黒い地肌を露出している。そんなありきたりな舞台装置がお膳立てされていた。
ディグロッケは書き割りのような現実に浮かび、力強いリアリズムを誇示していた。いぶし銀に輝くボディから重厚な機械音が周期的に響いていて、ティッセンクルップの鉄工所を見学しているような重量感が伝わってくる。
接近するにつれ、重低音が荘厳な賛美歌に聞こえてくる。ディグロッケは宇宙の叡智そのものを奏でる梵鐘だ。
雲一つない真っ赤な空をアクロバットチームのように二人のハゲ天使が曲芸飛行をこなしている。ディグロッケに近寄ることは可能でも乗り移るとなると難易度が三桁跳ね上がる。周囲の轟音を響かせながらゆっくりと高度を下げている。と、おもいきやまるで掃除機に吸い込まれるように急上昇する。ハーベルトは舌打ちすると、大きく翼を広げて羽ばたく。確率変動の嵐はTWXの外套効果と衝突してフィールド内部に予測不可能な気流を巻き起こしている。二人が呼吸して羽ばたく事が出来るのも外套効果のおかげだ。呼吸可能な大気を与圧している。トワイライトエクリプス号の機関車ではデ出力が足りず、ディグロッケを外套効果で丸ごと包み込むことはできない。
「ハウゼル。列車を横付けしちゃえ!」
向かい風に必死で逆らう祥子。顔に風を受けて息が苦しそうだ。
「駄目よ。ディグロッケのトラウトタービンが量子ホーキング蒸気機関に干渉するの。距離を置かないと異世界軌道から脱線してしまうわ」
ハーベルトはダイマー能力を振り絞った。咆哮/熱病ネットワークノードをディグロッケめがけて絡みつけるが、投げ縄のようにはいかない。何度やってもすり抜けてしまう。
「ハーベルト。ぐずぐずしてるとバード少将が行くちゃうよ」
祥子に言われるまでもなく、ハーベルトは索敵レンジの隅に編隊を捉えていた。もうすぐ、見えなくなる。
「いちいち、指摘しないで! やっぱり直接内部から制御して軟着陸させるしかないの。ランデブーを続けている暇はないわ!!」
バーベルトはとうとう強硬手段に出た。
「祥子、もう一度だけネットワークノードを投げるわ。絡みついた瞬間に手繰り寄せて」
何を思ったのか、ハーベルトは必死に追いすがりながらも、意識を一点に集中している。
諦めの悪い彼女に祥子が噛みついた。
「同じことだよ。ハーベルト」
「余計なこと言わないで、ノードを引っ張って。合図するわよ!」
ハーベルトは物凄い剣幕で両掌から極太の光条を放った。ぐん、と空気が震え、数十メートル先のディグロッケが傾(かし)いだ。
「今よ!」
タイミングを合わせて祥子がグイっと招き寄せる。か細くきらめくノードは蜘蛛の糸のように心細い。何を思ったのかハーベルトが祥子の腰にしがみついた。
「わあ。ハーベルト。切れちゃうよ」
ネットワークノードを固く握る祥子。ハーベルトと一緒に天動説の観測者となる。ぐるぐると回る夜空に幾つもの星が円弧を描く。
「無用な心配はしないで。カンダタじゃあるまいし」
「そんなこと言ったって! 重いよ、ハーベルト」
祥子は思わずノードを手放した。
「行くわよ!」
ハーベルトは反動の勢いを利用して、祥子を虚空に放り出した。悲鳴をあげながら遠ざかっていく祥子。その先にいぶし銀の尖塔が聳えていた。
◇
ディグロッケの内部はさながら小さな発電所だ。高さ5メートルの強化陶器(テクタイト)で覆われたドームを一本の軸が支えている。その基部から蒸気が吹き上がり、ピストンがピアノを連弾するようにせわしなく伸縮している。軸には二つのシリンダーが付属していて、雷光が滝のように流れ落ちていく。
「すごいや。ハーベルト」
祥子は、スチームパンクと無機質なサイバーパンクが折衷した装置類を名画のように鑑賞している。
「ドイッチェラントの航空宇宙工学は世界一よ。ディグロッケはチェコスロバキアで親衛隊長ハンス・カムラーが製造させたのだけど。反重力を実用化する前にベルリンが陥落したの。それを国立研究所(アーネンエルベ)が苦心惨憺したの」
ハーベルトはそらりと触れると、作業に取り掛かった。ディグロッケを墜落させるには難しいスキルは必要ない。軸を支えているトラウトタービンを停止するだけでいい。これは、オーストリアのヴィクトル・シャウベルガー博士が発見した原理を用いている。万物は水から成っており、自然界は渦を巻き、脈動する生命力に満ちている。特に樹木は天然の蓄電池である。言われてみれば祥子が見上げているトラウトタービンの主軸も稲妻の枝葉を茂らせている。彼女の視界に虎縞のステータスウインドウが開いた。紫がかった水銀体温計のようなゲージが縮んでいく。
「祥子。ゼーラム525の残量を読みあげて」
「525って銀色のこれかい? 君も同じものが見えてるんだろ?」
「ぼんやりとしか。アドルフの血縁者なら彼の執念が補正してくれるはず」
ハーベルトが言う通り、滲んだ数字がくっきりと読み取れた。
「4297 6908 55X8 09……」
祥子が棒読みする。
「もういいわ」
ハーベルトは途中で遮り、壁際の端末を叩いた。ディグロッケの内壁が鮫の鰓のように開いた。静かだった船内に外気が逆流する。
「うわっ、何なんだよ。キミはゼーラム525をどうしようというの?」
怯む祥子をハーベルトがシリンダーにベルト固定した。
「ゼーラム525はディグロッケの燃料よ。過酸化トリウムとベリリウムの混合物。前者は放射能(アトム)レンズの原料に使われるの。別名ズミクロン(Summicron)レンズといって、抜群の屈折率を誇る。空気さえも写すと言われるわ。そして酸化ベリリウムは強烈な触媒になるの。同じ燃料でも8倍近いの燃費をたたき出す。口で言うより目で確かめて」
彼女が言い終わらないうちに、世界はオレンジ一色に染まった。旅人の外套効果が無ければ二人は素粒子に還っていただろう。ゼーラム525の爆発的な燃焼が、ディグロッケの内側にエネルギーを招き寄せ、ディグロッケそのものが台風の目となった。
想像を絶する加速力が二人の骨をメキメキと鳴らす。
「ハーベルトぉぉぉ。死んじゃうよぉぉぉ」
「トラウトタービンを分離するわ」
ディグロッケの中心からお神籤を引くように軸が飛び出す。分離した本体はアカシックレコードに叩きつけられた。核実験かと思うほどの爆炎があがり、南極大陸の回転に弾みがついた。
「うわあああああああああ」
祥子を人柱にしたまま、トラウトタービンが召喚門(ポータル)を駆けあがっていく。
「祥子、もう少しの辛抱よ。見えてきたわ」
視界にバード少将の機体を捉えた。祥子の手を引いて、ハーベルトは虚空へ躍り出る。
「――?!!!!」
リチャード・バードは肝をつぶした。さかさまになった悪魔の顔が二つ、窓ガラスに張り付いている。逆三角形の三白眼に尖ったロバの耳。ツルツルの頭。痩せこけた頬。病的な顔色。この世のものとは思えない。
「悪魔とは失礼ねっ」
明後日の方向から反論されて、彼はますます震え上がった。磁気測定器が悪魔の怒りを代弁している。
「お、お、お前は」
「トロイメライよ。一度だけ言うわね。引き返すなら今のうちよ」
「化けの皮が剝がれおったか。立場を弁えろ」
バードは途端に手のひらを返した。
「わたしを悪魔だと見くびっているのね。いいわ。造物主の座を望むのなら、そうなさい。神の特典には致命的な負債がついているの」
ハーベルトは支配欲にとりつかれた男を哀れんだ。
「な、なんだと? そんな馬鹿なことがあるだろうか。神は全知全能にして唯一無二なおかつ至高ッ!! 借りなぞ作る相手はおらぬッ!!!」
バードは有頂天に達した。ラーゼン・マグナコアの分裂が不可避となり、ワールドノイズが亀裂を輝かせる。確率変動の嵐が晴れた。雲の切れ間や端から光が漏れ、光線の柱が放射状に降り注いでいる。聖なるベールの向こう側を、彼の機体を中心に七つの使徒が飛翔している。
「ハーベルト。行っちゃった……」
祥子がなすすべもなく見送っていると、ハーベルトが囁いた。
「負債の勘定科目を知りたくないの?」
「ボクにはどうでもいい話。おっさんに悪魔呼ばわりされた方がショックだよ」
祥子は緊張の糸が切れたのか、目を潤ませ、鼻水をすすっている。
「早く帰ってお風呂に入りましょう。湯冷めしないうちの小悪魔メイクを教えてあげるわ♡」
「ふ、風呂は嫌だよ。フロはメンドウクサイ」
祥子は手間がかかる翼の洗浄を嫌がった。女が長い髪を洗うように専用の櫛でブラッシングして、二度リンスしなければならない。ツバサジラミも駆除する必要がある。
「駄目よ。わたしが洗ってあげなくても、一人で出来るようにならなきゃ」
ハーベルトは少将の行く末など他人事のように祥子と接した。
と、その時。
ネットワークノードが二人を強引に連れ戻した。TWXに転がり込むと同時に汽笛が鳴る。
「ラーゼン・マグナコアが爆散します。座席についてください」
ハウゼルが列車を急発進させた。
「迦陵頻伽(かりょうびん)が偽神に制裁を加えるようです。トラウトタービンが輸送機編隊の直撃コースに乗っています」
レーダー監視員がバード一味を追跡していた。立体映像が車内いっぱいに広がり、彼らの怯える様子が生中継されている。
「ねぇ、ハーベルト。これがキミの言ってたツケ?」
祥子が振り向いた瞬間、バードの顔が閃光に呑まれた。
「そうよ。全能者は全能者であるゆえに負債を抱えているのよ。世界を成立させる手段として、世界そのものに付属している。言い換えれば世界の人質として全能者の業務を強いられている。これが借方科目でなくて何なの? うふ、うふふふ」
ハーベルトはディグロッケという最高峰のメカニズムに触れた喜びに思わず笑みがこぼれる。
「量子レーダーから連合のワールドクラスが消失しました。多量の幽子情報系を検出。キャラクターロストを確認!」
ハウゼルのアナウンスに機関車がどよめいた。
「雪だ。ハーベルト、雪が降ってるよ! 悲しい雪だ!!」
祥子はシュワニーシーの惨劇を思い出して車窓から目を背けた。
「だいじょうぶ。不幸中の幸いというのかしらね。厄介者のおかげで迦陵頻伽が無事に孵ったわ。あれは酸化ベリリウム。猛毒よ。それ自体が世界をデトックスしてくれる」
ハーベルトは祥子の目じりを親指で拭ってやった。
「ラーゼン・マグナコアの人々は無事なんだね、ハーベルト。よかった……でも、風呂には入らないよ」
機先を制されてハーベルトがずっこける。
「入れません。コンパートメント・カーのシャワーで我慢してください」
ハウゼルが困った顔をしている。
「貴女(あなた)ねぇ……」
ハーベルトが列車長の神経を疑う。すると、ハウゼルがこう答えた。
「帰れないんです。運航ダイヤが設定できないんです。コード2047の地球が……」
「そんなバカなことはないでしょおお?」
ハーベルトが運転台に駆け上がり、自動列車制御装置を確認した。
「終着駅トラピスト・ワン? そんな駅は枢軸特急の路線にないわ」
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