建てられたのはここ数年の内なのだろう。
近代的なガラス張りの学舎。
田舎の風景の中に都会的、幾何学的なキャンパスが鎮座していた。
十四郎は、いわゆる学校というものに通ったことがない。
彼が受けた教育は、全て周養育院の中だけで完結している。
それだけに、大学というものには物珍しさを感じていた。
すでに試験休みの期間に入っているらしくキャンパスに学生の姿は疎ら。
十四郎と狭山の二人は、正門で守衛に指示された通りに歩いて研究棟に辿り着き、『磯山准教授』というプレートの掛かった部屋の扉をノックした。
「入り給え」
中から聞こえてきたそんな声に従って部屋に足を踏み入れると、雑然と積み上げられた書物に埋もれるデスク。その向こう側で、キーボードを叩きながら、苛立ち混じりに髪を掻きむしる男の姿がある。
不健康そうな肌の色に、深い目の下の隈、無精ひげに伸びっぱなしのまま顧みられない髪。白衣こそ着ていないものの、マンガにでも出てきそうなマッドサイエンティスト染みた風采の男である。
十四郎は、ちらりと狭山の方へと目を向ける。
その表情は明らかに(大丈夫か、コイツ?)と、そう言っていた。
狭山は取り繕うような引き攣った微笑みを浮かべながら、部屋の奥へと声を掛ける。
「あの……磯山先生、少女分裂病のことでアポイントを取らせていただいた……」
「ああ、そうか、そんな約束をしていたな。うむ、かけたまえ」
かけたまえと言われても、応接用のソファーの上も紙束の山である。
十四郎と狭山は頬を引き攣らせながらも、紙束をそっと左右によけて、どうにか二人分が座れるスペースを作り、そこに腰を下ろす。
カタカタとキータッチの音を聞きながら待つこと十五分。
磯山准教授は、引いた椅子が紙束の山を崩すのを気にかける様子もなく、デスクの向こうから出てきたかと思うと、彼らの向かい、そこにあった紙束の上へと、そのまま腰を下ろした。
「確か少女分裂病について教えて欲しいことがあると、そう言っていたな。で、何を聞きたいのだね、君たちは」
「単刀直入にいうと、治療法っス」
「あるわけないだろ、そんなもん」
狭山の問いかけは、食い気味に一刀両断された。
「そもそも、病気でもないものを治療など出来る訳があるまい」
「病気じゃない?」
「そうだ。あれは免疫反応だよ」
思わず眉間を曇らせる二人に、磯山准教授は人差し指を立てて、まるで学生に講義をするかのように語り始める。
「キミたちは、ガイア仮説というものを知っているかね」
「……なんとなく聞いたことはあるような」
狭山が、自信なさげに十四郎の方へと目を向ける。
だが、十四郎としてはそんな顔をされても困るしかない。
彼の知識は義務教育レベル。
突出しているのは殺人技術だけなのだ。
「ふむ、まあよかろう。ジェームズ・ラブロックという大気学者が提唱した学説なのだがね。一言でいえば、地球自体を自己調節システムを備えた「巨大な生命体」と捉えるというものだ。端的にいえば、生物と環境の相互作用が、そのシステムに組み込まれたものであるとする説だな」
「はぁ……」
「あまり良く分かっていないようだな、その顔は。つまり、地球を一人の人間の身体だと捉えるということだ。君たちは分裂病を病気だと思っていたようだが、そうじゃない。地球の立場に立ってみれば、その健康を脅かすものはそっちじゃない」
地球の立場に立つという意味不明な物言いに、十四郎と狭山は眉間の皺を深くする。
彼らの心情を言葉にするなら、『なに言ってんだ、コイツ?』と、そうなる。
だが、磯山准教授はお構いなし。少々芝居がかったような口調でこう言い放った。
「わかるだろう? そう、人間だよ、人間。地面を掘削し、海を埋め立て、海洋を、大気を汚染するもの。人間は地球から見れば、癌みたいなものだ。そう理解すれば、少女分裂病の正体が見えてくるだろう?」
「地球の免疫反応。人間を駆除するために発生してる……ってことっスか?」
狭山が、おずおずと上目遣いにそう問いかけると、磯山准教授はニヤッと口元を歪めた。
「その通り。エセスター大学のガイア仮説研究チームが発表した最近の論文に、なかなか面白い表現があってね。『環境を不安定にする生命は長く栄えることができず、そのことが地球にさらなる「変化」をもたらし、環境が安定するまでそのサイクルを繰り返す』。まさにその通りだと思わんかね」
言わんとしていることは、なんとなくわかる。
あくまで、なんとなくだが。
「太古の昔、地球に酸素が生まれた時点で、酸素を嫌う生物が大量に絶滅する一方で、酸素を活用する複雑な生命体が繁殖可能な環境ができた。これはすなわち、地球がそのシステムを効果的に安定させるために「再起動」を行ったようなものだと言っていい。そして今再び、地球が「自己調節機能」を用いて環境を安定させようとしているのだと、私はそう考えている。その「自己調節機能」が形として現れたもの、それが『少女分裂病』なのだとね。その仮説に乗っ取れば、アレは人類という種が滅亡するまで繰り返されなきゃおかしいのだよ」
十四郎は、正直言って混乱した。
これまでは『少女分裂病の発症者はガン細胞みたいなもの』。そう教え込まれてきたのだ。それ故に外科手術によって患部を切除する――つまり発症者を殺すことこそ正義なのだと。
だが、今の話を額面通りに受け取ると、悪いのは人間であって、それを駆逐する役割を負って発生したのが発症者であり、レプリである。
そう聞こえる。癌は人間の方なのだと。
これには十四郎も鼻白む。
「発症者を駆除する方が悪だと、そういう意味ですか?」
「悪? 善悪なんていう意味のない二元論は、クズ籠にでも捨てたまえ。ゾロアスター教の信奉者でもなければ、そんなものに意味を見出す理由は無い筈だ。現代の学問は全て相対性の上に立脚している。地球の側から見るのと人間の側から見るのとでは、善悪など真逆に変わるのだから。認識などどうでも良いのだよ。起こっている現象をそのまま捉えなければ、学問などできん」
不機嫌そうな顔になる十四郎とそれを気にも留めない磯山准教授。二人の間に身を乗り出して、狭山は悪くなった空気を取り繕うとする。
「そ、壮大な話っスね」
「別に壮大でもなんでもなかろう。生命が誕生してからの約四十億年の間に、数え切れないほどの「種」が現れては消えていった。ホモ・サピエンスがその「例外」であるなどとは誰も言えんはずだ」
「……言葉遊びみたいなもんだ」
「ちょ、先輩!」
不機嫌さを隠そうともせずにそう吐き捨てる十四郎に、狭山は慌てる。
だが、相変わらず磯山准教授は我関せず。いや、むしろ面白がるような顔をした。
「ふむ、言葉遊びか。だが、それこそが学問というものだな。最初に言葉ありき。アーメン。学問と宗教は紙一重だというのはなかなか良い発見だ。青年、君たちは治療法と言っていたが、君たちがいくらあがこうとも、あれは止められるものではない。人という種がこの惑星にとって害である限りね。そう考えれば、おもしろいとは思わないか?」
「なにが!」
十四郎はもはや敬語ですらない。彼が睨みつけると磯山准教授は興奮を抑えきれないとでもいうように立ち上がる。そして恍惚とした表情でこう告げた。
「不謹慎だとは思うがね。私たちは歴史の現場にいるのだよ。それもホモ・サピエンスの歴史ではなく、地球という惑星の歴史だ。地球環境の転換期。アレによって、我々人類という種の最期が見れるかもしれんと思うと、私はワクワクするのを止められない」
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