針鼠の恋愛事情(グリーパス・スタン・アマルガムハート) ⑩
■ ビロビジャン市内(承前)
ウーバーは市街地を縦貫するソヴェツカヤ通りを北へひた走る。車の左側には遠くの沼地が見え隠れしている。カーミラはフロントウインドウに映し出される地図を睨みながら車を走らせている。女二人とはいえ、アマラとカマラが後ろから襲い掛かればハンドルを奪う事など造作もないだろう。カマラは気づかれないように目配せで意図を伝えようとする。アマラとは新人研修会の間じゅうずっと寝食を共にした仲だ。ベッドの上でも蛍光灯の下でも一番大切な部分は通じ合っている。アマラはハッと目を見開き、すぐに顔を曇らせた。一瞬だけ運転手がバックミラーを見やった。感づかれたかも知れない。アマラが俯くと、カマラは僅かに首を振って懸念を払拭した。一か八かやるしかないのだ。
言い出したら聞かないカマラの性格をアマラは知り尽くしている。ベッドでいったんアンダーショーツを足首まで降ろしたら夜が明けるまで履かせてくれない。アマラはしょうがないわね、とあきらめ顔を返すと、カマラはにっこりとほほ笑んだ。
「ちょっと、何をコソコソやってるの?」
カーミラは開口一番、ダッシュボードのスイッチを押した。やおら、後部座席のドアが開き、二人は振り落とされそうになる。シートベルトが張り詰め、思わず目を閉じる。すぐさま、乱暴にドアが閉じた。砂ぼこりの混じった排気ガスが飛び込んでくる。アマラは露出している首筋の部分にヒリヒリした痛みを感じた。
甲高い耳鳴りが接近を繰り返している。うなじが猛烈にかゆい。カマラが反射的に爪で掻くとべっとりとした血が指についた。ゲホゲホと咽るカマラにアマラが指摘した。
「ひゃっ、あなた出血してるわよ!」
そういわれてアマラはゆっくりと掌を広げた。正直言って虫刺されなど些末事に思えた。身体が鉛で出来ているかのように思い。関節を曲げると感電したような痛みが走る。しかし、それもぬるま湯に浸かったような倦怠感に埋もれてしまう。泥のような眠りに押しつぶされそうになる。もう、息をしているのも面倒くさい。
「アマラ、どうしたの? アマラ!」
連呼する声が子守歌のように心地よい。「ねぇ、あまら! 私がわかる? カマラよ」
自分の名前を呼ばれている事すら理解できない。かまらって何だろう。
■ ビラ河川敷
社用族の一人が意識を手放したとたん、沼田コヨリのカロリーメーターが反応した。量子エンタングル端子を通して翡翠タブレットにサムネイル画像アイコンが二つ表示された。エンジンの音がする方向に振り向くと、細かい網の目ごしにオレンジ色のウインカーが点滅している。
ユーバーは砂利をゆっくりとふみしだきながら河川敷に乗り入れた。
地面がブルブルと震えてペットボトルロケットがいくつも射出される。それらは空中で弾けて、車をずぶぬれにする。
ツンと鼻を突くにおい。ピレスロイド系の噴霧剤独特の刺激臭だ。目がヒリヒリする。
「あらかた死んでると思うけど、刺されないように気を付けてね」
コヨリが声を嗄らすまでもなく、カーミラは完全装備の防護服姿であらわれた。
「これで本当に社用が……うわっ!」
蚊柱に行く手を阻まれた。怒鳴らないと意思疎通ができない。コヨリは蚊帳の中からタブレット経由でカーミラのバイザーに用件を表示させた。以下、筆談でのろのろと会話が続く。カーミラは社用族の処遇法を仰いだ。
「そのまま車に放置して。二人の意識に用があるの」
コヨリは人質をプロパガンダに使うと述べた。ピラ川の水鳥はウエストナイル熱に感染している。蚊がピロビジャン市民との間に円環感染を媒介する。刺された者が脳炎を引き起こすと脳内にセトロニンが過剰分泌される。すると薬物中毒と同じ症状を呈する。効率的に薬物禍を蔓延させることができる。
「それって無差別ですよね?」
「そうよ。いいの?」
運命量子色力学者が本気度を確かめると、カーミラは首を縦に振った。シュルルフまで巻き込まれることに微塵も呵責を感じていないようだ。コヨリは黙って次の作業に移った。川向こうの町全体がブンブンと唸りをあげている。この世のものとは思えないくらいだ。カーミラを別の蚊帳に避難させ、殺虫弾の洗礼を浴びせる。その一方でカロリーメーターを揮った。
藤野祥子のエメラルドグリーン波を珪酸ガラスイリュージョンに還元した方法を逆用してアマラとカマラの精神を複製する。そして、咆哮ネットワーク機器に改変した意識を流し込む。
すると、銃声がピタリと止んだ。
■ カフェテリア・ヴィエナ 従業員勝手口
むっちりとした太ももが網タイツに束縛されている。食い込む肉感がたまらない。超ミニ丈のセーラー服に網タイツ姿の集団が抜き足差し足で店の裏口を目指していた。
「ねぇ。銃撃戦が止んだみたいだけど?」
先頭を行く純色が真っ先に異変を察知した。
「壁の影響かしら?」
留萌が不安そうに言う。旅人の外套効果と全身タイツに保護されているとはいえ、これほど壁に近づくと、いやおうなしに緊張が高まる。突然、路地から銃撃された。留萌は軽い身のこなしで射線を避け、応射を叩きこむ。若い女が千鳥足で出てきた。フレアスカートを血で真っ赤に染め、銃を手にしたまま前のめりに倒れる。虚ろな目を開いたまま息絶えた。
「私たちが見えている。という事は……」
異世界逗留者か、霊能力者か、或いは人外魔境の住人だ。
「待って。早とちりは禁物よ」
留萌の懸念を純色がいさめた。慎重に遺体を検分する。血液検査をしてみるとセトロニン分泌量に異常が見られた。
「それにこの子、ウエストナイル熱の保菌者よ。どうやら同じ事を考えている奴がいるようね」
出鼻を挫かれた純色は潜入工作の抜本的な見直しを迫られた。
「原住民の潜在意識に働きかける作戦を学習している輩と言えば沼田コヨリ? でも死んだはずじゃ?」
ブレーズが摂津県オノコロ島上空での撃退作戦を引き合いに出す。
「それも攪乱かもね。ただ、敵が市民の思考波を利用するつもりなら、ドーピングの可能性も最初に想定すべきだった」
邨埜純色は攪乱工作を放棄して、火力で押す作戦を検討している。
「状況は把握しました。TWX1369とALX427でシホテリアニ隕石孔側から市内に波状攻撃を仕掛けます。至急列車にお戻りください」
ハウゼル列車長がダイマー共有聴覚経由で帰還を呼びかけてきた。
「こちらも準備万端です」
アムール川の重巡ノーザンプトンが挟撃作戦の準備完了を伝えてきた。地下のリニアコライダーも試験稼働を開始した。望萌は空母ライトの艦橋で魔改造F−18ホーネット部隊に檄を飛ばしている。純色の顔をヘッドライトが照らした。ビラ川のせせらぎに紛れてALX427が静かに忍び寄った。
「来るな!」
純色の視界を何かがよぎる。留萌が翼を開こうとして全身タイツの存在を思い出した。迂闊に空を飛べない。ALX427の鼻先にパあっと火の粉が落ちる。CIWS(近接対空システム)が蚊の群れに実弾をばらまいている。
「この!」
留萌たち異世界逗留者もダイマー能力や手持ちの火器で害虫駆除に加わる。多勢に無勢、異世界逗留者はじりじりと店の前を流れる川辺に追い詰められていく。枢軸特急との距離は開くばかりだ。留萌とブレース機関士が背中合わせで銃を構え、一分の隙も無くす。その間に同僚たちの退路を拓いた。
だが――。
「ブレーズ?!」
留萌は背中がふっと軽くなったのを感じた。機関士が白目を剥いたまま地面に転がっている。ブーンと言う耳鳴りが聞こえる。
「ブレーズ、ブレーズ」
ぐったりした乗務員を留萌が揺さぶっていると、車体を跳弾がかすめた。
「この!」
純色がカロリーメーターで応戦する。生い茂った灌木が赤々と燃え上がる。その照り返しを受けて沼田コヨリの姿が目に焼き付いた。傍らに完全防護服を着た人物が立っている。そいつは銃を構えなおした。
「この死にぞこない」
女はカロリーメーターを大上段に構える。
「フン。秘書の次はお前さ」
動じることなくコヨリがメーターを振り仰ぐ。
■ ビロビジャン中央駅大深度地下
ほの暗い休憩室の一角でハーベルトは氷枕に頭を預けている。
すると、懐かしい声が聞こえてきた。
「…ルト。……すけて……」
祥子の声で一気に現実に引き戻される。
「祥子なの?」
ハーベルトが呼びかけるとざあっと冷たい水が大量に降ってきた。
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