針鼠の恋愛事情(グリーパス・スタン・アマルガムハート) ②
■ コード1986世界(承前)
腹立たしいことに連合側の機転によって窮地を脱したハーベルトであったが、その事後は芳しくなかった。自爆処分により枢軸特急を失った異世界逗留者は暫くノーザンプトンに足止めを余儀なくされた。異世界を渡る交通手段は他にないこともない。だが、あれだけの混乱を巻き起こした以上、ワールドノイズの喧騒はとうぶん止みそうにない。ジルバーフォーゲルや伊四百改潜水艦は枢軸特急以上の踏破能力を持っていなかった。ドイッチェラント本国から救援が来るまでは身動きが取れない。
甲板上ではめいめいがカナッペで腹ごしらえしていた。ハーベルトがホムンクルスに作らせたものだ。
蜂狩は古くから開かれた港であり、洋菓子メーカーが集まっている。そのせいかパンも美味い。
「ま~ど~にかなるでしょ」
ハーベルトは余裕しゃくしゃくでトーストを嚙みちぎる。
「藤野さんはどうなってしまうの……」
仲間の安否を他人事のように扱うハーベルトに対して荒井吹雪はかなり反感を持った。その懸念を和らげようとハーベルトは静かに答えた。
「わたしに言えることはドイッチェラントの境界領域心理学は世界一ってこと。フライブルク大学では医学・哲学・神学・心理学の最高権威が教鞭を執っている。物質界における意識の役割を探っているの。祥子は絶賛分析中よ」
吹雪の顔がパッと明るくなった。
「じゃあ、調査結果を元に……助かるんですね!?」
何が何でも否定させまいと強い口調で同意を求める。それほどまでに師弟の絆は深い。
「それは学者達の腕次第。でも、祥子は形はどうあれフライブルクで生きていることは間違いない。今、この瞬間も」
それは期待に反して吹雪の心にぐさりと突き刺さった。ハーベルトとしてはどんな形であれ生きていれば未来へ希望が繋がるという意図を込めた励ましだった。だが、相手はオブラートに包んだ言い回しを冷酷に受取った。
コード1986のマスコミは、事あるごとに負傷者の容態を「命に別状はない」と表現する。その言葉の裏には厳しい現実が隠されている。良くて寝たきり、下手をすれば植物状態である。つまり、命だけは助かったのだ。ありがたく思えというニュアンスだ。
「――学校へ戻ります。説明会がありますので」
荒井吹雪はそう言い捨てると波止場でひとりタクシーに乗り込んだ。
■ ドイッチェラント フライブルク大学境界領域心理学研究所
かのヒトラーは存命中に人類最終試練について幾つかの予言を残した。二十世紀の終わりまでにUBER(ユーバー)、すなわち超人軍団が地球に現れるというのだ。この超人とは超能力者に他ならない。第六感だけでなく念動力や瞬間移動など一通り揃えた、歩行兵器としての人類である。
彼はまた、こうも語った。
「諸君、余は我々が将来的に保持する究極兵器についておぼろげではあるが細菌やウイルスの類だろうと教えてきた。今ではずっと強力な将来像が見えている。心理兵器や意思兵器だ!」
「それはどのようなものでしょうか。もっと詳しく知りとうございます」
熱心な部下に気をよくしたヒトラーは興奮気味に語った。
「よし! 特別に教えてやろう。それは電磁波で『我々自身の意思』をそのまま兵器にするのだ。それは敵に命令し、完全に無力化させ、我々の望むとおりに操縦する。軍隊のみならず、人類全体をそのように出来るのだ」
「では、連合国が躍起になって開発している原子爆弾など無用の長物に?」
「そうだ! 戦わずしてあらゆる敵を、人類全体を支配できるのだ!」
さて、コード1986とは異なる時間軸を歩む世界においてもナチスの秘儀的研究は行われている。端的に言えばアドルフ・ヒトラーは生誕せず、ワイマール憲法も停止されなかった。その代わりにエルフリーデ・ハートレーとフランチェスカ・ローズバードという二人の女傑を輩出した。紆余曲折を経て総統の座に就いたエルフリーデは、降霊術が盛んだったドイッチェラント人らしくオカルトに傾倒していった。
開かれた大学の敷地内。沼地の一角にそれはあった。
境界領域心理学研究所はジメジメした蒸し暑さの中にありながら、次元を超越した冷気を帯びている。白亜の殿堂はガラス張りで見た目が清潔そのもの。だが、どこかしら虎視眈々した狡賢さが透けて見える。建物の裏に回ると曲がりくねった配管に霜がついている。高圧コンプレッサーが地下深くに液体窒素を送り込んでいる。ドイッチェラント軍が大阪湾で回収したエメラルドグリーンのエネルギーは絶対零度近くまで冷却されている。吹き抜けになった研究棟に硬化テクタイト製の透明チューブが鎮座している。そこに病的な光が渦巻いている。
端末に幾何学模様がいくつも浮かび上がった。そこからニョキニョキと矢印が生えて数式に行き当たる。
「ほぼ仮説を実証できそうです。やはり、ハイパー核は意識の表層を模倣していると考えられます」
若い助手が早口でまくし立てた。
「焦るな。確実な証拠をそろえねばならない。まだ時期尚早だ」
プロジェクトチームのリーダ格らしき初老の男は慎重さを求める。向かいの列から甲高い声が聞こえた。
「先生ー。こっちを見てください」
女学生に手を引かれて彼女の席まで教授がヨタヨタと足を運ぶ。
「おおっ!」
彼は老眼鏡を用いるまでもなく、13インチ液晶モニターの中に不自然なきらめきを見つけた。まるで銀河だ。
大宇宙に星々が渦巻いて、真っ逆さまにこぼれ落ちる。
「君、あのエネルギー体から初めて具体的な映像を取り出せたんだ。これでリンドバーグに風穴があく」
教授が手がかりを得た喜びのあまり、年甲斐もなく飛び跳ねている。すると、女学生はかなり困った顔をした。対応次第に教授の名前に泥を塗りかねない。
「あの……申し上げにくいのですが、この端末、故障しているんです」
震え声を聞いて教授は素っ頓狂な叫びをあげた。
「何だと?」
「はい。ご覧ください」
女学生はまるで死体遺棄現場を案内する被告人のように老人を液晶ディスプレイの裏側に案内した。綿埃がたまり、接続ケーブルが麺類のように絡み合い、一種独特のジャングルを作っている。ねじくれたそれらを丁寧に解きほぐしていくと、金色に光る接続ピンが見えてきた。
「XDMIの線が抜けとるじゃないか!」
「そうなんです。なんだか、ピンが曲がっちゃってて、巧く刺さらないんです」
「確かにそうだ。じゃあ、その画面は何処から映像信号を得てるんだ?」
二人が首をひねっていると、四方八方から明るい笑いが聞こえてきた。
「「「何だ、何だ?」」」
研究所員たちは前代未聞の出来事にざわつく。パッパッと液晶テレビが次々と切り替わり、エメラルドグリーンの軟体動物に焦点を当てる。
「誘導放射だよ。ディスプレイ・ケーブルがアンテナの役割をして高周波を拾ってるんだ。そんなこともわからないの?」
軟体動物から緑色の横顔へ一瞬でチェンジする。
煽られた女学生は相手が祥子の形をした無機物だと知りながら反論する。
「聞かれるまでもないわ。それよりあんたこそどうやって発振できるのよ?」
祥子だったエネルギー体の周囲には枢軸じゅうからかき集めたありったけの電力を注いでいる。熱力学第二法則の壁は栄枯盛衰の理に従って際限なくエネルギーを浪費する。ならば、局地的に消費量を上回る力を注げば拮抗できるのではないかと教授は唱えた。
一時しのぎであるが、今までとらえどころのない現象を封じ込めておけるのだ。
いわば、リンドバーグ捕獲機(キャプチャー)とでも言おうか。机上の計算では短時間であれ、実現可能だ。
フライブルク大学は実験に際して、夜間待機電力を使うことで大総統の許可を得ていた。
それを『祥子』は楽々と覆した。
「無駄無駄無駄無駄。ボクはもう誰にもとらわれない、自由の身なのさ」
彼女は楽しそうにいうと、透明チューブにひびが入った。たちどころに警報音が鳴り渡る。
「ば、バカな! もっと圧(アツ)をあげろーー」
教授はうわずった声で供給電力の増加を命じた。こんなこともあろうかと、電力各社には非常時の電力融通を申し合わせてある。
「ダメです。これ以上は……」
女生徒がコンソールをたたく。電圧計はとうに振り切れて、針がメーターボックスに押し付けられている。やがて、ぽっきりと折れた。
「構わん! 焼き切れてもいい。やれーっ!!」
教授は施設の破壊も視野に入れた。今、電圧をさげたら荒野に猛獣を解き放つごとく標本が暴れ出すだろう。そこかしこで漏電し、チロチロと炎がケーブルを舌なめずりする。
ふっ、と拍子抜けしたように予期せぬ闇が訪れた。
突然の静寂に教授は状況把握できないでいるが、女生徒はほっと胸をなでおろした。
ふと気づくと、こぶし大の人面が彼女の眼前でゆらめいている。
「ヒッ――?!」
祥子は嘲るようにいう。
「ここで爆発してたんじゃ芸がないからね。エネルギーをあげるよ」
そういうと、部屋の明かりを消すようにあっけらかんと姿が見えなくなった。
研究等のドアが両開きになり、どっと寒気がなだれ込む。
「「液体窒素タンクに異常発生」」
「うわーっ! 俺はまだ死にたくない」
たちまち研究施設内に白い霧がたちこめ――永遠の静寂に満たされた。
■ コード1986 ノーザンプトン
「えっ? 祥子が逃げた??」
ハーベルトは顔面蒼白した。へなへなと脱力して身近なテーブルに座る。
そこへ緊急電が追い打ちをかける。
「境界領域心理学研究所が凍結しました」
ダイマー共有視野にウインドウが開き、ハーベルトは絶句した。
もがき苦しむ人々が氷の彫刻と化していた。
ハーベルトは焦らず騒がず援軍を要請した。
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