エクセラは安堵した表情で小さく頷き、カリンは満面の笑みで両手を上げてぴょんぴょんと飛び跳ねている。
ジアスに視線を向けると、鮮血に塗れて大地の上で仰向けになっている。手加減をしたつもりはなかったが、まだ息はあるようだった。
初めて人を斬ったのだ。そして初めて人を殺そうとしている。自分の内臓が見えない手で強く握りしめられているような感覚があった。自分の剣が人の肉を裂いた感触が、まだ指先に強く残っている。
ファジルはカリンに視線を向けた。
「カリン、治癒魔法を」
「ほえー? 助けるんですかー?」
カリンが上げた疑問の声に、ファジルは少しだけ頷いて地面に片足をつけた。そしてジアスの上半身を両手で抱きかかえてゆっくりと起こす。
「治癒魔法? 余計なお世話だな。だが、こんなにもあっさりと負けるとは……」
両腕の中にいるジアスの息は苦しげで、口の端からは鮮血も流れている。
「師匠、あまり喋らない方がいい。治癒魔法の効きめが悪くなるぞ」
ファジルが言うと、ジアスは何かを諦めたように両目を閉じた。そして、一言だけ呟くように言う。
「すまなかったな。お前は俺の弟子だというのに、剣を向けちまって。できれば最後まで弟子の前では、飲んだくれの気のいい師匠でいたかったんだが……」
その言葉にファジルは何も答えられなかった。
「ぼくは賛成できないんですよー。だってファジルを虐めたんですからねー」
そうは言いつつも、カリンは両膝を大地につけて両手をジアスに翳した。
やがてジアスは青白い光に包まれる。程なくして苦しげだったジアスの呼吸が落ち着いてきた。
「やれやれだな。優しいことだ」
背後から聞こえてきたガイの言葉をファジルは無視することにする。
「でも、それがファジルのいいところなんじゃない?」
そんなエクセラの言葉も聞こえてくる。
取り敢えずは落ち着いたかな。
ファジルがそう思った時だった。ファジルたちの左手の空間が揺らぎ始めた。続いて揺らいでいる空間の下に紫色の魔法陣が出現する。
「転移魔法のようですね」
エディの言葉だった。ガイが無言で大剣を構えて切先を揺らぐ空間に向けた。
揺らぐ空間から現れたのは勇者ロイドだった。ロイドだけではない。魔導士のマリナ、そして聖職者のグランダルの姿もあった。
ファジルに上半身を抱えられ、カリンから治癒魔法を受けているジアス。突如として転移魔法で現れたロイドは、そのジアスに視線を向けた。
「所詮はごみだったね。役に立つとは思っていなかったけど……」
「勇者ロイド。因子を持っていて、覚醒の兆しがある奴が相手だ。俺たちの部族では荷が重かったらしい。すまない」
ファジルの腕の中で、ジアスがロイドに向かって言う。
因子?
覚醒?
一体、何の話だ?
ファジルがそう口にしようとした瞬間だった。背後でガイが叫んだ。
「ファジル!」
一瞬だった。正直、何も見えなかったと言ってよかった。
ロイドが微かに肩をすくめた次の瞬間、ジアスの喉元に閃光が走り赤い霧が宙を舞った。
ジアスの喉からは鮮血が吹き出し、その両目には絶望の色が浮かぶ。それでもジアスはファジルに必死で何かを伝えようとしていた。だが言葉にはならず、口から鮮血が流れるだけだった。
「ほ、ほえーっ!」
カリンが慌てて噴き出る鮮血を止めようと、小さな両手を喉元に持っていく。しかし、もはや治癒魔法では癒せない傷であることが明らかだった。
「……どういうつもりだ?」
両腕の中でジアスの両目からは輝きが失われていく。それを止める術はなかった。ファジルは低く呟くと、上から見下ろすロイドに向けて顔を上げる。そんなファジルにロイドが口を開いた。
「まあ、敵わないのは仕方がないよね。でも、喋り過ぎだよ。余計な情報を与える必要なんてないのだから。やっぱりマウリカからの報告通りだったね。僕はこうならないことを願っていたんだよ。だって君をある意味で、僕は認めていたのだからね」
マウリカ。魔法学院で会った講師の名前だった。やはりあの爺さん、食わせ者だったらしい。
ロイドはいつもの笑顔を浮かべている。かつては爽やかに見えた笑顔が、今のそれは禍々しいものにしか感じられない。
必死な形相で魔法による治癒を試みていたカリンの行為も虚しく、ジアスの瞳からは完全に光が失われてしまう。
それを見届けた後、ファジルは抱いていたジアスの上半身を大地にゆっくりと寝かせた。ほんの一瞬前までは確かに息をしていて、弟子の自分に剣を振るったことに後悔の言葉を口にしていたというのに……。
何だろうか。この感情は?
怒りなのか。悔しいのか。それとも悲しみなのか?
強く握った拳が小刻みに震えている。耳元で鳴る心臓の鼓動がやけにうるさい。さっきまで必死に治癒魔法をジアスにかけつづけてくれていたカリンが、何かをファジルに向けて叫んでいる。でもそれらを言葉としてファジルは認識できなかった。
何かを叫びたかった。だが、何も声にならない。
「駄目! ファジル!」
その瞬間、エクセラの悲鳴のような叫び声が聞こえた。
立ち上がったファジルはその流れのまま、獅子王の剣を鞘から抜こうとする。同時に嫌な殺気を一瞬だけ感じた気がした。
続いて自分の視界が赤色に染まったことに気づく。獅子王の剣は、まだ鞘から抜けきっていない。
意識が途切れる間際、視界に広がった赤色が自らの鮮血であると、ファジルはかろうじて悟った。遠くでエクセラの絶叫が聞こえた気がした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!