社会病理の対流圏(ヘヴンズドア・インサフェイス・オンフットルース)⑥ イルクーツクの戦勝虎
■ オージラ・バイカール市社会福祉事務所(ゾディアール)
イリーナが蜘蛛の巣をよけながら先導する。急な階段を昇った先には真っ暗な廊下が続いていた。両脇に鉄扉が並んでいる。白熱電球のコードは埃だらけだ。モーリアが壁際のスイッチを連打しても点かない。ジメジメしてかび臭い空気がよどんでいる。ずいぶん前から人の出入りが途絶えている。それが証拠に壁のカレンダーが黄ばんでいる。ここは本当に行政機関なのだろうか。いや、それ以前にここから生きて帰れるのだろうか。モーリアが不安を募らせていると、つきあたりの扉が軽快な電子音(メロディ)を奏でた。
「お入りください」
割れた声が退色したスピーカーから聞こえてくる。そこにも細かい砂が溜まっている。モーリアの心配が恐怖に変わった。
「わたし、もういい。帰る」
踵を返した瞬間、廊下沿いの扉が開いた。肥満体型の老女が帰り道を塞いでいる。背中まである白髪をひっ詰めている。
「あんたがモーリア・ペトロフかい?」
「は、はい」
蛇に睨まれた蛙のようにモーリアはこわばってしまう。意外なことに老婆は顔をほころばせた。イリーナが懇意にしているらしく、二人は談笑しながらさっさと部屋に入ってしまった。暖房の利いた部屋は外とは打って変わって整頓されている。福祉事務所長がサモワールから紅茶を汲んだ。清潔な茶器が並べられ、コバルトネットのティーポットがコポコポと湯気を立てた。
「まぁまぁ。新規の世帯受給なんて何年ぶりかしらねぇ」
フサーク所長の話によるとオージラ・バイカール政府は外国資本による労働力を呼び込むべく何年も前から福利厚生を急速に発展させる準備をしている。それがこの夏から軌道に乗り始めた。当局は社会保障に競争原理を導入し、社会福祉法人が乱立している。フサークも複雑怪奇な書類審査や理不尽な立入検査を繰り返し、時には賄賂やコネクションを使って、ようやく本格的な開設許可を取得できた。努力が実を結ぶまでずいぶんかかったという。
「この娘(こ)がマリーアと二人で申請しに来たのはいつの日だったかしら」
懐かしそうにバインダーを繰って書類を取り出す。イリーナの元妻は頬がこけた半病人だった。
「心臓周りの水抜きをやってから、あっという間だったわ……。いいの。あたしはこの子にマリーアの分まで生きてもらえれば」
イリーナは遠い目をした。重苦しい空気に耐えかねて、モーリアは口火を切った。
「あの……あたしの妻……内縁なんですけど、リュブヴィーの分も出るんでしょうか?」
生き死にがかかっているだけに、切迫した面持ちで尋ねる。
「ええ。もちろんですよ。大総統閣下の慈愛は必ずお二人にも届くでしょう。聞くところによると資本主義社会(ステイツ)では路上に餓死者が溢れているとか」
フランチェスカ・エフゲニー・ローズバードの失政は遠く離れた異世界に住むフサークの耳にも入っていた。噂によれば大統領本人は仰臥位で大統領令に署名することもままならず、有名無実化している。無能な閣僚が大統領の不調をひた隠しにしつつ、支えているが影響力の低下は否めないという。エルフリーデが福祉に力を入れ始めた理由は対米軍事費の大幅削減が可能になったからだ。
「どちらにせよ、まずは生活を安定させることよ」
フサークはモーリアにテキパキと空欄を埋めさせた。小一時間もしないうちにピカピカの受給者証が出来上がった。硬貨テクタイトでラミネート加工してあり、モーリアとリュプヴィーの仲睦まじい姿が表紙を賑わせている。モーリアがページを繰ると夢のような金額が記載されていた。衣食住に困らないどころか、半年に一度はちょっとした旅行に出かけられるほど余裕ができる。
「いいんですかぁ〜? こんなにもらっちゃって!」
モーリアが声を弾ませると、イリーナがしいっと唇に人差し指を当てた。窓ごしに表通りを見おろしながら戒める。
「あまり大きな声を出さないで。浮かれた表情も駄目よ。ちょっとでも悟られたらあなた、殺されるかもよ」
フサークはきょろきょろと落ち着かない様子で周囲を警戒し、声をひそめた。
「ちょうど、人通りが絶えているわ。貴女のお嫁さんはどこにいるの? すぐここに連れてきて」
さっきまでの和やかな雰囲気が一気に緊迫した。いったい何があるというのだろう。モーリアは不承不承ながら、追い立てられるように事務所(ゾディアール)を後にした。ロシア伝統の木彫りの窓枠で飾られた木造の建物。そのあちこちから刺すような殺気が飛んできた。
■ 社会病理の対流圏中央ステーション
同じ名前の通りは世界首都ゲルマニアやムルマンスクにもあるが、イルクーツクのメインストリートこそがカール・マルクスの名を冠するにふさわしい。市民はそう自負している。さらにその地名も異世界の数だけ存在するが、ヘヴンズドアのここは多元宇宙でもっとも賑わっている。中央広場の緑に囲まれた市場は新鮮な野菜や果物よりも淡水魚がみずみずしい。涼やかな噴水のしぶきが風に交じり、スカートからはみ出た膝を湿らせる。
「ねぇ。先生。来てごらんよ」
藤田祥子が乳製品の売り場で口のまわりをクリームだらけにしている。スメタナはロシア独特の調味料だ。酸化した牛乳のうわずみを乳酸菌で発酵させた食材で、肉料理や鍋物によく使われる。淡白でクリーミーな味わいが病みつきになるという。
「祥子さん。お腹を壊しますよ」
ハーベルトと別れてからは荒井吹雪が母親がわりだ。試食コーナーに張り付いた祥子をどやしつける。
「少しぐらいいいじゃない。先生のケチ」
祥子は名残惜しいそうに指でクリームをすくう。二人は散策を中断して駅前に戻った。本初始祖世界(ソースコード)行きの発車までまだ一時間もある。街を二分するアンカラ川沿いの公園に枢軸特急の停車駅があった。シベリア鉄道建設の功労者アレクサンドル三世像の裏手に島型プラットフォームがある。もちろん、有資格者限定。凡人には決して見ることのない異世界列車が到着する。
「祥子さん。お腹を壊したらどうするの? 化粧室にこもっている間に列車が来たら……」
吹雪がハーベルトの警句を引用すると、祥子がうんざりしたように言った。
「わかってるよ。この町で死ぬまで暮らさなくちゃいけないんだよね。応急修理のための臨時停車だから、TWX1369が二度と立ち寄ることはないって」
「あなた、女の子の身体のままイルクーツクで生きていける?」
吹雪は心配事を口に出すタイプだ。ヘヴンズドアは枢軸諸国の中でもかなり女性優位が進んでいる。男女比は一対千に近い。それは性別違和障害者にとって生きづらい社会を意味する。祥子は第一人称を維持できるだろうか。
「ねぇ。先生。とっても変なものがあるよ。あれは何だろう」
祥子は広場の中央にたたずむ彫像に興味を持った。
「行ってみましょうか」
荒井先生が女生徒と連れ立って歩く。
イルクーツクはシルクロードを結ぶ毛皮貿易の拠点で、建都されてからコード2047現在で四百年あまりになる。そのシンボルとしてイタチをくわえた黒猫の像が立てられている。いや、黒いトラがクロテンを捕獲したシーンだ。
「先生。これって、オスかな? メスかな? どっちにしても広場のど真ん中に設置するということは何か大事なことを訴えているんだよ」
「そうね。大抵は戦勝の記念碑よ。とくに始祖露西亜は夜郎自大な面があるから、これは戦争のシンボルとみて間違いないわ」
黒光りする猛獣は勝ち取った獲物をこれ見よがしにかかげている。ぐったりと息絶えたクロテンがボロ雑巾のようだ。バーベルという伝説の生き物だ。
「じゃあ、この子はきっと女子だよ。生まれたばかりの子供を食べさせるために必死なんだ。ボクにはそう見える。切羽詰まった母親は凶暴だもの」
祥子はふうっと長いためいきをついた。
「おかあさんになる自信がない。さりとて、オトコとしてやっていける勇気もない。『ボクはいつまでどっちつかずなんだろう』? きっと、ずっとそのままでいいのよ」
吹雪が見透かすように言うと、祥子は憤慨した。
「先生はやっぱり女だ。冷血だね」
祥子がポツリというと、女性が語り掛けてきた。『そんな悲しいことはいわないで。私はあなたという男性が好きです』
「え?」
慌てて振り返ると誰もいない。強いて言えば彫像の方向から声が聞こえた。まさか。
一方、先生は冷血漢と言われて深く傷ついた。落ち着いた中年男性の渋い声に魅かれて、彼女は彫像の向こう側へ歩き出した。
右腕をラリアット技を繰り出すように空中に突き出し、体を傾けたまま独り歩きする。その滑稽さに大勢のイルクーツク市民が立ち止まった。
いっぽう、祥子も顔を赤らめながら広場を出た。二人とも誰もいない空間に向かって独り言をつぶやいている。
その頃、駅で列車を修理中のハーベルトはダイマー共感能力で警報を受信した。
「リンドバーグ?! ここにですって?!」
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