バタバタと、ヘリのローター音が響き渡っていた。
薄闇の中に明滅する赤の衝突防止灯。トビウオのようなシャープな機体が、微かに上下しながらホバリングしている。
自衛隊所属の観測ヘリ――OH-1。
川崎重工製の『ニンジャ』という、いかにもな愛称を持つそのヘリが、暗い地上に淡い影を落としていた。
操縦桿を握っているのは、萩尾二等陸曹。
彼の目には、水平線に一条の線を描く紅い夕陽の名残。そこから更に真下の方へ視線を落としていくと、薄墨のような薄暮に沈む市街地が見える。
地方都市とはいえ、中央駅には特急も停車する、それなりに人口のある街だ。
駅前のロータリーには、大手都銀の大看板も見える。地方銀行が幅を利かせる田舎に於いて、都市銀行の看板が並んでいるのは、それなりに栄えた町であることの証左だとも言えよう。
だが、栄えていたのは、つい数時間前までの話。
眼下の街に昼間の喧噪は既に無く、人工の灯りは完全に途絶えて、太古の遺跡さながらに、人の営みの消えた寒々しい躯を晒している。
微かな斜光の中に建物の輪郭が凹凸を描き、地鳴りのような低い音が這いずるようにうねっていた。
時折青く発光しているのは、引きちぎられた電線のスパークだろうか。
「裸の女の子で一杯だってのに、ちっともありがたみがねぇな」
タンデムシートの後部座席で、上官がぼそりと呟いた。
街並みの凹凸。薄暗いそこに目を凝らせば、建造物の間を黒い影がびっしりと埋め尽くし、街灯に群がる羽虫さながらに、ぞわぞわと蠢きながら波打っている。
眼下で蠢く影は、全て裸の女の子の群れ。
但し、一人残らず同じ顔、同じ体型の同一人物である。
ここから目を凝らしてみても、それが分かる訳ではないが、本部から齎された情報によれば、オリジナルは『ヒガキリン』という名の十五歳の少女らしい。
十五歳の少女の裸にありがたみなどという言葉を使うのは、昨今のポリコレ全盛の風潮から言って、非難されかねない話ではあるのだが、この上官はそういうことに、とんと無頓着なのだ。
「今、どれぐらいだ?」
「計算上では、十三万一千七十二体です」
萩尾二等陸曹がそう答えると、イヤホンから上官のため息が聞こえてきた。
それは、ため息も吐きたくなる。
大規模なスタジアムの収容人数三つ分。
この規模になってしまえば、採れる方策は限られている。もはや現場でどうこう出来るレベルを超えていると言わざるを得ない。
少女分裂病の初観測から十八年。
十三万体を超えるのは、世界でもこれが三例目。
一人の女の子が、あれよあれよという間に増殖し、昨年アルゼンチンで発生したスタンピートに次ぐ規模にまで成長してしまったのだ。
アルゼンチンの場合は、この群れが首都ブエノスアイレスを蹂躙し、アルゼンチン共和国軍は実に皮肉なことに、自らの手で母国の首都を空爆する羽目に陥った。
被害総額は天文学的。
首都だけではなく、ただでさえ脆弱なアルゼンチンの経済までもが壊滅的な打撃を受けたのである。
それに比べれば、地方都市を蹂躙される程度で済んでいるのは、まだマシだと言えなくもない。
「先頭集団はそろそろ隣市へ到達しそうだな。住民の避難はどうなっている」
「さっきの無線では、八十パーセント程度だと……レプリどもが、このまま日本海に向けて進行を続けるという想定で、進路上の住人に避難命令を出しているようですが」
息遣いの音だけで、上官の渋い顔が思い浮かんだ。
「……十五の小娘とはいえ、相手は野生動物や自然災害じゃないんだ。知恵もあれば知能もある。そのまま真っ直ぐという予測は、ちょっと短絡的すぎやしないか?」
「自分に言われても困ります」
萩尾二等陸曹は、ばっさりと切り捨てる。
このあたりはちゃんと主張しておかないと、この後、非難めいた言葉を延々とぶつけられることになりかねない。
「……そうだな、スマン。それにしても、ここまでくれば、流石にオリジナルがどれかなんて全く判別がつかないな。マーカーの取り付けにも失敗したそうじゃないか」
「ええ」
この集団は、母体となった少女とその複製で構成されている。
一般的に、母体となった少女をオリジナルと呼び、複製をレプリと呼ぶのだが、オリジナルが死亡すれば、レプリが瞬時に消滅することはもはや一般常識である。
だが同じ顔をした十三万人の中から、一人を特定することなど、砂漠の中で一粒の砂金を探すのとさして変わりはない。
「それで、防衛出動の下命はまだなのか? こんなもの、もう空爆以外には対処のしようがないだろ」
本来、自衛隊に空爆能力はない。専守防衛の思想から言えば爆撃自体が必要ないはずなのだ。
だが、アルゼンチンで起こったスタンピートの翌年に、政府はスタンピートへの対応策として、B-2ステルス爆撃機一機と、スペック更新版のB-52爆撃機四機を米国から購入し、航空自衛隊に配備した。
「一時間前に問い合わせた時には、既に防衛大臣と統合幕僚長が官邸に入っておられましたが……」
その時点で、すでに総理のご決断待ちとは聞いているが、以降なんの音沙汰もない。
一応、十五分おきに問い合わせてはいるのだが、オペレーターからの返答はずっと『待機』のままだ。
上官の苦々しげな舌打ちが鼓膜を打って、「左巻きどもめ」と呪詛めいた言葉がその後に続く。
実際、現場の人間からしてみれば、シビリアンコントロールなどという麗しい響きをもつ仕組みはただの鎖でしかない。
軍部の暴走を防止するためだというのは、理解している。
だがそのお蔭で、どんな行動にも一拍の遅れが発生するのだ。
これを不健全だと感じないのであれば、不感症を疑った方が良いだろう。
その遅れのせいで命を危険に晒すのは、彼ら現場の人間なのだ。
その上、なにより最悪なことは、現在の内閣がいわゆる左翼政党の連合政権であることだ。
その中心にいるのは、先の敗戦以降の極端なアレルギー反応から軍や戦争、戦闘行為を極端に忌避し、それを悪だと決めつける左翼運動家上がりの政治家たちなのだ。
いや、別にそれを非難しようというのではない。悪なら悪でもかまわない。必要悪だと納得してくれれば、それで良いのだ。
だが、現状を顧みてみれば、それが必要な現実と、自分たちの理想の間で折り合いをつけられずに駄々を捏ねる子供みたいな有様である。
「会議は踊る。されど進まず……か」
今も統合幕僚長の説得に内閣総出で困惑顔、「いや、しかし……」などと繰り返しているであろうことは想像に難くない。
確かに、十五歳の少女たちを空爆しようというのだ。その言葉から想像できる光景は、醜悪の一言に尽きる。
だが、少女とは言っても、オリジナルはともかく、レプリの方は人知を超えた化け物なのだ。
頭を吹っ飛ばしても即座に再生し、その膂力は信号機すら飴のようにひん曲げる。燃やそうが無駄。潰そうが無駄。どんなにダメージを与えてもすぐに歩き出し、動く者には区別なく襲い掛かるのだから、災害以外のなにものでもない。
「まったく……ゾンビみたいな連中だ」
萩尾二等陸曹には上官のその呟きが、内閣の動きの遅さを揶揄したものか、それとも眼下の少女たちを指したものか、判断がつかなかった。
彼は、とりあえず当たり障りの無い方を選んで回答することにした。
「ゾンビの方がいくらかマシですよ。レプリは、なにせ増殖が速すぎます」
対処が遅れれば、少女の数はすぐに倍に増える。
数時間後には二十六万、やがて五十二万、そして朝を迎えるまでには百万人を超える。
そうなれば、一県の総人口を越える規模である。
しかもオリジナルを排除しないかぎり、少女たちが活動を止めることはないのだ。
「このまま、こうしていても何も変わらん。燃料のこともある。一旦帰投するとしよう」
「了解」
萩尾二等陸曹が帰投許可を求めるべく通信を入れようとしたその瞬間――
突然、火がついたかのようにアラート音が鳴り響き、ガリガリガリッ! と、けたたましい金属音と共に機体が激しく揺れた。
「ッ! な、なんだ!」
「こ、攻撃されています! 高速で飛来する物体複数!」
「回避っ……」
上官が上擦った声を上げたその時には、もう何もかもが遅かった。
次の瞬間、キャノピーのガラスを突き破って、白い槍上のモノがヘルメットごと上官の頭を吹っ飛ばす。轟音、飛び散る血と肉片。ガラス片とともに吹き込んでくる風が激しく顔を叩いた。
「あ、な、なっ、ああああああっ!」
思わず操縦桿から手を放し、萩尾二等陸曹は言葉にならない声を上げながら身を捩る。
逃げ場などないことは分かっている。分かっているのだ。だが、そうせずにはいられなかった。
彼は見た。地上から彼の方へと飛んでくる、無数のへし折られた道路標識の数々を。
そして、迫りくる駐停車禁止の標識。
それが、彼の見た最後の光景となった。
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