Gsus4

「あっ、やわらかいんだ」
煙突
煙突

Gsus4

公開日時: 2021年9月5日(日) 10:21
文字数:2,530

 成金の家に生まれた。

 父が自分では成せなかった、音楽家という夢をわたしに押し付けた。 

 三歳から人生を楽器とともにした。スタートが早かったため飲み込みもよく、幾度となく賞を獲っては、そのたびにご馳走が食卓に並んだ。

 翻っていえば、音楽で成功しないわたしは、父にとっては用をなさないということだ。


 ヴァイオリンにピアノ、フルートと、現代的なクラシックの器楽を徹底的に学んだので、楽典的教養――音階や和声、調、トニックやドミナントといった知識は嫌でも身に着いた。

 しかし残念ながら耳は悪かった。こんなに高いレッスン料を払っているのに、と父からは冷たい目線を浴びた。聴ソル――聴音とソルフェージュという基礎の基礎については、はっきりいって最悪だった。成績が悪すぎて、レッスンがつらすぎて、音楽を辞めよう、父に詫びて挫折したことにしよう、と思うほどであった。


 しかしながらも、音高――音楽系コースのある高校にかろうじて合格し、そこでわたしは交響楽団に所属した。


 体育館の防音扉を開くと、大音声でさまざまな楽器が鳴り響き、うねりを上げ、さながらロックバンドのコンサートか、または悲鳴と祈りに沸く野戦病院の様相であった。

 ああ、気持ちがいい。


 なぜかしら、この不協和音、いや、雑音というか騒音が大好きなのだ、わたしは。軽音楽部のディストーションやピックアップしたノイズって、こんな感じなのだろうか。生で聴いたことはないけれど。

 背負っていたヴァイオリンを取りだし、調弦し、いったん楽器をケースに置き、弓を取り出してテンションをかけ、二往復程度の松脂を塗り――と、一連の動作をプルトの裏の子と昨夜動画で見た芸人の話をしながら行なう。なんの労作もない。十二年間やっているのだ、目をつむっていたってできる作業だ。


 練習も休憩時間となる。楽器に付いた松脂を拭き取る。塗りすぎたかな、と思いながらほつれかけの弓の毛を裁縫用の小さな鋏で切る。そののち、座っていたパイプ椅子にわたしの背負うべきものすべてを預ける。ぬるいペットボトルのお茶をあおる。いっとき、遠くの方でドラムス、ギター、ベース、キーボード、ボーカルを、シールド越しにアンプやらエフェクターやらで増幅したり、歪ませたりした音が耳に届く。おおかた、軽音部でも休憩を取っているのだろう、防音扉が開くときに音が漏れるのだ。

 あれもいい音だ。気持ちがいい。

 わたしは確実にそう思った。


「あの」

 わたしは第一ヴァイオリンのいちばん指揮台よりの先輩――つまりはコンマスの男子へ声をかける。

「ちょっとトイレ行ってきますね。あと、その――交換しないといけないんで」

「ん? あれ、って――」

 コンマスはただちに気づいた。

「あ、ああ。ゆ、ゆっくり行ってきたらええよ」

 コンマスは照れてしまい、うつむいていった。


『軽音楽部』

 部室には白いプレートにそれだけ書かれ、ドアの上に掲げられていた。ノックしても聴こえないだろうな。扉の把手に手をかけようとすると、頬に冷たいものが当てられる。「ひゃっ!」と驚いてしまう。


「あーら、珍しい。あんた、クラシック一筋の」同じクラスの子だ。いつもニーハイを穿いておりスカートも短く折り、また胸も大きいので色々――ほんとうに色々なうわさも耳にするが、文句なしに美人だ。「あんた、見学? あっちは? オケはいいの?」

「ああ、いや、ちょっと見るだけなんだけど、練習中?」

「んー、とりあえず部長的にはオッケーだと思うよ、別に」と、かの女はわたしの頬に当てたファンタグレープをぐびりと飲む。

「部長?」

「あたし。部長」げふっ、とげっぷをする。


 中へ通されるとオケの何倍もの音量で楽器が鳴っていた。正確には、鳴っているのは楽器ではなく機材なのだが。

「すごい」それだけいって、わたしは気圧されてしまった。

「なにー? なんかいったー?」

 先ほどの子――部長があれこれ機材を調整しながら大声でいう。それすらも聞き取りにくい。「ていうかさ」


 かの女は自分のギターを肩から外すと、わたしに寄越した。

「なんかてきとうに弾いてみなよ、見学なんだし。Gsus4でも押さえときゃ、あとはどうにでもなる」

「押さえ方分かんない」

 するとかの女はわたしの後ろに回り込み、「小指はここ、んで、こうやってこうして――」

 と、わたしの左手を各弦に置いてゆく。

「あっ、やわらかいんだ」

「は、はあ? いくらあたし発育がよくたって、もう」

「い、いや、弦が」とわたしまで照れてしまう。

「ああ――まあ、ヴァイオリンやアコギよりかはそうだろうね。なんだよ、せっかくいいムードだったのに」とかの女は快活に笑う。「じゃ、弾いてみ。まず単音で」


 驚くほどの音量だ。左手のビブラートもよくかかる。

 気持ちが、いい。それもかなり。


 オーケストラでこんなに楽しかったことがあっただろうか。いつか辞めてやる、来月には、いや、期末のあとは絶対辞めてやる――そうして歯を食いしばって続けてきた。いまは何にもとらわれず、音が出た、というだけで子どものように喜んでいる。


「音がいい」わたしは頬を緩ませてしまう。

「ぼろのエフェクターだけどね。音作りにはこだわってんだ、あたし。もうちょっとてきとうに弾いてごらん」

「てきとう、って? 楽譜もなにもないのに」


 かの女はファンタを飲みながら「いいんだよ、正しく弾けなくたって。それをいったらなにも楽しめなくなっちゃう。ね、見学さん」といい、

「まあ、あたしら軽音のやってることはオナニーみたいなもんだし。せいぜい学祭でコピる程度。オケと違って、勝つための音楽じゃないもん。エンジョイ勢だから。そんなやつらがこうして集団で気持ちよがってるんだよ。超楽しいよ」と続けた。


「要するに」

 空のペットボトルを捨てに廊下へ出てかの女はいう。

「辞めたいけど辞められないか、辞めたくないから辞められない、この二択なんだよ、音楽やってる奴らは」


 見透かされたのだろうか。

 体育館に練習に戻ると、顧問がタクトをケースから出すところだった。ひたすら詫びて席に着く。


 かの女の言葉はずっと胸に残り、わたしは今でも辞めどきを見きわめられず、私立高校で教鞭を執りつつ、ヴァイオリンを続けている。


 ――ああ、あとそれから、去年エレキギターも買ったんだっけ。

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