「さてと……始めるか」
じんわりとワイシャツの胸元に汗が滲む。緊張している訳ではない。単純に暑いのだ。
風の無い真夏の夜。郊外ゆえに、眼下に見える光は疎らな街灯のみ。
屋上から、二つ下の階のベランダへと降りるだけとはいえ、六階建てともなるとそれなりの高さがある。
十四郎は頭の中で、ベランダに降り立った後の段取りを整理する。
カーテンが開いていれば、なにも問題はない。
窓ごしに即座に頭を撃ち抜く。
閉まっていれば、まずは鍵を吹っ飛ばし、窓を開け放つのと同時に標的を捕捉、頭を撃ち抜く。
もう何十回と行ってきたことではあるが、こういうルーティーンを疎かにするものは失敗するのだ。
例えば、昨年死んだ周五樹。生来のお調子者は、お調子者らしい死を遂げた。
わざわざ的の大きい胴体ではなく、頭を撃ち抜く理由は確実に息の根を止めるためだ。
オリジナルが死に至るまでの間……その間に五秒も時間があれば、レプリなら駆除員一人を引き裂くぐらいのことを、容易くやってのける。
あのバカの二の舞は御免だ。
ロープの具合を再度確認し、十四郎は一つ頷くと屋上の淵を蹴って、背中から暗い虚空へと身を投げる。
無重力でふわりと浮かぶような感覚。
ねっとりとした闇に抱かれるような感触。
この感覚は嫌いじゃない。
見上げれば下弦の月、風のない空に雲が居座って、月明かりに朧な輪郭を描いている。
そんな安らぎの光景はコンマ数秒のこと。
すぐにロープの突っ張る感覚があって、振り子の要領で視界に寮の壁面が迫ってくる。
二度、三度と壁面を蹴りながらロープを滑り降り、そして数秒の内に、十四郎は四階のベランダへと下り立った。
着地しながら、彼の目は的確に状況を確認していく。
カーテンは開いている。部屋の中には三人の人物の姿。
奥には惚けたような顔つきで佇む全裸の少女が二人――これはレプリ。
そして窓の手前、ベッドの上に、膝を抱えて座り込んでいる制服姿の少女の背が見えた。
ターゲット捕捉。
十四郎がベランダに降り立つ硬質な音に、ベッド上の少女が身を跳ねさせて振り向いた。
眼鏡をかけた、いかにも文学少女と言った雰囲気の女の子である。
泣き腫らした目元は赤く、頬には涙の跡がある。
その顔から、瞬時に血の気がひいていく。
彼女は十四郎の姿を目にして、恐怖に頬を引き攣らせ、喉を震わせる。ガラス越しに絹を裂くような悲鳴が十四郎の鼓膜を擦った。
同時に、部屋の奥では電源を入れた自動人形のように、レプリたちが動き始める。
オリジナルの危機を察知して十四郎へと飛び掛かろうと、彼女たちのその脚に力がこもるのが見えた。
だが、もう遅い。
逃げ出そうと、少女の細い指が宙を掻いたその瞬間、十四郎は一切の躊躇なく引き金を引く。
耳を劈くような銃声。
キーンと耳鳴りがして、十四郎の世界は無音へと変わる。
砕け散る窓ガラス。恐怖に歪む少女の顔。小さな唇が「ママ」と動いた。
十四郎の視界の中で、少女の眉間へと真っ直ぐに吸い込まれていく弾丸が、コマ送りのようにはっきりと見える。
そして、少女の頭が熟れたトマトみたいに破裂したその瞬間、十四郎の耳に唐突に音が戻ってきた。
首の無い少女の身体が、背泳のスタートのようにベッドから跳ね落ち、鈍い音を立てて床の上で二回のバウンド。
途端に、動き始めていた全裸の少女二体は、その動きを止める。
彼女たちはみるみる内に、燃え尽きた炭のような白に近いグレーへと変色し、ひび割れ、ボロボロと崩れ落ち始めた。
呆気ないがこれで終わり。本当に終わり。
井ノ元律子という名だった少女の十五年の生涯は、これで終わりだ。
十四郎は銃を下ろして、手の甲で額を拭う。
割れたガラスの向こうに見えるのは、もはや見慣れた光景。いつも通りの駆除完了後の凄惨な風景である。
十四郎は破れた窓から手を突っ込んで鍵を外すと、顔色一つ変えず、土足のまま室内へと足を踏み入れる。
ベッドの上から床にかけて、血が放射状に飛び散っている。
床の上には、レプリの成れの果てである二つの炭の山。
頭を吹っ飛ばされた少女の身体は、まだビクンビクンと微かに痙攣していた。触れれば多分、まだ温かい。
十四郎は尻ポケットからスマホを取り出すと、感情の無い表情のままに、カメラを立ち上げてそれを撮影する。
報告書に添付するための写真である。
撮影した画像をわざわざ消すのも面倒で、そのままにしているがために、十四郎のスマホの中はグロ画像、それも頭を吹っ飛ばされた少女の画像で一杯。
どこかに落としでもした日には、確実に大騒動。闇オークションにでも出せば国の内外を問わず、スナッフマニアがこぞって入札に参加するであろうことは想像に難くない。
明らかに、死というものに向き合う姿勢が歪んでしまっている。
あらためて部屋の中を見回してみると、本棚には几帳面なことに背表紙の色で整理された本がずらりと並んでいた。
見た目通り、本当に文学少女だったようだ。
そして、十四郎は机の上で視線を止める。そこには、青い薬剤カプセルが転がっていた。
それは、十三歳になった時点で政府から少女たちに支給される自決用カプセルである。
おそらく彼女は、ここで随分悩んだのだろう。だが、結局最後まで、これを呑む勇気が出なかったのだ。
だが、それは実に愚かしいことだ。
政府は発症者の自決を促すために、自決した者とそうで無かった者に格段の差をつけている。
同じ死ぬにしても、自ら死を選べば死体は綺麗なまま。国営墓地に葬られ、遺族には見舞金まで支給される。
それに対して、職員によって駆除された者の死体は、廃棄物扱い。葬式も無ければ、墓に葬られることもない。
しかも家族と同居の場合には、隠匿した罪を問われ、家族が逮捕されることすらあるのだ。
どちらが良いかなど考えるまでもない……そのはずなのだが、それでも通報は後を絶たない。
十四郎は自決用カプセルを回収すると、無造作にポケットに放り込む。そして、スマホを手にして、相棒へとコールした。
「狭山、駆除完了だ」
『わかりました。すぐに清掃班を差し向けるっス』
彼が連絡した相手は、担当オペレーターの狭山郁実。
配属されてきて二か月目の後輩である。
前任の女性職員とは、どうにもウマが合わなくて、十四郎はいたたまれない日々を過ごしたものだ。
それに比べれば、狭山は大分マシ。
少々ウザ絡みをしてくるのと、騒がしいことにさえ目をつむれば、それなりに優秀なオペレーターである。
だが、全く問題がない訳では無い。
狭山は小柄で童顔、おまけに女の子みたいな顔をしている。
そのせいで、よく性別を間違われるのだ。
おかげで一緒に飲みに行けば、カップル扱いされることも多い。
「疲れた……なあ、狭山。今日はもう帰投しても大丈夫か?」
『はい、お疲れさまっス。あ、先輩、どうです。この後呑みにいきませんか?』
「ばーか、報告書どうすんだよ」
『その辺は心配ないっスよ。写真だけ送ってくれれば、先輩が戻ってくるまでに、僕の方で報告書を仕上げときますから』
「そりゃ、助かるが……」
『ほら、前に一緒に行った居酒屋、覚えてます? 『てんてん』って店。そこで今、北海道フェアやってるんスよ。ウニ食べましょうよ! ウニ!』
パソコンの前で身をくねらせる狭山の姿が目に浮かぶ。
多分、ヤツのパソコンの画面には、その『てんてん』という店のホームページが映し出されている筈だ。
「課長は?」
『いつも通り、もう帰ったっスよ。ねえ、先輩! デートしましょうよ! デート!』
「あのなぁ……そういうことを言うから、デキてるとか変な噂を立てられるんだ、バカ。とりあえず庁舎に戻るぞ」
十四郎はスマホをタップして、通話をぶった切るとわずかに苦笑する。
そして、少女の死体、飛び散った脳漿を一瞥して「ウニなぁ……」と、独りごちながら部屋を出ていった。
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