異世界逗留者のインクライン
■ わたしを月面牧場へ連れて行って
古来より人間は残虐非道の限りを尽くしてきた。とくに家畜という名の友人に対しては。彼らに少しでも霊感があり、祖先と交信する機能があれば直ちに悔い改めよと叱責されるであろう。しかし、逆に総スカンをくらうかもしれない。
二枚舌を巧みに操る人間の偽善にほだされて、つい心を許してしまった。そんな祖先の過ちを子孫は連綿と受け継いだ。そして、もう人間なしではやって身体になってしまった。どうしてくれるのかと。
それでも豚をひとたび野に放てば、黒々とした剛毛や牙が生え、立派なイノシシに先祖帰りするという。もっとも悲惨な家畜は蚕だ。何から何まで人間に依存した結果、繭を破る力は退化し、成虫は口吻の痕跡すらない。繁殖は人力で行われる。もはや、これは独立した種族といえるだろうか。
降霊術を極めて来訪者となった魔女は、自分が家畜と同じ轍を踏んでいることに気付いている様子もない。
エイトケン盆地に沈殿した形而上学的な免疫抗体は人類を巧妙に操縦してきた。人は困難に直面すると天を仰ぐ。解決不可能な難題の処理を神に委ね、生存欲求の充足を求め、身勝手な過失の免罪を乞うる。あまつさえ、自ら子羊という代名詞を使い、不可視の存在に隷属する。これを家畜と言わずして何と呼ぼうか。
知ってか知らずか、来訪者(まじょ)はシャクルトン・クレーターの住人に利用されていた。その事実を驕り高ぶった彼女は知らない
「何という狼藉を!」
宇宙規模のダイオウイカが単眼を血走らせる。触手をすべてうしない、成すすべもないままカプセルを奪還された。黄金色の牽引ビームが交渉パッケージをからめとり、スピリット・オブ・テキサスの胴体に収納した。
「アチチチ」
カプセルのハッチが開くと全身真っ赤に腫れたハゲ天使が転がり出てきた。右足首に焼け焦げたぱんつの残骸らしき物が絡まっており、危うく転倒しそうになる。
「衛生兵。祥子をICUに運んで」
偽エリスが駆け付けた看護婦と二人がかりで支える。祥子は体じゅうに一度以上の火傷を負っており、翼の羽毛もすっかり抜け落ちている。
「気の毒ですが、彼女はもう長くは……」
女医が一目見て祥子に余命宣告を下した。
「わかっているわよ! それでも前に進みなさい」
偽エリスが怒鳴ると、ストレッチャーが運び込まれた。スピリット・オブ・テキサスには野戦病院としての機能も備わっている。そのように設計されているのだ。
「何のために」と倉橋ヨエコが訊く。女医は今にわかるとだけ答えた。
爆撃機はシャックルトンクレーターのほぼ中央、マラベール山付近に達した。クレーターの南北両岸にこんもりとした丘陵が見える。希薄な大気が気の遠くなるような歳月をかけて侵食したものだ。そこにはモルダバイトが偏在しており、確率変動を集める電極として機能している。
ハーベルトがバイロイト祝祭劇場のオペラ歌手よろしく「牛泥棒の歌」を熱唱する。すると、スピリット・オブ・テキサスから鋭いネットワークノードが放たれた。
南と北の極に一発ずつ。
「何をする気だ?!」
来訪者はうろたえ、一瞬たじろぎ、身震いすると、急加速した。
「やめろ! 気でも狂ったかトロイメライ。それともお前は文字通り夢遊病者(トロイメライ)なのか?!」
錯乱状態に陥った外来異生物(アウトカム)がB2爆撃機の前途に割り込んだ。意図的な蛇行を繰り返して進路妨害する。
「愛しのクレメンタインを冒涜したお前が悪いのよ♪」
こぶしを効かせるハーベルトにハウゼルの即興が重なる。
「お前たちは何をしているか理解しているのか? 理性と感情の境界線を溶解しようとしているのだぞ」
来訪者は異世界逗留者に説得を試みる。しかし、ハーベルトはまったく意に介していない。歌いながらもダイマー共有聴覚で指示をだした。
「セルパ。この艦(ふね)に豊穣角機械(コルヌコピアマシン)は当然、積んであるわよね?」
「はい。爆弾倉に。インクライン計画のかなめですからね」
「諒解。予定よりかなり早いけど計画を前倒しするわ。いいでしょ?」
ハーベルトはここぞとばかりに白紙委任状をひけらかす。
「免疫抗体を退治したらどうなるのか、想像できないのか? やめてくれ」
まるで選挙戦のごとく来訪者は声を振り絞り、最後のお願いをする。
「想像力が乏しいのは貴女(あなた)のほうよ」
偽エリスがコンソールを叩いてクレメンタイン探査機に無慈悲な指令を送った。
「やめぽゅ!……」
ダイオウイカの虹彩にアルタイル月着陸船が突き刺さった。スピリット・オブ・テキサスが超生産(コルヌコピア)したものだ。
「ぐぬぬぬ!」
動物的な啼鳴がクレーター全体に響き渡る。もちろん真空に近い場所で音響は起きない。ワールドノイズのざわめきが宇宙を震わせている。
「さっさとここから立ち退きなさい。さもなくば人類(わたしたち)がここから宇宙進出(でていく)か」
ハーベルトが荒野の決闘を真似て、容赦ない選択を迫る。
「ま、待っ……」
往生際が悪い外来異生物にトロイメライ提督は冷静な審判を下した。
小惑星ジオグラフォスが白熱し、膨大な確率変動波がクレメンタイン探査機になだれ込む。偽エリスはそれを濃縮して、ホースで水を撒くように放出した。
クレメンタインが姿勢制御スラスターを吹かす。それに合わせて確率変動流の角度が変わる。すると、その先にある月面に火球が発生した。
みるみるうちに連鎖してクレーター全体があかあかと燃え上がる。目を覆いたくなるような逆光の中に来訪者の影はない。
「なんだか……あたし……とろけそぉ……」
偽エリスがぐにゃりと椅子から転げ落ちた。床に横たわったままセーラー服の胸元を緩める。
「何が起きているんれすかぁ?」
倉橋ヨエコも呂律の回らない。
「モルダャバイトは強烈なシーター波を発して、だゃ……らいのーを刺激するのよ」
スミン・クローネが言うには、アルタイル月着陸船はもともと火星着陸を想定して開発されていた。そのエンジン部分には工夫が凝らしてある。飛行士や着陸した後に必要となる水や食料の原材料を合成する装置が備わっている。
セルパたちはその豊穣角機械(コルヌコピア)的な機構を確率変動波増幅器として活用しようと企んでいた。
それがインクライン・プロジェクトだ。
インクラインとは列車や船舶を載せて運ぶ台車のことだ。日本では琵琶湖に浮かぶ船を陸にあげて淀川まで輸送する「蹴上インクライン」という施設が存在した。
異世界転轍者たちは人類を熱力学第二法則の向こう側へインクラインさせる計画に気の遠くなるような歳月を費やした。
しかし、エイトケン盆地の存在が運行阻害要因の一つになっていた。
神のごとき存在に盾突くなど夢想だに出来ないことだ。
しかし、ハーベルトの思い切った決断がNASAの遺産を有効活用し、小惑星ジオグラフォスにある可能性の泉をくみ上げた。
エイトケン盆地のモルダバイトが放射するシーター波はスピリット・オブ・テキサス乗員の側頭葉を刺激し、十二分にリラックスさせた。
精神の安定が招くものは何か。
理性の消滅と集合無意識の解放だ。
クレメンタインが旭日旗のごとく確率変動波を振りまく。すると永久影がひび割れ、透過光に呑み込まれた。
色彩も明度もない。純白の宇宙で漆黒のブーメランは空転していた。
最後まで正気を保っていたのは列車長である。彼女は禁欲主義の権化になれる。
「確率変動波、揺り戻しが来ます」
「ハウゼル。うまく波に乗ってちょうだい。この大波を逃さないで!」
ハーベルトが言い終える間もなく、B2は透明な津波に攫われた。
「それで何処へ向かえばよろしいのでしょうか。ランドマークがどこにも見当たりません。」
B2はソーラーエクスプレスを見失っていた。白夜よりも眩しい宇宙で太陽を識別できそうもない。
「目標が無ければ、新しい目的地を作ればいいのよ」
ハーベルトは南極探検家アーネスト・シャックルトンの名言を引用した。
「何を言ってるのよ。ハーベルト。ネルトリンゲンに戻るのよ」
正気を取り戻したスミンが促した。
「でも、ネルトリンゲンはどっちにあるの?」
ハウゼルが困っていると、トロイメライ提督が虚空の一点を指した。
「あそこよ。あそこにあるとしましょう」
「そんな、いい加減な」
スミンが当惑する。
「わたしもあそこにあると思います。何となく」
倉橋ヨエコがハーベルトの側に付いた。
セルパもうなづく。
「前進あるのみ。障害があればインクラインすればいいのですから」
スピリット・オブ・テキサスは白い宇宙の一点を目指した。
■ ネルトリンゲン(承前)
トーマス・エジソンはことの一部始終をアカシックレコードから読み取り、ほくそ笑んだ。
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