十四郎は階段を上りながら、後をついてくる妹を気づかわしげに振り返る。
心が萎んでいる。
しおしおと萎れている。
彼の目には、彼女の姿がそう映っていた。
夏の終わりの朝顔。雨ざらしの捨て犬のよう。
今の彼女には、寄る辺も無くゆらゆらと漂う笹船のような危うさが纏わりついている。
確かに彼女が生きていくことは、他人を危険に晒すことに他ならない。
そのどうしようもないジレンマが、わずか十五歳の少女の肩に重く圧し掛かっている。
十四郎は黄色い視覚障がい者用タイルの凹凸を靴底に感じながら、重い心と身体を引き摺って一段また一段と階段を地上へと上がっていく。
(どうすれば……)
彼女に圧し掛かる重荷を取り除いてやれるのか、一緒に背負ってやれるのかと、彼は必死に思考を巡らせる。
(このままじゃ……)
ハムレットさながらに、鈴は生きるか死ぬかの選択を迫られている。
そして今、その天秤は、大きく死の方向へ傾き始めているように思えた。
見上げれば、暗い階段の先に地下道入り口の四角い光。夏の日差しが白く蟠っている。
止まったままのエスカレーター。その脇の階段を二人は無言のままに一段、また一段と上っていく。
(俺が十五の時、鈴と同じ立場だったら耐えられただろうか?)
そう考えた途端、周養育院にいた頃、暇潰しに読んだ小説を思い出した。
今となっては、作者の名前も中島何某としか覚えていない。
確か、西遊記を題材に採った短編で、主人公は沙悟浄だったと思う。
内容は幼い十四郎には難しかったし、ただただ文字を追っていただけに過ぎなかった。
だが、そこに『心と身体は一体であったから、心の痛みはすなわち身体の痛みとなった』。そんな一文を見つけて、十四郎は以降、心が痛むことを避けるようになった。
両親を失い、妹と離別、人殺しの訓練の日々。
心は既に傷だらけで、心の痛みと身体の痛みが一体だというのなら、このままでは死んでしまう。
彼は、幼心にそう思ったのだ。
そして、失って傷つくようなものを作らぬように、心を凍らせて生きて来た。可能な限り世界からの孤立を目指して、生きて来たのだ。
兄弟たちや施設の大人たちにしてみれば、さぞ不気味なガキだったことだろう。
だが、十四郎は今、確かに心の痛みを覚えていた。
(もしかして……俺はなにかを間違えたのだろうか)
彼女が死を願うなら、それを引き延ばしているのはただの我が儘。
いたずらに彼女を苦しめているだけなんじゃないだろうか……と。
やがて、無言のままに階段を上り切り、二人は寒々しい心象風景とは真逆の、午後の陽射しの中へと帰還する。
大通りにはレプリの群れ。鈴の顔をした化け物たちが我関せずと無表情に佇んでいた。
この駅前の辺りは歓楽街らしく、派手派手しい色使いの看板が鈴なりに連なっている。
彼らの目の前、駅前のパチンコ屋は電飾は消えているものの、壁面に埋め込まれた大型モニターは点きっぱなし。
スイッチを切り忘れたまま避難したのだろう。そこに映っているのは午後の報道番組。画面には見覚えのある建物が映っていた。
文学少女を駆除したあの女子寮である。
その門前から、マイクを手にしたレポーターらしき女性が、隣の女子校の正門前へと移動していく。
今が丁度、下校時刻らしく、レポーターは門から歩み出てくる生徒たちにマイクを突きつけてインタビューを始めた。
『すみません。今逃亡中の発症者が、この学園の生徒だということなのですが……?』
すると、おさげ髪の大人しそうな女の子が目を逸らしながら、おずおずと答えた。
『その……迷惑です。こんなことで注目されたくないのに……往生際が悪いっていうか……』
そして、彼女と一緒に居た、いかにも性格の悪そうなショートカットの子が、片頬を器用に吊り上げながら肩を竦めた。外国人のように大袈裟に。
『ぶっちゃけ、バカなんじゃないっスか。アタシだったら、恥ずかしくてすぐ死んじゃいますって』
腹立たしかった。
十四郎に駆除された少女たちが、どんな顔をして死んでいったかも知らないくせに。
死にたくないと、どんな声で泣き叫んだかも知らないくせに。
「鈴……行こう」
十四郎は鈴の手を曳こうとする。だが、彼女は小さく首を振って動こうとしない。
「待って……お兄ちゃん」
「鈴……?」
鈴の視線を追って見上げると、彼女のその眼はモニターの中、インタビューを受けている子たちのすぐ後ろを通り過ぎようとしている女の子に釘付けになっていた。
◇ ◇ ◇
『ぶっちゃけ、バカなんじゃないっスか。アタシだったら、恥ずかしくてすぐ死んじゃいますって』
美奈が正門を出ようとすると、隣のクラスの子が小馬鹿にするような態度で、インタビューに答えているのが見えた。
なにが嬉しいのかヘラヘラと笑いながら。
(ムカつく……)
こいつのケツを後ろから蹴り飛ばしてやりたい。そんな欲求を抑え込んで、美奈は足早にそこを去ろうとした。
だが、彼女のその様子に、なにか感じるものがあったのだろう。
レポーターは目ざとく美奈を見つけると、「はい、はい、すみませーん」と、にこやかな顔で彼女の進路に回り込んできて、マイクを突きつけてくる。
「……何もいうことなんてありませんけど」
美奈が仏頂面で睨みつけると、レポーターはコソコソと耳元に囁きかけてきた。
「まあまあ、そう言わないで、これ生放送ですから。ほら、貴方も今回のには迷惑してるでしょ? そのお気持ちを……ね、わかるでしょ? カメラ回ってますから」
カメラが回ってるからどうだと言うのだろう。みんながみんなテレビに出たいとでも思ってるのだろうか?
「今、逃亡中の発症者についてですけれど……」
ますます、仏頂面になる美奈に、ほら笑ってと言わんばかりに微笑みかけてくるレポーター。
「あんなことされたら迷惑ですよね?」
「迷惑……とは思わないけど」
レポーターは美奈のその答えに、大袈裟に驚いたふりをする。
「ええーっ、でも、でも、みっともないと思うでしょ。往生際が悪いというか、そんな無理にしがみつかなくてもって……」
カチンときた。
「それのどこが悪いのよ! アンタだって、死にたくなんかないでしょ! あの子だってね! 夢があって、未来があって、素敵な恋をする権利があった! あったんだよ! それを全部奪われようとしてるんだよ!」
「いや、でも……」
美奈の剣幕に思わず仰け反るレポーター。美奈は彼女の手からマイクをひったくると、カメラに指を突きつけて捲し立てる。
「いい! 鈴は被害者であって犯罪者じゃない! 患いたくて少女分裂病を患ったんじゃないんだよ! 無責任なことをいうようだけどさ。アタシは何にもしてあげらんない。親友だって、そう思ってたけど……助けてあげることもできない」
泣くつもりなんて無かった。
でも、もう限界だった。
喉の奥から嗚咽がこみ上げてきて、気が付いたら顎を伝って落ちた涙が、アスファルトに斑点のような染みを作っていた。
「一緒にいるって人に……お願いしますとしか言えない。アタシの親友を、どうかお願いだから助けてとしか言えない」
そして、美奈は声を限りに叫んだ。
「鈴! アンタのことだから、しょーもないことにウジウジ悩んでると思うけど、間違ってるのは世界の方だから! アンタは生きていい! 生きていいんだってば!」
◇ ◇ ◇
モニターから木霊した親友の絶叫に、鈴は膝から崩れるようにその場に座り込んだ。
泣いた。子供のように声を上げて泣いた。
十四郎は、空を見上げる。
遠くに入道雲が湧き上がっている。真上には空の青。
良く晴れた夏の午後。風は穏やかで温かい。
新たなスタートを切るには良い日。ここからやり直すには丁度良い日。
そう思えた。
「鈴……いい友達がいるんだな」
十四郎が、そう微笑みかけると、彼の最愛の妹は泣き笑いの顔になって、
「お兄ちゃんも……友達作りなよ」
と、生意気なことをいう。
「……そのうちな」
そんな何気ない回答であったとしても、そのうち……それは未来のこと。
今はまだ見えなくとも、どこかに未来はあるのだと――十四郎には、そう思えた。
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