「あの……課長、なにやってんです?」
「ああ、周くんか。いやぁ……とうとう背もたれが折れちゃってさ」
朝、出勤すると、課長が椅子をガムテープで補強していた。
課長は四十代後半の小太り眼鏡。
常に笑っているかのような細い目が特徴的な、温厚そのものといった人物である。
少女駆除課の業務において、課長の立場というのは非常に微妙だ。
実務は十四郎と狭山の二人で終わらせてしまう訳だから、基本的には責任を取るためだけに置かれている役職といって良いだろう。
「もういい加減買い換えたらどうです? 流石にそこまでいけば予算降りるでしょ?」
「下りないんだよね、これが。ほら昨日も市政オンブズマンとか言う市民団体が突入してきたでしょ?」
「いや……昨日は俺、出ずっぱりだったんで」
「あ、そうか、そうだったね。突入してきたんだよ。で、もう重箱の隅をほじくるように、ネチネチネチネチ。とうとう窓口の井村さん、泣き出しちゃってね」
井村さんというのは財務課の、いわゆるお局さまだ。
若手女子ならともかく、お局さまを泣かせるとはなかなかえぐい。
「というわけで、ステープラーの芯一つでも申請通すのは困難だっていうのに流石に椅子はねぇ……。ん? それはそうと周くん、頬が腫れてるようだけど?」
「……ちょっとぶつけまして」
十四郎は、苦笑しながらひりひりする頬をさする。
昨日から鈴にひっぱたかれること三回。
一発一発は大したことなくとも、同じ場所への累積ダメージは結構大きい。
十四郎にしてみれば、彼女がどうしてそんなに怒るのかが分からない。
今朝もそうだ。
鈴の方から一緒に寝たいと言ってきた癖に、朝起きたら顔を真っ赤にして、訳も分からずひっぱたかれた。
女という生き物は、本当に訳がわからない。
それがたとえ、血の繋がった妹だとしてもだ。
あらためて鈴のことを思い出せば、ちょっとした不安がよぎる。
(独りで……大丈夫だよな)
発症者の彼女一人を残して家を出るのは心配ではあったが、家からは出ないように言い含めたし、呼び鈴がなっても出るな。窓には近づくな。大きな音を立てるなと、ちゃんと言い聞かせてある。
鈴自身は少し小煩さそうにしていたが、発症者を匿っていることがバレれば、彼女も十四郎も一巻の終わりなのだ。
慎重になって、悪いことなどあろうはずもない。
それにしても、不思議な感覚だ。
家に帰れば待っている者がいる。
そう思えば、自然と心が浮き立つような、そんな気がした。
「おっはよーございまーす!」
しばらくすると、能天気な声を上げて、狭山が部屋へと入ってきた。
十四郎同様、ネクタイを締めていないクールビズスタイルではあるが、背丈は低く、完全に女性にしか見えない顔立ち。
それゆえに白のワイシャツとスラックスという極々普通の出で立ちに、どこかコスプレめいた違和感がまとわりついていた。
狭山はデスクに通勤用のリュックを置くなり、十四郎へと小声で問いかけてくる。
「先輩……なんすか、昨日のアレ! 清掃班呼ばなくていい状況って、逃げられたとかそういうことじゃないんスよね?」
「ああ、まあちょっと複雑なんだよ。ちゃんと説明するから、トイレにでもいくか」
「トイレに連れ込まれるんスか、僕?」
「人聞き悪いこというな!」
トイレに行くフリをして、十四郎は狭山とともに、庁舎の屋上へと出る。
敷地内全面禁煙の庁舎において、そこは一部の人間が隠れて喫煙する非公式の喫煙所でもある。
バレればシャレにならないが。
だが、さすがに始業わずか数分の時点で喫煙している猛者などいるわけもなく、誰もいないことを確認して、十四郎は話を切り出した。
「実はな……」
なんだかんだと言っても、十四郎は彼のことを信頼している。
だから、包み隠さず事の顛末を打ち明けたのだが、話が進むにつれて、次第に狭山の顔からは血の気が引いていった。
「なんで、そんな無茶苦茶な……」
「妹だからな」
「だ、だからって……発症者の隠匿は立派な犯罪ですよ!」
「わかってる! わかってるさ! 親も兄弟も揃ってるお前には分からないかもしれないけど……とにかく協力してくれると助かる。いざという時には、お前は俺に脅迫されて、無理やり協力させられたってことにすればいい」
「ムチャクチャだ。なんで僕がそんな危ない橋、渡んなきゃなんないんスか!」
「悪いとは思ってる。進行を遅れさせる方法を調べてくれるだけでもいい。それさえわかれば、後は自分で何とかするから」
「それさえって……そんなのあったら誰も苦労しないっスよ! 即射殺なんて、野蛮極まりない方法をとってるのはなんでだと思ってんスか!」
「分かってる。分かってるっていってるだろ! 全部わかってるんだよ!」
十四郎が感情的に声を上げて、狭山はビクッと身体を跳ねさせる。
彼がここまで感情を露わにすることなど、これまで無かったことだ。
狭山は、ああもうと髪を掻き毟ると、十四郎の鼻先に指を突きつけた。
「……スタンピートが起きる前には、気持ちを整理してくださいよ。七日目までなら書類偽造してでも、完全に隠蔽してみせます。そこでちゃんとケリをつけてください。それでも、もし先輩がどうしても出来ないっていうなら、他の市に連絡とって駆除員派遣してもらいますから! 今三日目ですよね。じゃあ、あと四日! それがタイムリミットっスから!」
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん……かぁ」
十四郎が出ていった後の部屋、鈴は独り呟いて苦笑する。
天涯孤独の身、そして害虫のように駆除されて終わるのだと、そう思っていたというのに、実の兄と出会うなんて、運命というのは本当に悪戯好きとしか言いようがない。
初めてあった兄は、それなりにかっこいいとは思ったが、かなり口下手。
それ以上にデリカシーが無くて、どうしようもない唐変木だった。
兄はどうにかすると、そう言っていたが、鈴は正直期待していない。
この病気については治療法どころか、発症のメカニズムや対症療法すら見つかっていないのだから。
鈴は、部屋の壁際にぼんやりとした顔で立っている自分の分身たちを眺める。
裸のままでは恥ずかしいので、なにか着るものを貸せと言ってみれば、一体どんな生活をしているのか、白のワイシャツしかないときたものだ。
結果として彼シャツ状態の、なんというか余計いやらしい恰好になってしまった。うん、だいぶヤバい絵面である。
今朝の時点で三体。つまりタイムリミットはあと四日。
それまでは存分に兄妹としての生活を楽しみ、そして、最後は兄の手で駆除されようと、鈴はそう思っている。
自分に未来がないのは変わらない。
だけど、あと四日ぐらいのロスタイムは許して欲しい。
そう思う。
それにしても……。
今朝の出来事を思い出すと自然に頬が熱を持つ。正直浮かれていたとはいえ、あれはやりすぎだったかもしれない。
(一緒に寝ようって言ったのは、アタシだけどさ……)
朝起きたら、十四郎が彼女の胸に顔を埋めていたのだ。
寝相の悪い鈴が兄の頭を抱きかかえていたというのが真相なのだが、彼女は咄嗟に平手打ちをお見舞いしてしまったのである。
(呆れられたかも……)
「うん、お詫びになにかおいしいものを作って、お出迎えしよう!」
そして、お礼をいうのだ。アタシを見つけてくれてありがとうって。
「お兄ちゃん、よろこんでくれるかな? どう思う?」
分身の一人にそう問いかけてみても返事はない。
ある程度いうことは聞いてくれるけれど、会話が出来る訳ではないのだ。
ふと、部屋の隅に目をやると、充電器につながったままのスマホが点灯している。
家出した最初の夜に充電が切れて以来、スマホは鞄に突っ込んだままだったのだが、昨日の夜、寝る前に充電させてもらっていたのだ。
手に取って画面をタップすると、メールアイコンの上に二十一の数字。
メールが随分貯まっている。
ニュースメールや、お気に入りのアーティストのコンサートの案内。そして、義理の父親からのメール。
それは開く気もなかった。
更にスクロールしていくと、親友の美奈からのメールがあった。
『おーい、どこ行った~。元気か~。返事しろぉ!』
短くて、面倒くさがり屋の美奈らしいメールである。
(四日後には死んじゃうんだよ、アタシ)
文字を打つと、ついつい弱音を書いてしまいそうになる。
アタシは、書きかけた返信メールを削除する。
そして、すぐに思い返して、サムアップした左手の画像を撮ると、『いえーい!』とだけ文字を打って、それを送信した。
安心して、悪いことばかりじゃないから。
そんな想いをのせて。
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