翌早朝。
二十年のキャリアを誇るヒーローの朝は早い。
いつもならば朝起きてすぐに軽いトレーニングとランニングをするのが太陽の日課である。
長年最前線で身体を張り続けていると、どうしてもこういった肉体の調整が必要になってくるのだ。
「いつきを起こしちゃ悪いな。外で済ますか」
太陽は昇ったばかりの朝日を浴びながら走ることが好きだった。
毎日続けた結果、いつの間にか好きになったというのが正しいかもしれない。
ランニングシューズでアスファルトを踏みしめ、朝の風を感じる。
太陽は風と一体になったときに感じる“におい”が好きなのだ。
早朝には独特のにおいがある。
まだ夜霧に濡れた草のにおい。
民家から漂ってくる朝食のにおい。
今日もまた平和な一日が始まる、そんなにおいだ。
もう何千回と繰り返してきた、ひとりの朝であった。
…………。
公園で軽く“調整”を行い自宅に戻ると、なにやら焦げくさいにおいが鼻をついた。
目を凝らすまでもなく、玄関にまで煙がうっすらと充満している。
「なんだ? か、火事か!? いつき!」
太陽は靴も脱がずに新居へ駆け込むと、いつきに占領された寝室の扉を叩いた。
だが返事はない。
もし火災が起きているなら、時は一刻を争う。
悪いとは思いながらも、太陽は扉を開け放った。
「はれっ……?」
太陽の予想とは裏腹に、部屋の中にいつきの姿はなくなにかが燃えている様子もない。
すぐさま太陽が引き返すと、リビングのテーブルにひとりぶんの朝食が用意されているのが目に入った。
いや、それを朝食と呼んでいいものかどうかはわからない。
白いお皿の上には、炭化して真っ黒になった食パンが三段に重ねられていた。
上の段にいくほど少しずつパンとしてのアイデンティティーを取り戻しているあたり、一枚ずつ試行錯誤しながら焼いたのだろう。
煙と焦げ臭さの原因はこれであった。
もちろん太陽が用意したものではない。
妖精さんが焼いたのでなければ、いつきの仕業であることは間違いなかった。
「なんっ……だよ、驚かせやがって。……あ」
太陽は安堵のため息をつくなり、自分の足元を見る。
新居のフローリングはランニングシューズの足跡だらけになっていた。
太陽は靴を脱ぐと、キッチンの換気扇を回す。
流し台には食後のお皿が放置されていたが、いつきはあの炭を食べたのだろうか。
「あいつ、俺よりだらしねえな……おふくろ似だ」
だが肝心のいつきがいない。
炭化した朝食の隣に、書き置きだけが残されていた。
『夜には戻ります。朝ごはん食べてね』
どのみち北東京支部へ行けば顔を合わせることになるのだが。
そんなことを考えながら、太陽は炭にかじりついた。
………………。
…………。
……。
朝日に照らされたボロ倉庫は、とてもではないが人が利用しているようには見えなかった。
しかし驚くなかれこれは天下のヒーロー本部が保有する秘密基地、北東京支部である。
太陽とて最初はこの荒廃具合も、雑草が好き放題に生え散らかっている前庭も、世間の目を欺くカモフラージュだと思っていたものだ。
昨日一日でわかったことだが、これらは偽装でもなんでもなくただ単に長年使われていなかった結果である。
「うーん……今にも崩れそうだ……」
業務命令通り、赤いマスクを装着した太陽がおんぼろ秘密基地を見上げていた。
そのときである。
「「「「ンギャーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」」」」
基地とは名ばかりの倉庫から聞こえてきたのは、絹を裂くような男女の悲鳴であった。
同時にガラガラとなにかが壊れて崩れ落ちるような音が響く。
太陽の脳裏をよぎったのは“襲撃”の二文字であった。
ヒーロー本部は怪人の検挙を目的とした公安組織だ。
ごくまれにではあるが、怪人たちの襲撃を受けることもある。
いずれにせよ「ンギャア」などという悲鳴から察するに、ただごとではない。
そう確信した太陽は急いで秘密基地の扉を開いて中へと踏み込んだ。
「おいどうした! なにがあった!!」
太陽の目に飛び込んできたのは、大きな機械の下敷きにされた四人の“精鋭たち”の姿であった。
「うぅ……だから慎重に運ぶよう言ったじゃないですかぁ」
「ごめんなさいでありますぅ……」
「申し訳ありません、自分が不注意だったばかりに……」
「……………………」
幸いにも全員意識はあるようだ。
しかし上にのしかかっているスクラップがそうとう重いらしい。
どうやら自力では抜け出せないようで、瓦礫と化した機械の下から足や手だけが生えてジタバタしていた。
太陽の頭の中で、昨夜の栗山の言葉が再生される。
ひとりでも辞めるとマズい、長官のメンツが丸つぶれ、と。
赤いマスクの下で、太陽の顔からサーッと血の気が引いた。
「おい、お前ら大丈夫か! 今助けるぞ、むおおおおおッ!」
太陽が瓦礫を持ち上げると、その下から隊員たちがもぞもぞと這い出してくる。
一番はやく出てきたのは頭にバンダナを巻いた金髪の少女、スナオであった。
スナオは太陽の顔を見るやいなや、頭にクモの巣をつけたままビシッと敬礼をきめる。
「いやはや! 隊長殿ナイスタイミングであります! 小官、模様替えで殉職するところでありました! おかげで九死に一生を得たでありますよ! げっほげっほ!」
続いてピンクのポロシャツが筋肉でパツパツになっているツーブロックの男、モモテツ。
そして黒いパーカーの、いかにも力仕事に向いてなさそうな華奢な少女、いや少年だろうか、ユッキーがスナオの手でずるりと引きずり出された。
「ごほっ、ご迷惑をおかけしました……」
「……………………けほっ」
もともとホコリまみれの倉庫である。
みんな上から下まで真っ白で、なかなかに酷いありさまだ。
隊員たちが順番に助け出されていく中、取り残された最後のひとりが瓦礫の下でじたばたともがき続けていた。
ゴツいブーツがごつんごつんと何度も瓦礫を蹴っている。
「おい、大丈夫かいつき。骨とか折れてないか?」
「オリジンレッドさん!?」
いつきは太陽の存在に気づくなり、まるでヤドカリのように脚を瓦礫の奥へと引っ込めた。
「どうした? 出られないのか?」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! このっ! はずれろっ!」
「ひっかかってるんだな。よーし俺に任せろ、いま引っ張り出してやる」
既に結構な大惨事なのだが、もたもたしていると瓦礫が崩れて更なる惨事を招きかねない。
他の隊員たちに瓦礫を支えてもらうと、太陽はゴツいブーツを両手で掴んだ。
「いくぞ、せーのっ!」
「ちょ、待っ……!」
太陽は息を吸いこむと、気合いとともにいつきの身体を引っこ抜いた。
ビリリリリリリリィ!!!
布のようなものが裂ける音とともに瓦礫の下から出てきたのは、お尻であった。
白と水色の縞模様に彩られた布地から、健康的な脚が伸び、太陽が掴んでいるブーツへと繋がっている。
無理やり引きずり出したはずみで、中で引っ掛かっていたスカートが裂けたのだ。
太陽は赤いマスクの下で溺れるほどに冷や汗をかいた。
これはまごうことなき不可抗力だが、セクハラとして訴えられたら言い逃れのしようがないのではなかろうか。
いや、仮にも親族だから家庭内暴力ということになるのだろうか。
「あ、いや、えっとその……悪ぃ。無事でなによりだ。あはっ、あはは」
「……………………」
救い出されたいつきは一言も喋らず、太陽に背を向けたまま立ち上がる。
いつきの表情は窺い知れないが、青みがかったポニーテールがなんだか逆立っているようにも見えた。
ちらりと見える横顔は耳までまっかに染まり、細い肩は羞恥にぷるぷると震えている。
「その、なんだ、俺が悪かった! スカートは弁償するからさ。なんなら俺のズボンを……」
太陽がベルトに手をかけるそぶりをしたところ、ベルトのバックルがポロリと取れた。
長年使い古してきたベルトがついに寿命を迎えたのだ、この最悪のタイミングで。
思いのほか、ズボンはひっかかることなくストンと足首まで落ちた。
「ありゃーっ!?」
振り返ったいつきの潤んだ眼は、太陽の真っ赤なボクサーパンツに注がれていた。
眉がどんどん吊り上がり、いつきの顔が太陽の赤いマスクよりも赤く燃え上がる。
「……あ……あか……ッ」
「えーと……いつきさん? これでおあいこってことになりませんこと……?」
「――――――――――――ッ!!!」
声にならない叫び声とともに、ゴツいブーツの底が太陽の赤いパンツを蹴り抜いた。
「キョフッ……」
仲間の隊員たちが絶句する前で、頼れるリーダーは秘密兵器をおさえながら、まるで巨大なビルの解体工事のようにゆっくりと前に傾いていく。
太陽はそのまま受け身を取ることもなく、顔面からコンクリートの床に倒れ伏した。
「はっ! オリジンレッドさん! オリジンレッドさああああん!!!」
我に返って叫ぶいつきの声は、もはや太陽の耳には届いていなかった。
さらばオリジンレッド!
ありがとうオリジンレッド!
二十年もの間、市民の平和と安全に寄与した君の高潔な魂を、僕たちはけして忘れはしないだろう!
勇敢なる炎の戦士に敬礼!!
太陽が目を覚ましたのは、それから四時間後のことであった。
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