疾風の到達不能極(インレット)~ラーセン・マグナコア④シェリーメイ
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TWX1369が高度を下げるにつれて空調制御に支障が生じ始めた。おかしくなったのは室温だけでない。望萌はあるはずのない駅名をうわ言の様に連呼している。ハーベルトは衛生兵を呼びつけて、望萌の身柄を預けた。直ちに医務車両に連れていかれた。
「寒いわ……」
ハウゼル列車長がロッカーからオーバーを取り出した。それが呼び水となって異世界逗留者たちが更衣室になだれ込んだ。めいめいがコートを羽織ったり、アンダースコートにニットのアンダーを重ねたり防寒対策を施した。ただ、異世界逗留者はスキルの発動に支障が生じるため、パンツスーツで完全に脚を覆うことができない。そうこうしている間に室温が摂氏15度を切った。さすがにスカートに素足では鳥肌が立つ。
「ねぇ。何かないの?」
アネットに催促されてハーベルトはあちこち引っ掻き回した。何か引っ掛けるものと言われても大柄なステイツ女に合うサイズがない。調整せずに渡せるものといえばフリーサイズの二―ソックスぐらいしかない。
「こんなのどうよ?」
川端エリスがロッカーの奥からハーフパンツを取り出した。ジャージを膝下でカットしたような運動着で、本初始祖世界でコード2000ごろから流行し始めた。ポケットの刺繍を見てハーベルトはギョッとした。すっかり記憶から揮発していた名前が布地に踊っている。
「パンセ……」
彼女は言葉を失った。しかし、宇宙人のアーモンドのような瞳に睨みつけられて納得がいった。
「あなたねえ。どうしてこんなものを持っているの」
てっきりエリスの悪戯だと決めてかかるハーベルト。疑いの目を向けられてエリスは挙動不審に陥るどころか、心配そうな顔をする。「どうかしてるのはあんたの方よ。喪失(ロスト)した同僚の遺品よ。ホコリ臭い更衣室の隅に放置されてて可哀想に。それとも、過去を顧みない運行規則の一貫かしら。冷血ねぇ」
ハーベルトにしてみれば身に覚えのないことだ。そもそも、パンセは旅人の外套をまとったまま忽然と姿をくらましたのだ。その現場を誰も見ていない。スカートの下に履くハーフパンツだけがロストせずに残存するな必然性などない。それとも、これもリンドバーグ障壁の発現であろうか。随分と意表を突いたものである。
「いいえ。彼女は完全にいなくなったの。通常、異世界逗留者が予期せぬ喪失をするときは身の回り品も揮発するはずなのに。特に愛着の深い物とか、毎日のように使う装身具とか、意識せずとも愛着が深いものは一蓮托生になるものよ。まるで本人が最初からいなかったかのようにね」
ハーベルトがヨレヨレになったハーフパンツをアーネンエルベに送るべく、硬化テクタイト製の耐爆容器に入れようとした。
と、その瞬間、ハーベルトの目が眩んだ。
ドンっと衝撃で弾き飛ばされ、反対側の壁に腰を打ち付ける。そのショックで彼女の意識は遠のいた。
■ マリオン島
プリンスエドワード諸島には誰かが策略を巡らしている。まるで船やアヒルが水面を蹴立てるようにV字型の波が雲塊を押し割っている。東西から吹き付ける風の合流点にマリオン島がある。その立地条件が逆三角形の新たな波紋を呼び起こしているのだ。ふつう、拮抗する流れの中心に障害物を置くと渦流が崩壊する。それがどういうわけか不自然な矩形波を形作っている。作為的な力が貿易風を整流している。
流氷に乗ったペンギンたちが恋のバカンスを楽しんでいる。体を低くして航空機のような体勢で海面めがけて滑走する。そのすぐ傍らにアルクイーク・ノーヴォスチ号が投錨していた。ヨーゼフ・ダッチマンはモディス中分解能撮像分光放射計をウロコのような雲に向けた。
空は重苦しい。風は南西から吹いていて、暗く冷たい。しかし、雲はゆったりとした動きで、都会の雑踏に置き忘れてきた平穏を思い出させてくれる。いっぽう、風下では荒天がドラスティックな空模様を描いている。頭から尾の先まで黒一色の鳥が飛翔しながら頭を水につけた。ツィーっと海面を滑り、首をもたげた。嘴に魚をくわえている。その様子を半裸の女が船窓を通して眺めている。
「いつまでも呆けてないで、一杯やったらどうなんだ?」
ヨーゼフ・ダッチマンは冷えた無酔発泡酒(クアーズテック)をベッドに投げた。それはアンダースイムショーツ姿の女を素通りして、コツンと壁に当たった。
「ねぇ、こんなこといつまで続けるの? わたし、単位がやばいんだけど!」
ライナー・ミルドラースは虚ろな反応をしめすかと思いきやキビキビした返事をよこした。
「いいさ。切符はここにあるぜ」
ヨーゼフは枢軸特急の定期券をテーブルに置いた。どこで手に入れたのか、乗務員用に支給される無期限全線乗り放題のパスである。女はじいっと、胡散臭そうにながめ、ポツリといった。
「そのパンセってどこの子?」
元恋人はそれを聞かなかったことにした。
「なぁ、海洋藻類(アルケノン)に進化した女を在校生として認めてくれる。そう思うのなら帰るがいいさ」
勝ち誇ったようにビールをぐいっと煽る。緩んだ口元から黄色い炭酸飲料が吹きこぼれた。
「パンセちゃん。殺したの? まだ十代じゃない!!」
ミルドラースは定期券を拾い上げて、正当な持ち主の行方を案じた。パンセ・ドゥーリットル。あどけないセーラー服が本人確認写真で微笑んでいる。
「知ったことか。シュルルフの女が俺に貢いでくれたんだ。カフェテリア・ヴィエナで拾ったんだとよ。もちろん、俺に資格はない」思いがけない固有名詞にライナーは驚愕した。
「――グリーバス・スタン・アマルガムハート?! ボブ・ブラックスワンが咆哮(ほえ)てた街じゃない?」
「そうさ。俺は奴が――ええっと、『パフ・ザ・マジックドラゴン』だったか。歌詞に出てくるドラゴンの不死性をマジで信じてる件に関して、こりゃあ何か有ると確信したんだ」
「それでシュルルフの女と寝たのね?」
ライナーの声が完全に裏返っている。嫉妬に狂った女の声色だ。
「人聞きの悪い! 密着取材といえ」
ヨーゼフが彼女のペースにまんまとはまり、喉をからす。
「どっちにしろサイテー! パンセの居場所を教えなさい! 今すぐ首を絞めてやるんだから!!」
「アルケノンの体で可能ならばな」
ヨーゼフは面白がっている様子だ。銀色の裁縫箱をいじるとライナーの時間が凍り付いた。静止画像のごとくピクリともしない。これからずうっと彼のターンだ。あんぐりと口をあけたパンツ女の横に腰をおろした。
「俺が一夜を共にしたのは社用族の女だ。グリーバスは異世界の音楽首都を名乗るだけあって、枢軸のなかでも音響技術がずば抜けている。それで俺はボブが出入りしていた群を探したんだ。インフォプレナーに頼らず、足で探した。それで俺はボブの女に出会ったというわけさ」
彼は新しいクアーズテックのプルタブを引っ張った。「る」の字に曲がった金属片が飛んでいく。
「ああ、ちなみにその子の名前はポリネックだ。二十歳超えてる。言っとくけど俺はロリコンじゃない」
半裸女の顔に定期券が叩きつけられる。
「ドラゴンの話は本当だったよ。つうか、グリーバスの社用族が躍起になって復刻に取り組んでいる。なんでも最近、枢軸特急の奴らが来て、実現させたとか。不老不死だなんてガキじゃあるまいし。俺がそういうと、いつもポリネックが真っ赤になって反論するんだ。子供じみた感情こそが熱力学第二法則に打ち勝つんだと」
いっきにまくし立てると、ヨーゼフはアルミ缶を握りつぶした。ブシュっと飲み口から泡が飛ぶ。
それと唾液が入り混じった液が、ちょうど入ってきた女子にかかった。彼女はキッと睨みつけると、泣きながら出ていった。ほどなく、落ち着いた雰囲気の女性が業務を引きついた。
「お忙しいところ恐れ入りますが、TWX1369がマリオン島に到着しました」
ヨーゼフは裁縫箱を握りしめると、女に指示を与えた。
「よし、盛大に歓迎してやろう。奴らの運航規則をへし折ってやる。熊の着ぐるみを豊穣角笛(コルヌコピア)してくれ。大量にだ」「はぁ? お引き受けいたしかねます。ヌイグルミ? TWXの女子たちを買収しろとおっしゃる?」
女がきょとんとしていると、ダッチマンは続けた。
「惜しいな。ハーベルトの哲学は猪突猛進だ。そこに疎外要因をぶつけてやるのさ。たちどころにうろたえ、自分を見失う」
ダッチマンの隣に女が腰をおろした。
「そんなにうまく行くでしょうか?」
女が将来不安を漏らすとダッチマンは腰に手をまわした。
「ああ、うまくコトが運ぶとも。シェリーメイ。ジオマクロ分子製のクマも、マジックドラゴンも、地球平面説も、共通する点同じ。常識人の精神精神年齢に悪影響を及ぼす」
男が力説するとシェリーメイは落ち着いた雰囲気で言った。
「そういう発想こそブーメランなんですけど」
しかし、すでに量産を終えたジオマクロ分子は野に放たれ、TWX1369と一戦を交えていた。
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