ドタドタと遠慮のない足音が聞こえてくる。
ドアの向こう、廊下の方から。
数は……わかんない。一人や二人では無さそうだ。
(か、隠れなきゃ……)
鈴は、左右をキョロキョロと見回す。
ドンドンドンと、力任せにドアを叩く音が響くやいなや、鈴は跳ねるように押し入れの中へと転がり込んだ。
そもそも、この部屋に隠れられるような場所はそこしかない。それに、いざという時にはそこに隠れろと、十四郎にも言い含められていた。
押し入れの戸を閉じるのとほぼ同時に、扉の方からギリギリと鍵を回すような音が聞こえてくる。
そして――
「開きました!」
そんな声が聞こえたかと思うと、バタンと扉の開く大きな音が響き渡った。
(やばっ、お兄ちゃん! 助けて、お兄ちゃん!)
鈴は押し入れの暗闇の中で、自らの身を掻き抱く。
怖い。怖いのだ。
十四郎に銃を突きつけられた時には、死ぬ覚悟は出来ていた。諦めていたのだ。楽になれるとすら思った。
だが、今は怖い。とても怖い。
「警察だ!」という怒鳴り声とともに、踏み込んでくる何人もの足音。
だが、次の瞬間、「あ、あっ、うぁああああっ!」という、男の悲鳴じみた声とともに、ガタガタガタッと後退るような足音が響いてきた。
「レ、レプ……リ?」
呆然と呟くようなそんな声。
続いて、人が取っ組みあうような音が響き渡る。
男たちの怒号と悲鳴。助けを求める声と互いの名を呼ぶ声。そんな男たちの上擦った声の只中に、ブチブチブチっと何かが引きちぎられるような音が響いた。
「ぎゃぁああああ! う、腕っ! 腕がぁあああ!」
「中尾ぉおお! し、しっかりしろ! は、放せ、お、おい、や、やめろっ!」
劈くような悲鳴に続いて、恐怖と焦りに引き攣った声が響き渡る。
押し入れの薄い戸一つ隔てた向こう側で、何か恐ろしいことが起こっていた。
ガシャン! とガラスの割れるけたたましい音が響き渡って、鈴は思わず身を跳ねさせる。
慌てて耳を塞ぐも、ドサッと何か重いモノが地面に叩きつけられる音が聞こえた。
「退避! 退避ぃぃぃっ!」
廊下の方からそんな大声が聞こえて、いくつもの足音が慌ただしく遠ざかっていく。
そして、それが完全に消え去ると、しんと静寂が舞い降りた。
鈴は身を震わせながら、耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろす。
建物の外からサイレンの音と無数の騒めき。
鈴は小さく喉を鳴らすと、そっと押し入れの戸に指を掛ける。
指二本分ほどの隙間から顔を押し付けるようにして、押し入れの外を覗き込む。
まず視界に入ってきたのは、割れた窓から吹き込む風にそよぐカーテン。
そして、部屋の中へと目を向けた途端、彼女は「ヒッ」と喉に声を詰めた。
そこに立っていたのは、血まみれのレプリの姿。
横から赤いペンキをぶっかけたかのように、白いシャツに飛沫状に紅い模様を描いている。
そして、レプリがその手に掴んでいるボロ布のようなものを目にして、鈴は卒倒しそうになった。
それは腕、スーツの袖口ごと無理やり引っこ抜かれたかのような腕だった。
だらりとぶら下がったその断面から、ボトリボトリと滴り落ちた粘液状のどす黒い血が、フローリングの床に血だまりをつくっている。
窓が割れているのは、誰かを外に投げ捨てたのだろう。
とてもではないが恐ろしくて、窓の外に落ちたものを確認する勇気は出ない。
レプリは狂暴な化け物。
あらためてそれを思い知らされる。
頭では分かっているはずだった。
でも、彼女たちは自分と同じ顔をしているのだ。
話しかけても返事をしてくれるわけではないし、ぼんやりとつっ立っているだけだけれど、ちょっとした愛着みたいなものまで芽生え始めていたのだ。
「もう、なんなのよ、これ。お兄ちゃん……助けて、助けてよぉ、早く帰ってきてよぉ、やだよぉ……」
鈴は、ぎゅっと手を握り合わせる。
掌が汗ばんでいるのは、暑さのせいだけではないだろう。
(逃げなきゃ? どこへ? いや、いいのか。このまま駆除されてしまえばいいのか。でも駆除って誰に? お兄ちゃん以外の人に殺されるのは嫌だな。……お兄ちゃんに会いたいよ)
冷静になろうと思えば思うほどに、頭の中で思考が上滑りを繰り返す。
お兄ちゃんに会いたい。そう思ってから以後は、どこを押しても同じドリンクが出てくる自販機みたいに、お兄ちゃんの顔しか浮かんでこなくなった。
こういうのをブラコンっていうのだろうか?
いや違う。そうじゃない。
そもそもアタシが頼れる相手なんて、お兄ちゃんの他にいないのだから、そうなって当然だ。
(と、とにかくお兄ちゃんに連絡しなきゃ)
鈴は、再び押し入れの戸の隙間から、部屋の中を覗き込む。
立ちつくすレプリたちの足下、部屋の隅で充電器に繋がったままのスマホがチカチカと点灯していた。
鈴はそっと押し入れの戸を開くと、恐る恐るそこから歩み出る。
レプリ達が鈴を襲ったりすることはないはずなのだが、今は、さっきまでとは違う、なにかとても恐ろしいもののように思えた。
◇ ◇ ◇
「お、お兄ちゃん!」
着信音が鳴り響いて、十四郎がスマホの画面をタップするなり鈴の、明らかに動揺しきった声が響いてきた。
「鈴! 無事か!」
「う、うん、アタシは大丈夫。そ、その、け、け、け、警察の人が……」
どうやら十四郎の予想通りになったらしい。
「大丈夫だ。鈴、落ち着け。お前の身に起こったことは、大体想像がついてる。警察が踏み込んできて、レプリにやられたんだな?」
「え……え? う、うん、な、なんで分かったの?」
「わかるさ」
そう返事をしながら十四郎はハンドルを回して、自宅から一番近くのショッピングモールの駐車場、そこに車を乗り入れる。
すぐにでも鈴の傍に駆け付けたいのだが、その前にやらなきゃいけないことがある。
もはや、あのアパートに居座ることなど出来はしない。
こうなったら逃げるしかないのだ、どこまでも。ならば、それ相応の準備をする必要がある。
少女駆除課へ出動要請が行ってから県庁へと連絡が回って、九也が出張ってくるまでには、少なくとも一時間近くは掛かるはず……大丈夫だ。
時計に目を向ければ、時刻は十九時、十八分。
「鈴、落ち着いて俺の言う通りに行動してくれ。まずはカーテンが開いてるようなら、すぐに閉めろ。電気も消せ。窓には近づくな」
「う、うん」
「押し入れの中にリュックがあるから、それに今から言う物を詰めて、レプリに背負わせるんだ」
「え?」
「今から丁度一時間後――二十時十八分に俺が車でアパートの前の道に乗りつける」
「え、で、でも、警察が……」
「大丈夫だ。発症者がそこにいると分かれば、警察も近寄らない。距離をとって、周辺の避難誘導をしているはずだ」
「う、うん……」
「それから、出る時にはレプリたちに――」
十四郎は、鈴にひとしきりの指示を与えて通話を切ると、小さく頷く。
もう後戻りはできない。
いや、覚悟なんてとっくに出来ている。
思っていたよりもかなり早くなってしまったが、鈴の治療法が見つからない以上、こうなる覚悟は出来ていたのだ。
今はただ、鈴を無事に脱出させること、それに集中するしかない。
どこへ逃げる? どうやって逃げる? どこに隠れればいい?
希望はない、どこにもない。
アパートから首尾よく鈴を連れ出したとして……それから後を思い描こうとしても、十四郎と鈴には、未来そのものがない。見当たらない。どっちを向いて走れば、明日に辿り着けるのかすら分からない。
だが、決めた。周十四郎は決めたのだ。
それでも、絶対に妹を死なせやしないと。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!