暗い地下鉄線路を歩いていると、突然、思い出したかのように鈴が口を開いた。
「あ、そう言えばお兄ちゃん、買ってきたカップラーメンって何味?」
「豚骨とシーフードだが」
「お兄ちゃんはどっちが好き?」
「強いて言うなら豚骨だ」
「じゃあ、アタシも豚骨っ!」
「そうか、じゃあ俺はシーフードの方を……」
そう言いかけたところで、鈴が十四郎のシャツの袖口を掴んで、ふるふると首を振った。
「分かってないなぁ……お兄ちゃん」
「なにが?」
「そこは、豚骨は俺のモノだ! 妹の癖に生意気だぞって返してくんなきゃ」
「はい?」
「で、豚骨ラーメンを巡って兄妹喧嘩するの。で、散々言い争った末に、最後は半分ずつ食べることになって、アタシが『えへへ、おいしいね』っていうから、お兄ちゃんは照れ隠しにそっぽを向いて『……そうだな』って、返してくれるまでがワンセットだよ」
「なんだ、その茶番……」
「だってほら、アタシたちちゃんと兄妹として想い出を作っていかないと! 人並み以上にアグレッシブに兄妹していかないと!」
「アグレッシブに兄妹するって……日本語がおかしい」
「アグレッシブは英語だよ? お兄ちゃん」
十四郎は、ちょっとイラっとした。
妹じゃなかったら殴ってたかもしれない。
「ま……まぁいい、とにかくもうそろそろ、次の駅につくはずだから」
十四郎が頬を引き攣らせながらそう口にした途端、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「ッ!?」
それはほぼ本能みたいなもの。殺すか殺されるかで埋め尽くされた彼の人生が磨き上げた第六感とでもいうべきもの。それが激しく警告を発していた。
十四郎は懐中電灯を投げ出して、鈴に飛びつく。
「きゃっ!?」
彼女が驚きの声を上げたのとほぼ同時に、遥か前方で銃声とともにマズルフラッシュが明滅した。
つい今の今まで彼がいた場所を弾丸が通り抜け、背後のレプリの胸、その中央が弾け飛ぶ。
明らかにホローポイント弾の銃痕。鉛が肉を抉り、派手に血が飛び散った。
今の銃撃は十四郎を狙っての一撃。いや、正確には懐中電灯を手にしている人間を狙っただけだろう。
当たったのは胸……つまり、的の大きい部分を狙ったのは、外さないように。
暗視装置の類は使用していないということの証左である。
「鈴、お前はここに伏せてろ。レプリに周囲を囲ませて身を守れ!」
「う、うん、お、お兄ちゃんは?」
「ちょっと、行ってくる」
「え!? お、お兄ちゃん!」
言うが早いか、十四郎は身を低くして駆け出した。
それにしても枕木の凹凸は厄介だ。態勢は崩れるし、速度も出ない。
サイドステップを踏みながら駆け寄ろうとするも、足音を狙っているのだろう。銃声とともに、頬のすぐ横を弾丸がすり抜ける感触があって、思わず身体中からネトついた脂汗が噴き出した。
危なかった。あと二センチずれてたら死んでいた。
どうにかしてこちらの射程距離まで近づかないと、まともに反撃も出来やしない。
だが、相手の大体の位置は掴めた。距離は百メートルもない。
暗闇の中に再びマズルフラッシュが明滅する。
十四郎は見た。
狙撃手の特徴的なシルエット。顔半分を覆い隠すほどに長く伸びた前髪。
(九也か!)
用意周到なあの男が、暗視装置の一つも用意していないということは、たぶん十四郎たちが地下にいることに気付いてから、それほど経っていないということ。
取る物も取り敢えず、慌てて地下へと降りて来た。そういうことに違いない。
接近したら実は罠で、機動隊が待ち受けているなんてこともないはずだ。
ナンブEXの有効射程距離は五十メートル。
銃撃が止んだところで一気に駆け出し、目測五十メートルに入るやいなや、十四郎は先ほどマズルフラッシュで九也の姿を捕捉した辺り、その足下を狙ってぶっ放す。
キンッ! と甲高い音が響いて弾丸の当たったレール上で火花が散った。
だが、ほんの一瞬明るくなったそこに、九也の姿は見当たらない。
九也のいた辺りは駅のホームから降りたところ。
どうやらホームに上がって逃げ……いや逃げはしないか。どこかに潜んで、こちらの隙を窺っているに違いない。
暗闇の中に、微かにホームの輪郭が見えた。
十四郎は、注意深くホームへ上がると、手探りで階段を探し当て、改札の方へと上がる。
銃を構え、足音を殺して一段、一段。
改札のあるフロアに上がりきると、非常口への誘導灯が緑の光を放っていて、ぼんやりと改札や乗り越し精算機のシルエットが浮かび上がっていた。
壁に背を預けながら、十四郎は静かに歩みを進める。
物音ひとつしない薄闇の中、静けさのあまり、キーンと微かに耳鳴りがした。
自分の呼吸音がやけに大きく響いて、気になりだすと息苦しさを感じるようになってくる。
そして、靴の踵がわずかに壁を擦って、微かな擦過音が零れたその瞬間、改札機の間で立ち上がる人影があった。
「くッ!」
間髪入れずに奥へと跳んで地面を転がる。銃声とともに十四郎のいた場所に二本の銃痕が刻まれた。
ライフルではなく拳銃の発射音。おそらくSIGのもの。
九也が使用しているのなら、恐らく警察や機動隊に配備されているのと同じ、P230とみて間違いない。
だとすれば装填弾数は八発。
態勢の整わぬままに、十四郎は反撃を開始する。
転がりながらナンブEXのトリガーを立て続けに絞り、三発を発射。ウチ二発は改札機に弾痕を刻み、一発は大きく外れて改札機真上の蛍光灯を割った。
十四郎はそのまま改札の前を駆け抜けて、奥の階段脇の柱、その陰に身を隠す。
流石に今のはヤバかった。心拍数が上がっている。十四郎は兵士ではない。少女を殺す訓練を受けて来ただけだ。
少なくとも十代の少女が銃を撃ってくることはないのだから、銃撃戦は駆除員の訓練の内に含まれていない。
「……ったく、面倒くせえ。最初の一撃でくたばってりゃいいものを」
改札機の陰から九也の声が聞こえてくる。
どうせお互いのいる位置はバレているのだ。声を出したところで何も変わりはない。そういうことだろう。
「お前は殺気が強すぎるんだ、九也」
「何をトチ狂ったか知らないが、諦めて投降しろ、いやめんどくせえから自殺しろ」
「誰が死ぬか! 鈴を待たせてるんだ、お前が早く死ね」
「はっ、逃げてどうする。どうせどこにも行けやしない。人さまに迷惑かけるだけだろうが、その鈴って女は害悪だ。そいつのせいで何人死んだ? 七海は死んだ。機動隊も全滅だ。顔も名前もしらねぇが、そいつらにだって家族はいるだろうよ。孤児のくせに新たに孤児生みだしといて、知らぬ存ぜぬは通用しねぇぞ」
「口の達者さを自慢したいなら、コメディアンにでもなったらどうだ」
銃に残された弾丸は残り一発。
言葉を返しながら、十四郎はウェストポケットから弾丸を取り出し、二発を装填する。
フルにする弾丸が無い訳じゃないが、九也を斃して終わりじゃない。
むしろこの先の方が長いのだ。無駄玉を撃つ余裕はない。
「どう考えても助からない人間は見捨てるしかないだろうが、その女が死ぬことで、死ななくて済む人間もいる」
「……トロッコ問題には興味がないな。多くの人間が生き残ろうが、鈴が死ぬなら何の意味もない。いいか、世界中の人間全部合わせたよりも、俺にとっては鈴一人の方が価値がある」
そう言いながら十四郎は、柱の陰から駆け出した。
途端に九也が立ち上がる。彼はサイドステップを踏む十四郎に狙いを定めて立て続けにトリガーを絞った。
だが、六発目の銃弾が、十四郎の肩口をかすめたところでオープンホールド。カチリと撃鉄が空撃つ音が響いた。
「ちっ!」
一つ舌打ちすると、九也の行動は速かった。
彼は十四郎目掛けて拳銃を投げつけると、改札から走り出て一目散に通路を駆け抜け、あらためて距離を取る。
無駄玉は撃てない。その思いが十四郎の判断を鈍らせた。
九也の背に照準を合わせ切れずに、撃てなかったのだ。
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