トロッコ問題には興味が無い。
十四郎は、九也との会話の中でそう口にした。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になって、放っておけば前方で作業中だった五人が、猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう。
トロッコの進路を切り替えれば、五人は確実に助かる。しかし、別路線で作業していた一人が死ぬ。
そんな馬鹿げた思考遊戯だが、十四郎が今置かれた状況はまさにこれだ。
鈴が生きていることで、危険に晒される人間が増える。
それは十四郎だって考えなかった訳ではない。
トロッコ問題に正解はない。だが、倫理的には一人を犠牲にして、五人を助けることがとりあえず正しいとされているらしい。
だが、その犠牲となる一人が、自分の大切な人だったなら、どうだろう。
助かるはずの五人が、縁もゆかりもない人間だったなら、どうだろう。
人間の価値は同じではない。
命の重さは、常に相対的だ。
人数の問題ではないのだ。鈴は決して数字ではない。
一人を選んだから間違いだなんてことが、あるわけがないのだ。
十四郎は足音を殺し、ゆっくりとした足取りで、改札から通路へと歩み出る。
地上と駅を繋ぐ通路、改札口から左右へと伸びる長い通路。
朝ともなれば、スーツ姿のサラリーマンや制服姿の学生たちが行き交うそこも、今は重い暗闇の中に沈んでいる。
左右を見回すと、壁面には一定間隔で避難誘導灯が淡い緑の光を放っていた。
九也がどちらに向かったのかは、足音で分かっている。
左だ。
だが、外に逃げた可能性はない。
それはそうだろう。ここには鈴がいるのだ。
この駅の周りには、百体以上のレプリたちが屯している。
地上へ上がったその瞬間、数秒と経たずに命を刈り取られることぐらい、九也にも分かっているはずだ。
いうなればここは今、地獄の一丁目一番地なのだから。
ここが、十四郎たちが地下へと降りた一つ前の駅と同じ構造ならば、この通路の突きあたりは地上へと伸びる階段になっているはずだ。
九也の逃げた左側。その方角に見える避難誘導灯は三つ。
一番向こうの避難誘導灯から数メートルで階段へと到るのであれば、突き当たりまでの距離は、五十メートルほどだろうか。
恐らく、九也は暗闇の中に身を伏せて、十四郎の足音を待ち受けているに違い無かった。
十四郎は、暗闇へと目を凝らす。
粘つくような深い闇。
重苦しい静寂の中に、自分の息遣いだけが、やけに大きく響いているような、そんな気がした。
彼は片方の靴を脱ぐと、おもむろに斜め前へと放り出す。
パタッと靴がタイルの床を叩く音が響き渡って、再び静寂が舞い降りた。
(流石に、こんな子供騙しには引っかからないか……)
だが、それで十分。
靴がタイル張りの床を打ったその瞬間、ほんの一瞬ではあるが、スッと弱った蛍のような光が動いたのだ。
場所は通路の左端、その一番奥。
十四郎は銃を構えながら、溜め息交じりに胸の内で独り呟く。
心の声は自嘲気味。
ここまでの九也との戦闘を思い浮かべれば、その拙さに苦笑するしかない。
子供の頃から銃をぶっ放してきたというのに、いざ銃撃戦となると全く恰好が付かないものだ
九也と二人合わせて、一体、何発無駄弾を撃ったことやら。
もちろん、ハリウッド映画みたいなスタイリッシュな銃撃戦なんて、烏滸がましいのは最初から分かっている。
女の子の頭を撃ち抜くためにひたすら命中精度を上げてきたというのに、自分が銃を向けられりゃビビッちまって、まともに狙いもつけられない。
長い刃物を振り回したところで、肉屋の親父がサムライじゃないように、銃を握ったところで、俺たちはガンマンじゃないのだ。
タイムカードを押して、パソコンの一台しかない職場で、ガムテープでぐるぐる巻きのおんぼろ椅子に座って、ボールペン片手に書類を書いて、女の子の頭に弾丸をぶっ放した後は、ひぃひぃ言いながら長い長い報告書を書いて、またタイムカードを押す。
結局、俺たちはただの公務員でしかない。
無抵抗な女の子の頭を吹っ飛ばすしか能の無い駆除員。
ジョン・ウェインでもなければ、ジュリアーノ・ジェンマでもないのだ。
だから、これが最後だというのに、こんな締まらない幕切れにしかならない。
十四郎は大きく息を吸いこんで、静かに暗闇へと銃を向ける。
九也は暗闇の奥で、十四郎の足音を耳を澄まして待ち続けているに違いなかった。
だが、彼がそれを聞くことはない。
確かに避難誘導灯の灯りは弱々しかった。
その周囲を、ぼんやりと照らす程度でしかない。
だが、そんな微かな光であったとしても、砕けた蛍光灯のガラス片がわずかにそれを反射したのだ。
狙ってやったというのなら、多少は格好もつくのだろうが、改札口に隠れていた九也、その頭上の蛍光灯を撃ち抜いたのは、完全なるミスショットだ。
だが、九也の頭上へと降り注いだ蛍光灯の破片が、彼の髪に纏わりついている。
九也がわずかに頭を揺らすのに合わせて、それが微かに避難誘導灯の光を反射したのだ。
もう一度繰り返す。
無抵抗な人間の頭を撃ち抜くために、俺たちは命中精度を上げ続けて来たのだ。
撃ち抜く頭がどこにあるかさえ分かれば、有効射程距離ギリギリだろうと絶対に外さない。外す訳が無い。絶対にだ。
十四郎は引き金に掛けた指に力を籠める。
銃声は一発。
くぐもった短い悲鳴。暗闇の中に、ビシャリと液体の飛び散る音が反響した。
◇ ◇ ◇
(大分、待たしちまったな……)
改札を抜けて階段のところまで戻って来ると、レプリを引き連れた鈴がそこに佇んでいた。
「じっとしてろって言ったのに……」
「……終わったの?」
「ああ」
避難誘導灯のぼんやりとした灯りで、緑に染まった鈴の顔。
その表情は暗く沈み込んでいる。酷く思いつめたような、そんな顔をしていた。
「どうした?」
十四郎のその問いかけに、鈴はふるふると首を振って黙り込む。
一体、何がどうしたというのだろう。
十四郎に人の心の機微など分かるわけもなく、鈴のこの変化には戸惑うしかない。
どうしてよいかわからぬまま、十四郎は口を開いた。
「鈴、地下から出よう。九也が誰かに知らせたかどうかは分からないが、地下道で機動隊にでも囲まれたら、手の打ちようがなくなる」
「……うん」
十四郎は静かに鈴の手を取ると、改札の方へと歩き始める。
九也の死体を見る気にならなかったので、改札を出て右側へ、逆方向の階段へと向かった。
二人とレプリの足音だけが響く地下通路。階段の傍まできたところで、鈴がぽつりと呟いた。
「お兄ちゃん……アタシ、やっぱ、生きてちゃいけないのかな」
その呟きに、十四郎は思わず足を止める。
鈴は、九也と十四郎のあの会話を聞いていたのだ。
そして、あらためて突きつけられてしまったのだ。
今まで考えないようにしていたことを。
気づかないふりをしていたことを。
確かに今の彼女は、彼女の存在そのものが、他の人間にとって危険極まりないものだ。
何をどう言い繕ったところで、それは厳然たる事実である。
十四郎以外の人間が彼女に近づけば、いとも簡単にレプリに引き裂かれてしまうのだから。
迷惑かどうかなんてレベルに話を広げてしまえば、もう手の着けようがない。
避難させられるだけでも迷惑。
鈴にまつわる報道特別番組で、見たいドラマが延期されたと憤っている連中もいることだろう。
そんな連中にクレームをつけられる市役所の職員だって、やっぱり迷惑だと思うに違いない。
確かに鈴は、迷惑を撒き散らしている。
もはや彼女は台風や地震と同じ、市役所の書類上では災害の扱いなのだから。
九也に言い返す時には、スラスラと出て来た言葉も、今はジャムった弾丸みたいに喉の奥に詰まったまま。
「それでも俺は……鈴に生きていてほしい」
十四郎は……そんな、ただの我が儘としかいえないような言葉を絞り出す。
それが彼の精一杯だった。
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