周七海が死亡した翌朝のことである。
美奈が足を踏み入れると、騒がしかった教室が急に静かになった。
同級生たちが話していたのは当然、鈴のこと。
テレビの報道番組はほとんど鈴のことばかり。ドラマやクイズ番組にチャンネルを変えても、エル字に区切られた画面の端には、鈴の動向を示すテロップが表示され続けていたぐらいだ。
話題になっていなければおかしいことぐらい、美奈にだって分かっている。
だが、いつも一緒に居た美奈の前で、鈴のことを話題にすることに、クラスメイトたちは一瞬、躊躇した。
だが、話したいという欲求は、そんな気遣いをあっさりと上回る。
美奈が無言で席に腰を下ろすと、再びざわめきが大きくなった。
美奈の近くにいる子たちはヒソヒソと、遠くにいる子たちは声高に馬鹿笑いを交えて。
表情はそれぞれだけれど、クラスメイトが少女分裂病を発症して、男性と一緒に逃亡しているという状況、その非日常感を楽しんでいるように見える。
本人たちが、そのことに気付いているかどうかは別として。
美奈は肘をついて、手持ち無沙汰にスマホの画面に目を落とす。
プッシュ通知で表示されるニュースのヘッドラインはやっぱり鈴のこと。
『現代のボニー&クライドか?』
(なんだろう、ボニー&クライドって……)
「怖いよね……立て続けに二人も発症されたら」
検索しようと「ボニー」と打ち込んだところで、窓際で話をしている子たちの方から聞こえてきた声に、美奈は手を止めた。
隣のクラスの井ノ元さんに続いて二人目の発症者。
あまりにも身近な出来事。
それまで教科書の中の出来事だった少女分裂病が、彼女たちの中で唐突にリアリティを増したのだ。
次は自分かもしれない。
そう考えるのも当然だろう。美奈だってそう思う。
すると、今度はクラスの中でも派手な子たちが、声を潜めるでもなく鈴のことを話題にするのが聞こえてきた。
「男の人と一緒に逃げてるって言ってたけどさ。桧垣さんのお父さんか、お兄さんってこと?」
「違うって。記者会見で言ってたじゃん」
「じゃ、誰よ?」
「それなんだけどさ。ここだけの話、一緒に逃げてるの市役所の職員なんだって、それも少女駆除員」
「マジで?」
「マジマジ、ウチのお父さん、市役所勤めなんだけど、おかげで市役所は上へ下への大騒ぎだってさ」
「でも、他人だったらレプリに襲われちゃうんじゃないの?」
「なんか、方法があるんでしょ。駆除員だし」
一緒に逃げているのは、少女駆除員。
それは美奈も初耳だった。
だが、どうして鈴の氏名が公表されるのに、一緒に居る男の方はテレビでも男性としか公表されないのかが、分かったような気がする。
駆除員が発症者と一緒に逃げていると知られれば、世間の風当たりは相当なものになるだろう。だが、こんなにあっさり情報漏洩する辺り、やはり人の口に戸は立てられないのだなとしみじみ思った。
「ってことは、あれかな……愛の逃避行ってやつ。君のためなら、僕は全てを捨てるよ! みたいな」
「たぶんそうだよ。そうじゃなきゃ一緒に逃げるなんて無理だって」
「ヤバッ、ラブコメじゃん、うらやま」
少女分裂病を発症したのが鈴で無ければ、私もたぶんあっち側で興味本位に、噂と想像に話を咲かせていたことだろう。
勝手なものだと思う。
でももし、一緒に逃げている男の人が、本当に鈴と愛し合っているというのなら、救いがあるような気がした。
彼女にはもう、家族はいないのだから。
そんなことを考えていると、すぐ近くでたむろしている子たちの方から「ちっ」と舌打ちする音が聞こえてきた。
こっちは地味な一団。いわゆる優等生と言われる子たちだ。
「何がラブコメよ。記者会見でもテロリストだって言ってたじゃないの。人権尊重主義の過激派だって」
「ほんと、迷惑だよね。そもそも桧垣さんって遅刻してくるし、バカだし、字汚いし、なんでこんな子が身の程知らずにウチの学校に入れたのか不思議なぐらいだったけど、とうとう学校の品位まで落としてくれちゃって……ほんと迷惑」
「うん、ほんとそうだよね。同じ学校だってだけで白い目で見られそうだし……。それに、確かもうすぐスタンピート起こしちゃうんでしょ?」
「そうなの?」
「うん、今は県境の辺りに隠れてるっぽいけど……このまま行けば隣県で、スタンピートするかもってニュースで言ってた」
「えーちょっと! やめてよ! アタシんとこ、親戚いるんだけど!」
「もーほんといい加減にしてほしいよね。そこまで人に迷惑掛けてでも生きてたいわけ? 恥ずかしくないのかしら」
カチンときた。
そりゃそうだろう。生きていたいに決まってる。
恥ずかしい?
生きていたい。そう思うことの何が恥ずかしい?
そもそも、お前らの中で少女分裂病発症して、みんなのために死のうって思えるヤツが何人いる?
『ああ、分裂症に罹ってしまった。迷惑になる前に死のう』なんて、平然と死ねるヤツが何人いるというのだろう。
そう考えた直後から、記憶が途切れている。
ああ、あれがキレるということなんだなと思ったのは随分後のことである。
気が付いた時には、美奈は掴みかかっていた。
今、くだらない事を口にした同級生。しかつめらしい顔をして、普段から鈴を目の敵にしてた風紀委員の子にだ。
目を丸くする同級生たち。
ガタガタガタと机が音を立てて倒れ、騒然とした空気が舞い降りた。
「お前ら! 他人の迷惑なんてあやふやなもんのために死ねんのかよ!」
「ちょ、な、なにすんのよ! きゃあぁああ!」
なんでそんなことをしたのか分からない。
だが、美奈は声を限りに叫びながら、風紀委員の胸倉を掴んで、もう一方の手で、抗う彼女の手首に爪を立てていた。
ムカつく、ムカつく、なんで鈴がこんな目に遭わなきゃならない。こんなヤツに、こんなこと言われなきゃならない。
そう思うと涙が溢れてきた。風紀委員を力任せに引っ張り倒しながら、美奈は吠える。
「お前が死ねよ! お前が死んでみせろよ!」
「な、なに言ってんのよ、ぶ、分裂病発症したら死ななきゃならないって、ずっとならってきたじゃん。逃げてるヤツが悪いに決まってるでしょ!」
風紀委員が美奈を押しのけようと手を振って、その指先が彼女の眼鏡を弾いた。
眼鏡が床の上で跳ねて、くるくると回る。
それと同時に、教室の中に入ってきた担任が声を荒げた。
「お前たち! 何をやってるんだ!」
◇ ◇ ◇
そして今、美奈はカウンセリングルームで、担任と差し向かいで話をしている。
ゴリラみたいな顔をした担任が、ため息交じりに口を開いた。
「いくら腹が立ったからと言って、暴力はいかん、暴力は」
「鈴を殺すのは……暴力じゃないんですか?」
ゴリラは一瞬、何かを喉に詰めたような顔をした後、言い聞かせるような声音で語りかけてきた。
「屁理屈を言うな。お前ももう高校生だろ。物事に分別のつく歳だろうが。発症者は駆除しなけりゃ、もっと多くのなんの罪もない人が殺される。レプリが人を傷つければ、桧垣だって傷つくことになるんだ。駆除するのは、桧垣のためでもあるってことだ」
「鈴のため?」
「ああ、そうだ。可哀そうだがな」
可哀そう。ああ可哀そう。
その言葉の諦めている感じが嫌い。
自分は情け深い人間だと、陶酔する感じが許しがたいとすら思う。
安全なところから上から目線で見下ろして「可哀そう」。
反吐が出る。
腹立たしいと思う。
なんで、鈴がこんな奴らのために死ななきゃならない。
それを認めるのが分別だというのなら、大人になんてなりたくない。
私は……可哀そうという言葉が嫌いだ。
美奈はそう思った。
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