針鼠の恋愛事情(グリーパス・スタン・アマルガムハート) ③
■ フライブルク大学境界領域心理学研究所(承前)
フライブルク大学周辺は氷河期がぶり返したのかと錯覚するほど真っ白に凍結している。猛烈な寒波が吹き荒れ、積雪量は一時間で数メートルを超える。もはや、街がどこにあったか、空からでは判別できない。
エメラルドグリーンの渦流はコード2047を離れ、遥か成層圏を突き抜けていく。弾道を描いて大陸をぐるりと飛び越える。行先は異世界「進歩と調和」。
コード2047を牛耳る二大勢力の結節点である。ワールドクラス分類番号で言えばコード1970。その大阪湾を目指して黄緑色の噴流がうねる。
フレミングの左手法則に従って祥子の周囲に強大な電磁波がまとわりつき、時間が、空間が、人間の主観が、宇宙の客観が、ぐるんぐるんと攪拌する。そして白魚のような渦動の群れが四方八方にちぎれ飛ぶ。大小さまざまなアナログ時計に分裂したかと思えば、それぞれの針が目にも止まらぬ速さで逆転し、文字盤から飛び出した。
機銃のごとく、それらが虚空に次々と突き刺さり、ガシャンと世界が崩れた。
「ジェーン・スー」
祥子は、はやる気持ちを抑えきれず、一気に大阪城公園へなだれ込む。お目当てのタイムカプセル周辺は日曜日のデートを楽しむ人々の待ち合わせ場所になっていた。
「あれは何かしら?」
シャギーヘアに膝上40センチの超ミニ丈ワンピースを纏った少女が空を見上げる。と、次の瞬間、閃光と爆炎が襲ってきた。
「ジェーン・スー。会えてうれしいよ!」
祥子の激情が時間経過を一気に加速する。十年、百年、千年、二千年、五千年。歳月の荒波が怒涛の如く大地を侵食する。この急激な変化に異世界・進歩と調和の自然治癒が悲鳴をあげる。大阪城公園だった場所に風雨が吹き荒れ、太陽が照り付け、地震が、津波が、隕石が降りそそぐ。
タイムカプセルは、その試練に耐え、ついに六千年の眠りから覚めた。
西暦6970年1月20日。この日を待ちわびる人たちがいる。開封の使命を帯びた子々孫々が。もっとも人類が存続していればの話だが。
ひと口に五千年と言っても途方もない年月だ。祥子の時代からさかのぼること新石器時代の終わりに相当する。場所によっては青銅器文明に移行し、古代エジプトに最初の王朝が成立し、メソポタミアで楔形文字が発明され、古代ギリシアに文明の兆しが見えはじめ、日本では縄文文化が栄えている。
新石器時代が終り、場所によっては青銅器が造られ始めた頃。
古代エジプトで初期の王朝が始まった頃。稲作の伝来もこの頃だ。
気の遠くなるような月日を祥子は早送りで見て来た。めでたく開封日を迎えた朝、毒々しい色の雨雲が空を覆っていた。往時とは打って変わって、白波がタイムカプセルを洗っている。そこに人影はない。
「ファントム・ジェーン・スー!」
それでも祥子はあきらめず、モニュメントに接近した。蛍光グリーンのフレアが女の子を象る。トマホーク・コモディティアンの秘法はジェーン・スーを護りぬいてくれただろうか。
「もし、彼女が生きていないとすれば……」
漠然とした不安が胸中をよぎる。しかし、肉体のくびきを脱した祥子は形こそ違えど「生きて」いる。時間を超越したジェーン・スーの肉体などとっくに風化しているだろう。
存在の無事を信じて、カプセルの蓋に働きかける。
「残念だったな!」
毛むくじゃらの手がエネルギー体を弾き飛ばした。カプセルからひょっこり顔を出したのは百裂鬼。
「鬼哭?!」
エネルギーが集中して、怒った顔になる。
「おう。五千年ぶりだな!」
鬼は筋肉隆々で血色もよさそうだ。とても地獄の住人だったとは思えない。
「――お前。どうやって地獄の外に?」
ワールドクラスの枠内からは出られないはずだ。特に第二法則の奈落から這い上がることは死者の復活につながり、事実上不可能。
「ああ、ここは地獄と陸続きになったんだ。進歩と調和の住民は変わり映えのしない世界に不満を爆発させた。滅んだんだ」
鬼哭はタイムカプセルをゴロリと転がした。隠れていた面に擦過創や弾痕がびっしりとついている。
何という皮肉。ワールドクラスが地獄と一致するとは。
「そんな……。じゃあ、ジェーン・スーは?!」
祥子の形をした炎が激しく燃える。
「教えてやれ、コヨリ」
鬼哭が顎をしゃくると、死んだはずの沼田コヨリが歩み出た。手に銃を持っている。
「どういうことな――……」
いぶかしむ間もなく、祥子は真紅の光線に射抜かれた。パッと燐光がはじけ、どさりと裸の少女が虚空から投げ出された。
「うう……。痛い」
五千年ぶりの痛覚に見舞われる祥子。
「ジェーン・スーは『集団』が来る前に逃げちまったよ。痛みを訴える所をみると、その体も上出来だね。調子はどうだい?」
コヨリが祥子の裸体を舐めるように眺める。
「じ、ジロジロ見ないでよ。じゃあ、君たちの肉体も作り物なの?」
祥子が両脚を閉じて顔を赤らめる。
「そうだよ。鳴き砂イリュージョンの最終進化形さ。量子色力学は遂に肉体の復活をモノにしたのさ!」
コヨリは鬼哭のムチムチボディに不純な目を向ける。
「純色は俺たちを裏切りやがった。それで『集団』の手を借りたのさ。そうだろう、エリス」
百裂鬼の族長が手招きすると、岩場の陰からボートが現れる。
「そうよ。高次知能集団は記録の再現手段を手にしたのよ。これで本来の目的達成に近づく」
エリスはコヨリの手から銃を受け取ると、険しい表情を見せた。
「何なの、この子。すっかり丸くなっちゃってるじゃない。これでバイオ・メカニカル・ステージを達成できるわけ?」
激昂するエリスを鬼哭がとりなした。
「そう煽るな。コヨリだって必死なんだ。それにそのリンドバーグ捕獲銃は試作品だぞ」
「ま、いいけど、この子には大暴れしてもらわないと困るの。作戦開始までに精力をつけさせといて」
エリスは一方的にまくし立てた。
「大暴れって、なに?」
当惑する祥子に沼田コヨリが噛んで含めるように語る。その人を人とも思わぬ内容に祥子はその場から逃げ出した。
「嫌だ。集団の道具にされてたまるか!」
■ コード 2047
ユーロ・ポメリカ連合国 大統領危機管理センター
ホワイトハウスの東棟の地下最深部。分厚い強化テクタイト製コンクリート壁が層をなし、核爆発の直撃にも耐え得る想定で造られている。その向こう側から小鳥のさえずりが聞こえてきた。
統合参謀本部のスタッフがドアを開けると若い女性二人がモニター画面越しに談笑していた。
「懐疑派が打ち立てたハイパー核と藤野祥子の相関関数はこちら。本初始祖世界(ソースコード)の鉱脈図はこちらです」
ALX427ψが持ち帰った資料が液晶ディスプレイに続々登場すると、女性大統領は満足そうに笑みを浮かべた。
「ご苦労様でした」
大統領が邨埜純色の功績を称え、労うと、尊敬のまなざしが返ってきた。
フランチェスカ・エフゲニー・ローズバードが前例のない四期目を務められる理由は一つしかない。
その支持基盤は権謀術数に長けているとか、財界の後ろ盾があるとか、領袖が軍服組を掌握しているとか、有力政治家とパイプがあるとか、俗物が思いつきそうな原因とは全く異なる所に根ざしている。
女性票だ。総人口の男女比が逆転しつつある合衆国(ステイツ)において、政治力学は女性層の心情に左右される。ローズバードは同性の不興を買う術を心得ているから、逆手にとってその座を維持できている。
枢軸を出し抜いて一気に飛躍を成し遂げたばかりでなく、将兵たちの窮地を救った。二大陣営の平衡は一気に崩れ、キャスチングボードは手中にある。
彼女はスタッフが差し入れたワインを舌で転がすと、次の一手を吟味した。このまま社会不安の元凶である懐疑派を一掃して、枢軸との緊張緩和(デタント)を有利に進めるか、融和策をとるか。どちらを選んでもステイツに損はない。
押し寄せるリンドバーグの壁には心理的要因が少なからず影響している。それは藤田祥子のヒステリックな反応が引き金になった事から明白である。求心力の低下が市民の将来不安を増幅し、壁を招いているのなら、今回の勝利で挽回できよう。そして、懐疑派に対話を呼びかけ、挙国体制で大西洋上の壁を取り払えばよい。なにより、あらゆる異世界の源流となる本初始祖世界(ソースコード)の発見は第二の新大陸として市民に安心と安定をもたらすだろう。
「大巫女官大総統閣下との会談を設定してくれ」
エフゲニーは満を持してスタッフに日程調整を申し入れた。
ところが、その機会は図らずも向こうから飛び込んできた。
ホットラインがけたたましく鳴り響く。ぎこちない社交辞令のあと、エルフリーデが本題に入った。
「先ほど、我が国の実験施設で……」
「藤野祥子の脱走に関しては私もCNNで知ったばかり驚いております」
大統領は遠回しに牽制した。
「手間が省けました。それでは具体策に移りましょう」
不倶戴天の敵同士が静かに協議を重ねている頃、コード1986世界はのっぴきならない状況にあった。
■ 重巡ノーザンプトン(承前)
一転、にわかに風雲急を告げる大阪湾。ハーベルトはありったけの連絡手段を通じて窮状を訴えるが、本国側もおいそれと部隊を急派できない。なにより、肝心な枢軸特急が瓦礫と化していては手の差し伸べようがない。
枢軸特急運行管理局は匙を投げた。在庫の交換部品を用いて代車を急増するにしても、今から数か月はかかるという。
もっとも、何やら重大な国難が生じた模様で、それどころではなさそうだ。
「誰かしら? 列車は幾らでも新造すればいいって」
ハウゼル列車長がこの期に及んで嫌味を言う。負けず嫌いなハーベルトは白紙委任状の軍需徴発権限発動条件――必要な軍事物資を強制的に取り立てる権利――をフル活用して、枢軸じゅうの軍需産業に掛け合った。だが、フラウンホーファー系列企業の抜けた穴は大きく、どのメーカーも高価な枢軸特急を建造できる体力はなかった。それ以前に「戦時緊急徴発」とやらで、逼迫しているという。
その詳細は白紙委任状の権限をもってしても知りえなかった。
「誤算だったわ。どこと戦争するのかしら。連合じゃないらしいけど。まさか、ラ・ファームシノワ?」
ハーベルトはいぶかりながらも自分の非を素直に認めた。
「とにかく、このままでは熱力学第二法則の横暴がまかり通ってしまう。そういうわけにはいきません」
留萌車掌は居ても立っても居られない様子で先ほどから時刻表や路線図を繰っている。そこに召喚魔法の一つでも載っていれば、救われるだろうが。
「一つ気になるのですが――」
ブレース機関士が川中島重工の出来事を俎上に載せた。幽霊駅のホームに蒸気機関車が入線していた事を思い出した。あれは何かと尋ねた。
「残留思念――松永キヨが呼び起こした過去の記憶よ。仇敵に何としてでも一矢報いたいという強烈な未練が具体化したもの」
そう説明するハーベルトに留萌が異を唱えた。
「枢軸特急は有資格者、つまり凡人には感知できない筈でしょ。どうして被災者達に見ることが出来たの?」
確かに旅人の外套効果が列車を異世界住民の目から遠ざけている。まれに鈴原なるみのような能力者に目撃される。
「あのお年寄りたちは死線を潜り抜けてきた人達よ。ついでに言うと、棺桶に片足を突っ込んでいる……」
ハーベルトが憐れむように言う。
「つまり、熱力学第二法則の奈落に落ちる日を待っているわけね。だったら、なおさら好都合よ」
留萌は何やら閃いたらしく、いきいきとアイデアを語った。
「ペンローズ過程を応用して、戦災記憶から機関車を引き揚げるですってえ?」
ハーベルトは留萌の手元にQCDの入門書を認めた。
「そうですよ。わたしも枢軸特急の運行管理者ですからね。合間にコツコツ学んでます」
留萌はそういうと、ノーザンプトンからボートを降ろした。舳を聖イライサニス学園に向ける。
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