後編③
■ 哮ヶ峯(現実世界)
夜の山麓にサイレンが鳴り響いた。
対空量子レーダーが飛行物体を捉え、防空システムが差し迫った脅威に反応する。
コード2047の大日本帝国は第二次対米開戦を間近に控え、厳戒態勢にあるはずだが、ミストラル戦闘機の一つも飛んで来ない。
しかし、ドイッチェラントの部隊は展開している。
鉄道連隊の工事作業車に加え、装甲軍団、高射砲、対空ミサイル陣地、武装親衛隊、特殊作戦群が万全を期している。
星ヶ丘市はマグマのるつぼと化し、死神が煉獄に笑うありさまだ。それなのに災害救助の手すら差し伸べれていない。
どうした事か。
全ての答えは哮ヶ峯山頂にある。巌(いわお)に刻まれている古今東西の神仏がめいめいのワールドクラスを主張していて、激しくせめぎあっている。及ぼす影響は半径二十キロになり、現実に対する特殊な浮力を発生させている。
――浮世離れしているのだ。
例えるなら印刷物に水を垂らすように。表面張力によって水滴は活字をひずませる。
そのゆがんで見える状態こそが、今の現実である。
水滴の下敷きになったオリジナルの現実がどうなっているか、リアルタイムに確かめる術がない。
あえて言えば、「たぶん、こうであろう」と確率論的に語るしかない。
オリジナルの現実が、あやふやな存在にすり替わってしまう。
だから、八咫烏は星ヶ丘市民を「異世界に投げ込む」などという曲芸が出来た。
オリジナル現実の哮ヶ峯は月の光に照らされて、静かな眠りについていた。急峻な県道を一台の四輪駆動車がひた走っていた。九五式小型乗用車、通称くろがね四起(よんき)と呼ばれる車種だ。若い女性将校がハンドルを握っていて、助手席に妻らしきワンピース姿が座っている。
「ねぇ、貴女(あなた)。なんともいい匂いがしませんこと?」
妻が女主人に声をかけると、車が急停車した。女主人は道端にしゃがみ込む。片膝をつき、太腿をあらわにした。
「そうだねキミ。これは苔桃(こけもも)の香りだよ。こちらに来てごらんなさい」
ビルベリーを詰んで妻に手渡す。
「あら、まあ」
彼女は女主人から青紫色の葉を受け取り、そっと嗅いでみる。月明りが鼻筋の通った顔を照らす。
「じつにかぐわしい。ああ、どういうわけだろう。今夜のキミはいつに増して美しい」
三価クロムの作用が女主人の瞳孔を開かせ、妻を絶世の美女に仕立て上げる。そっと腰に手を回そうとすると、妻が身を引いた。
「ねぇ、あなた。本当に戦争が起きるんですの? わたくし、心配ですわ」
女主人はやれやれと肩をすくめる。
「軍機なのでなんとも言えないがね。生まれてくる娘が健やかに育つように御国(みくに)を護り抜くしかないのさ」
妻はひらりとめくれあがった女主人のスカートと自分の下腹部を見比べる。膨らんだブルマの中に十六週目の長女がいる。
「そうですわね。上皇陛下のためにも元気な女子を産まなくては」、と哮ヶ峯の稜線を見やる。
その向こうに夏の星座が輝いている。
「そうだ。キミ。桃子と名付けよう」
唐突に女主人が提案した。
「モモコ? 藤野桃子。可愛らしい響きですわね」
「うん、モモコがいいよ。きっと聡明で誰からも好かれる娘(こ)になる」
そういうと、妻に寄り添った。
アルタイルとベガが三人の女性の未来をそっと見守っていた。
■ 哮ヶ峯(形而上世界)
「高熱源飛翔体、急速接近中」
接近警報が鳴り響くなか、ケンタウルス族の女傑が立ち上がった。
「るせぇ!」
迫力満点の声が一喝すると、しんと静まり返った。
「どいつもこいつも振られたオンナみたいにピーピー泣きやがって! あたいに対する嫌がらせかい?」
彼女が凛とした声を放つと、女子武装親衛隊員たちがフルフルとかぶりを振った。
瀬織津姫はそんなヒュロノメーに夫にはない魅力を感じたらしく、いつの間にか寄り添っている。
相手の前足をそっと何度も撫でている。二の腕には届かない。
女が恋愛対象の腕に触れるときは、恋人以上に位置付けている。そこが性的なアピールポイントだからだ。
「逆賊とはいえ彼はわたしの夫です。一思いに逝かせてあげてください」
瀬織津姫は複雑な表情をした。ニギハヤヒの処分は免れないとはいえ、納得がいかない自分がいる。
元はといえば、藤野祥子が来なければ伴侶を失うこともなかった。理不尽なことと頭でわかっていても沸々と憎しみが沸き起こる。
それをどうにか理性で押さえつけるが、女の感情に手綱はつけられない。
「毒矢の準備ができました」
ポニーテールの女性技術将校がジュラルミンケースを運んできた。アマノハバヤの縮小模型である。毒性が強いため、本物はロボットアームが握っている。
数十メートル先に設えた射出装置とヒュロノメーの弓が熱病/咆哮ネットワークノードでリンクしている。
「フン!」
ケンタウロスの雌が四肢をかがめ、矢を受け取ろうとした。
と、その時――。
「ぐはあッ!」
ヒュロノメーが白目を剥いて絶命した。どさりと巨体が横たわる。
その胸元には、模造の矢が深々と突き刺さっていた。ポニーテール娘の遺体が折り重なる。
■ TWX1369 戦闘指揮車両
「瀬織津姫が裏切ったですってぇ?!」
ハーベルトは開脚したまま椅子から転げ落ちた。スカートが乱れたまま、ヨタヨタと床を這う。
緻密に組み上げてきた起死回生策を想定外の力で突き崩された。
彼女は咄嗟の判断を求められているが、現場に返す言葉が思い浮かばない。
「鹽折(ヤシオリ)の酒を隠し持っていたようです」
サブモニタには秘密警察(シュターツカペレ)の鑑識官が映っている。彼女の手には血塗られた矢があった。
「アマノハバヤは無事だったのね?」
提督にかわって偽エリスが任務を代行している。
「容疑者にとっては無用の長物でしょう。彼女の憎悪は生身の人間に向いているわけですし」
現場指揮官の見解を聞いて、遥祐が上体を起こした。
「俺が殺ろう」
すかさず看護婦たちが押さえつける。
「だって、あなたは」
ハウゼルが運転台を降りて、加勢する。
「放せ! 非現実的存在は浮世離れした俺にしか殺せん」
「その体で何が出来るの?」
ようやく落ち着きを取り戻したハーベルトが遥祐を制止する。
「俺を魔法の龍だと知って蔑んでいるのか? 俺にはその覚悟が出来ているし、お前の切り札もわかっている」
彼は真剣がまなざしをハーベルトに向ける。
「でも、あなた……」
ハーベルトが二の足を踏む秘策を遥祐は見抜いているらしく、ずけずけと決断を迫る。
「つべこべ言わずにやれ! お前は『異世界逗留者(トルマリンソジャーナー)』なんだろう?!」
■ 生駒山脈上空 祥燕
「えええええええええええええええええええ?!」
祥子が素っ頓狂な声をあげるのも無理はない。ダイマー共有視野には息を呑むようなエルフ美女が佇んでいるからだ。
彼女は異世界逗留者だろうか。しかし、祥子と面識はない。
ハーベルトは引きつった顔で女を紹介した。
「新人のヨーコさんよ。束の間だけど仲良くしてあげてね♡」
ハーベルトの隣で美人が頭をさげた。
「嘘だろおおおおおおおお」
祥子が目を白黒させていると、可愛らしいピンクの龍が祥燕とランデブーした。背中にセーラー服姿のエルフ美女が跨っている。
「俺、いや、あたしのために矢を取ってきてくれないかしら★」
鈴を転がすような声で言われても、原型を知っているだけに吐き気がこみ上げてくる。
「だってキミは……おと……」
「祥子さんだって、オトコノコじゃない♡」
これって、ボーイズラブじゃないのか。あいにく、祥子にその趣味はない。
「わかったよ。キミがヒュロノメーの代役を務めるなら意義はないよ」
祥子は任務に集中することで感情を抑制した。
■ アマノイワフネ
「藤野祥子、死ねぇぇぇ」
本能をむき出しにしたアウトカムは理性の欠片も持ち合わせていなかった。
アマノイワフネは白熱した刃(やいば)となって、祥燕を追い回す。
間に魔龍が割って入り、懸命にかく乱する。
祥子は危険なタッチアンドゴーを試みて、みごとアマノハバヤを回収した。
右の翼下パイロンに吊り下げてある。
今度は祥子が対空火器でイワフネを牽制する。
和蘭坂ヨーコが魔龍を接近させ、取り外し作業を行った。
その柄を龍が口にくわえて、猛毒を塗った先端が何処にも触れないようにした。
三つの飛行物体が急旋回と乱高下をくりかえす。星々が彼らを軸にして激しく公転する。
漆黒を光の年輪が照らしだす。
彼らが墜落しないでいられるのは、コード2047世界のおかげだ。自然治癒力が異現象をみずがめ座流星群として扱っている。
「ヨーゼフ、いや、ヨーコさん。いつまでダンスを続けるんです?」
祥子は操縦桿を握る手に痺れを感じ始めた。機体だっていつまでも持たないだろう。
「もうすぐだ。祥子、人生の晴れ舞台が始まる。将来のためにしっかり見学しておけ」
新人乗務員がそういうと、魔龍がアマノハバヤを放り捨てた。
「えっ? それじゃあ、アマノイワフネは?」
祥子の疑問を瀬織津姫が解消した。煌びやかな衣を纏った姫君が重力加速度を無視して夜空を滑る。
彼女は荒ぶるアマノイワフネの進路上に立ちふさがった。
「瀬織津姫か?! 退かねば殺す!!」
当然ながらニギハヤヒは聞く耳を持たない。
すると、妻は魔法の言葉を繰り出した。
「あなたを愛しています」
「戯れ言を」
アマノイワフネから火矢が放たれた。
「瀬織津姫が死んじゃうよ」
祥子がスロットルに手をかけると、ヨーコが諫めた。
「痴話喧嘩は犬に食わせておけ」
「だって……」
祥子の懸念を打ち消すように瀬織津姫の心の叫びが世界を満たした。
「男だの女だの関係ありません。わたしはあなたの妻です」
「――」
ニギハヤヒは黙り込んでしまった。
「あなたが女性でもわたくしはいっこうに構いませんのよ。だって……」
瀬織津姫は言葉を切ると、視線を足元に投げた。
すると、夜空一杯に九十五式小型乗用車がクローズアップされた。
若い女性二人が睦言をかわしている。
「下界のお嬢さんたちをごらんなさいな」
そういうと、瀬織津姫はイワフネに乗り移り、アマテラスの口元を唇で塞いだ。
「そんなああああああ!」
濃厚なキスに祥子が釘付けになる。
「瀬織津姫と饒速日は夫婦だったんだ。それは七夕伝説に継承されている」
ヨーコがそういうと、翼を広げてセーラー服を夜空にまき散らした。
「ハーベルト、今のうちに斉射してくれ。俺は彼女たちを開放系エントロピーの彼方に連れて行く。扉が開いている今しかないんだ!」
そういうと、パフ・ザ・マジックドラゴンは瀬織津姫のもとに飛び去った。
「ハーベルト、どういうことだってばよ?」
困惑している祥子にハーベルトは教えてやった。
「ヨーコは究極の支配者になりたいのよ。織姫と彦星は恋人たちの憧れの的。それを見守る天の中心こそ究極の社会福祉者に他ならないわ」
ハーベルトはダイマー共有視野に星図を表示した。三つの光点が太陽系を離脱して龍座方面に向かっている。ちなみに紀元前二千六百九十年ごろ、北極星は龍座にあった。
ヨーコが形而上の覇者となることで、星ヶ丘市民の奪還も可能になる。神々が星座と地上を往復できる原理は未だ解明されていない。しかし、開放系にアクセスできる今ならば、転生者を虚構の世界から取り戻すことが出来るのではないか。
国立研究所(アーネンエルベ)の技術陣は一縷の望みにかけた。
ダイマー聴覚に極大射程織姫砲のカウントダウンが聞こえてくる。
「機織神社、エネルギー結節点、充填率十二割」
「座標補正完了」
「織姫と彦星の交合を確認」
「焦点合わせ、よし」
「開放系エントロピー機関、ゼンダン、チョッケツ!」
「虚実直行変換機、異常なし」
「異世界転生者の受け入れ準備、よし」
射撃統制士官が提督の承認を求めてきた。
ハーベルトはうなづき、偽エリスと八咫烏たちを見やる。
「おねがいです。撃たないでください」
縋りつくヒナの髪をハーベルトは泣きながら撫でた。
「前に進まなければいけないの。それに貴女たちは償わなきゃいけない」
「わたしたちはただ、書籍化したかっただけなんです。それが、こんなことに……」
嗚咽するヒナ。
「それに大総統閣下は貴女たちの協力に免じて恩赦を検討してくださるそうです」
ハウゼル列車長が欠員補充を強引に進言したのだ。アマノイワフネに追われたトラウマがある。それに機関士二人が褌一丁で釜を焚くなどという事態はまっぴらごめんだ。
ハーベルトがマイクを握った。
「ハーベルト・トロイメライ・フォン・シュリーフェンの名において発射を承認します」
セーフティーが解除され、天の川流域が閃光に包まれる。
親しい人を失って嘆き悲しむヒナをヨエコが慰めた。
「彼の事を書きましょう。書籍化間違いなしだわ」
ハーベルトがそんな二人を新しい乗務員として優しく抱きしめる。
「その前に貴女たちに執筆してもらいたい本があるの……
枢軸特急 トルマリンソジャーナー~異世界逗留者のインクライン
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