千億光年の夜景(ア・バード・ビューズ・ナイト)⑥
■ 蜂狩港沖 重巡洋艦ノーザンプトン
神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。
英国詩人ロバート・ブラウニングの長編劇詩、『ピッパが通る』の一節である。
工場主の夫人と不倫相手が結託して旦那を亡き者にするのであるが、たまたま通りかかった少女ピッパの可憐な歌声は慙愧の念を呼び覚ますに十分なものであった。女子施療院の院長は「汝は常にピッパたれ」と望萌を戒めていた。彼女は座右の銘としてピッパが通るを携帯している。
戦闘指揮所(C3I)は24時間休むことなくコード1986世界のあらゆる周波数帯域をモニターしている。ページをめくって出番を待っていた。
うつらうつらしながら、時計の針が丑三つ時に近づくころ、ホムンクルス達が騒ぎ出した。
「大阪湾上空に無数の航空機? そんなバカな。航空管制はどうなっているの?」
望萌は寝ぼけまなこでアプローチ・ディパーチャーレーダーに見入った。航空機の離発着は地上から完全に掌握されており、民間機が編隊を組むなど通常では考えられない。しかも、早朝だ。
くわえて、グアム方面からの国際便。
ホムンクルスたちは関係各所への確認作業に追われた。
「八尾南が航空管制を行っていない? じゃあ航空路にひしめいている機影は何なの?」
実体として存在しない。あるいは、実在しているが遮蔽効果を用いている。
望萌はメインマストに登って防空聴音機に耳を傾けた。これはドイッチェラントが連合の高射砲陣地から鹵獲した戦利品の一つで、大口径のラッパを複数組み合わせてあり飛行機のエンジン音を捕捉する。それらにはゴム製の管がつながっていて、医者が使う聴診器のように末端を耳に挿入する。異世界逗留者は陸軍兵のように適切な爆音を捉える訓練を受けていないから、ダイマー聴覚を艦の電算システムがバックアップする。
確かに風を切る音が聞こえた。だが、ワールドノイズが大きすぎて正体が釈然としない。
「航空機ではありません。流星雨ですよ」
ダイマー能力を持たないホムンクルスたちは観測結果を根拠に自然現象だと主張する。確かに成層圏で流星の散乱現象が起きている。流星とは直径1ミリから数センチ程度の塵が宇宙空間から大気に突入して、摩擦する現象だ。高温で気化した成分が眩しい光を放つ。彗星はこの様な塵を軌道上に放出していて、密集地帯と地球の進路が重なると流星雨が定期的に発生する。
「そんなわけがないじゃない。ワールドノイズがざわめているのよ。異世界混入物があそこに……きゃあっ!」
艦の右舷がパッと光った。大きくかしいだマストから望萌が投げ出された。スカートが大きく捲れ上がり、太腿から上が丸見えになる。彼女は落ち着いて、両手をあげ、バナナの皮がめくれるようにセーラー服から脱した。翼を広げてホバリング。ダイマー能力で海上を暗視すると、大小さまざま物体が十重二十重に取り巻いていた。海面上40メートルに人影が無数。そのどれもが翼を背負っている。彼らの周囲には小型のプロペラ機やセスナ500サイテーションといったビジネスジェットが従っている。
「その艦には使い道がないから沈んで貰おうかね」
ダイマー聴覚を通して誰かが語りかけてきた。
「誰だか知らないけど、ハーベルトのお宝を穢さないで!」
望萌は相手が互角以上の存在だと承知の上で先制した。この世界には日米安保条約という強力な制約が渦巻いていて、枢軸も連合も主だった兵器を使用できないでいる。さらにコード1986では憲法九条という住民の固定観念がガチガチに軍事行動を縛り上げていて、日本近海では両陣営の実弾がどういうわけか一発も撃てない。この効果が薄らぐのは望萌の背愛では少なくともコード2020以降、。帝政日本や枢軸ドイッチェラントが建国されてからの話だ。
肉弾戦で勝負するしかない。
しかし、それは相手も同じ土俵に立つことだ。こちらにはシュワニーシーやブライトリング世界での実戦経験がある。
望萌はそのことを声を大にして伝えた。
しばし沈黙が支配する。
牽制球は効果絶大だったか。
「それは、それはご苦労様でした」
突堤からさっきの声がする。月明かりの下にポニーテールを赤いリボンでまとめた美少女がたたずんでいる。
「わたしはマドレーヌ・フラウンホーファー・リリエンベルグ。いい勉強になりました」
勝敗はあったと言わんばかりに身なりのいい令嬢がにっこりと微笑む。
「フラウンフォーファー?!」
望萌は度肝を抜かれた。実際にその固有名詞は毒矢となって心に突き刺さった。
フラウンホーファー学術財団はドイッチェラント本国に百ちかい研究施設をそなえ、十万人を擁する研究機関だ。科学の進歩および経済成長に重要な意味を持つ地域との橋渡しを行っており、枢軸特急を開発した国立研究所(ペーネミュンデ)と関係も深い。
「まさか、まさか、そんな、ハートレー大総統に忠誠を誓う国家の屋台骨が裏切るなんて」
悪夢であってほしいと望萌は願う。これは国家存立危機事態だ。期待に反してマドレーヌが冷酷に告げる。
「裏切ったのはエルフリーデの方さ。ブライトリング世界から来た亡命者を軒並み収容所に送っただろう」
「それは極めて連合的な政治犯だからよ。ロジウム塩技術と猪突猛進的なプラス思考は連合のブレイクスルーと合致する。危険思想を野放しにできない」
「ほう、危険と来ましたか。熱力学第二法則に抗うかもしれない有望な特効薬を、過激な前衛志向と斬り捨てるオンナの方がよっぽど有害だわよねえ」
「――ッ!!」
望萌は返す言葉がなかった。
さらにマドレーヌが畳みかける。
「枢軸は天恵(ギフト)を潰した。我らが英雄エリス・川端を殺した! 人道の犯罪者!!」
人道上の罪などという極めて連合的な言葉がドイッチェラント国民の口からすんなりと出るとは、世も末だと望萌は思う。
国家ないし集団によって、市民になされた謀殺、民族浄化、奴隷化、追放その他非人道的行為とされる犯罪概念を枢軸は拒絶している。そんなものは絶対的な尺度や定義が定まらないうえ、客観的評価に基づかない恣意的な運用に歯止めがないからだ。
「連合だってドイッチェラント人を迫害してるじゃない」
「だから『集団』に命運を委ねよういうのさ。一番いい解決策をお前らが潰した。集団は文明残滓を保存しているんだろう。ある意味、熱力学第二法則に勝っている。そこにブレイクスルーやQCDを重ねれば勝利は不動の沢になる。枢軸は時代遅れなんだよ」
マドレーヌは総括すると掻き消すように見えなくなった。
重巡洋艦ノーザンプトンの周辺にパッパッと電光がほとばしる。高波が船体を激しく上下させる。揺さぶりの次はないだろう。
万事休す。
「ねぇ! ハ〜ベルト〜〜!!」
望萌は閣下と慕われている名将に助けを求めた。
「困ったときのハーベルト頼み、って言われてもねぇ」
彼女は口をへの字に曲げてみせた。火力に物を言わせることができない以上、手も足も出ない。
モニター越しに純色が笑う。
「こういう手合いって聴講生によくいるのよ。セミナー講師の出番ね。聴衆を感情移入させるためには各個人が持つ実体験を惹起させること。そのためには共通認識のお膳立てが必要」
邨埜純色は自己解決を促す名人だった。そして、ハーベルトは頭の回転が速い。僅かなヒントから驚くべき解決策を見出す。
「話者は暗黙の了解に期待している。つまりは他力本願、他力本願……宇宙人集団に人類の行く末を任せるのも他力本願。他力本願といえば、コード1986の日米安保条約も他力本願……」
|閃いた《ユーレカ》という叫びとともに彼女は突破口を開いた。
「望萌! 軍の通信系統を解析して。目には目を歯には歯を、他力本願には他力本願よ」
「どういうことなの?」
「空軍にスクランブル出動してもらうわ。平和だからってのんべんだらりとしているわけじゃないでしょう。領空侵犯は日常茶飯事でしょうし」
「こんな時に冗談はやめてちょうだい。まさか要請するの?」
「まさか! 宇宙人で思い出したのよ。1987年8月17日。北海道で自衛隊機が未確認飛行物体にスクランブル出動しているわ」
バーベルトはノーザンプトンに命じて軍用回線のハッキングを試みさせた。懐疑派の包囲網を背後から撃たせようというのだ。
はたせるかな、駐留米軍の指揮系統が浮かび上がった。蜂狩山山頂はコード1986日本の領土ではない。厳密に言えば、在留アメリカ軍の管理下に置かれている。直径16メートルのパラボラアンテナがマイクロウェーブ通信を内外の米軍基地に中継しているのだ。
「させるか!」
コヨリが山頂を攻撃した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!