東の空から朝日が顔を出したころ、北東京支部ではようやく始末書デスマーチが終わりを迎えた。
総勢32名による一晩がかりの大作業も、これにて一件落着である。
偉業ともいうべき難局を乗り越えた彼らの想いはひとつであった。
公安には一刻も早いペーパーレス化が求められると。
「みなご苦労だった。私は書類の最終チェックがあるからもう少し残るが、君たちは任意に解散してもらって結構だ。急な頼みにもかかわらず集まってくれた諸君らの助力には心から感謝する」
「はーっ、やっと終わったよーーーッ!」
「オリジンレッド先輩、僕たち奢りつってもそんなに贅沢言わないんで。寿司とかも回らないやつでいいんで」
「それ高ェほうじゃねえか! ……回るやつでお願いします」
太陽によって集められた援軍の若手ヒーローたちは、ひとり、またひとりと北東京支部をあとにする。
残されたのは、どこか気まずそうなオリジンフォースの面々であった。
特に、あれほど気合いが入っていたいつきに至っては……。
「ぽへーーーーーー……」
「おい、いつき。お前大丈夫か? なんか抜け殻みたいになってるぞ」
「だいじょぶでーす……」
「よし、あとはやっとくからお前は帰って休め。お疲れさん、ありがとな」
「ふぁーい……」
まるで糸の切れかかったあやつり人形のように、あるいはさまよい歩く亡霊のように。
いつきはフラフラとした足取りで荷物をまとめると、薄いアルミ扉に頭をぶつけながら北東京支部を出ていった。
「うーむ、やっぱり徹夜のデスマーチは、いつきにはまだ早かったか……」
毎日というわけではないが、ヒーローとして怪人と戦闘を行った日は残業が常である。
国家公安委員会に属する公務員である以上、ヒーローが戦う相手はなにも怪人だけではない。
華々しい活躍の裏にそびえる山のような雑務もまた、打ち倒すべき敵なのだ。
なんてことを太陽はひとり腕を組んで考える。
いつきが不調の原因はもっと他のところにあるのだが、太陽は知る由もない。
「あ、あの……隊長殿ぉ……」
「おう、スナオ。それにモモテツとユッキーも。お前たちも今日はよくやってくれた。家に帰ってゆっくり休んでくれ。サンキューな。緊急出動には備えとけよ」
「りょりょっりょ、リョウカイでありますぅ」
どことなく歯切れの悪い三人を見送ると、太陽はガチガチに固まった腰をひねりながら気合いを入れ直す。
「さてと、もうひと働きすっか!」
長机や印刷機の片付けを終え、書類の最終確認作業を手伝い、梱包と本部への発送を済ませる。
ちなみに、みんなで書き上げた始末書の総重量は50キロを超えていた。
すべての残タスクが片付いたころには日もすっかり傾き、空はオレンジ色に染まっていた。
今日は緊急出動がなくて本当に良かったと思いつつ、太陽は本子と別れ、いまだ住み慣れないわが家へと向かう。
いつきが首を長くして叔父の帰りを待っているはずだ。
………………。
…………。
……。
「びええええええええええん!! おじざあああああああああん!!!」
玄関を開けると、太陽の姪・蒼馬いつきはそれはもう豪快にわんわん泣いていた。
幼さを残した母親似の綺麗な顔は、涙と鼻水の絨毯爆撃でぐっちゃぐちゃである。
「おじざああああああああああああーーーーーッ!!!」
太陽は泣き叫びながら胸元に飛び込んできたいつきの頭を、慰めるように軽くなでてやった。
心なしかチャームポイントのポニーテールも、塩に浸したホウレンソウみたいにしなびている。
「あー、いつき。まあその、なんだ。とりあえず落ち着こうか。おじさんの一張羅もう着れなくなっちゃうから」
「ごべんなざああああああああああーーーーーッ!!!」
太陽はいつきの頭をぽんぽん叩きながら、やはりデスマーチは相当こたえたのだろうと同情する。
憧れのヒーローが抱える現実というものを、その身をもって嫌というほど体験したのだから無理もない話だ。
もしいつきがすべてを打ち明けてくれたなら、ヒーローなんか辞めちまえと言ってやれるのだが。
良くも悪くも叔父と姪というものは、最も近い他人なのだと、太陽は痛感する。
…………。
事情は知らないが、こういうときは泣けるだけ泣いてしまうに限る。
いつきの涙がようやく涸れたあと、シャワーを浴びさせようにもガス開栓の立ち合いをすっかり忘れていたため、太陽はいつきを近くの銭湯まで連れていった。
ついでに太陽もひとっ風呂浴びさせてもらい、銭湯の店先で待ち合わせる。
先にあがった太陽が春の夜風に少し肌寒さを感じ始めたころ、ようやくいつきが出てきた。
「よう、落ち着いたか」
「……うん」
さすがに目の周りは少し腫れていたが、熱い湯に浸からせたのは正解だったらしい。
まだ十分とは言い難いだろうが、先ほどまでの取り乱しようが嘘のようにいつきは平静さを取り戻していた。
ちなみにいつきが今着ているのは、太陽が寝巻用にと先月買ってまだ2、3回しか袖を通していないシャツとスウェットである。
同じ服ばかり買ってしまうせいか、シャツの色はおろか柄まで太陽とおそろいであった。
夜の住宅街、同じ服を着て並んで歩く姿は、まるで親子のようだ。
「おじさん、優しいね」
不意に隣を歩くいつきが、つぶやくように言った。
「なんだよ、やっと気づいたのか? ……冗談だよ、おだてたってなにも出ねえぞ」
「ううん、ほんとに、優しいよ。なんにも聞かずに泊めてくれるし」
「家族だからな。こっちが断れねえこと知ってて押しかけたくせに、よく言うぜ」
「……怒ってる?」
いつきが、はたと足を止める。
それにつられて、太陽も立ち止まった。
太陽の背を見つめるいつきが、今どんな顔をしているのかはわからない。
しかし太陽は振り返らずに答える。
「そりゃま少しはな」
怒ってないと答えたほうが良かっただろう。
さっきまで大泣きしていた少女を相手に大人げないということは、太陽も自覚していた。
しかし嘘をつくのは。
きっと、いつきの言う“優しさ”ではない。
「心配ぐらいは、するさ。俺の兄貴の一人娘だぞ。危ない目や辛い目にあってたらと思うとそりゃあ……」
太陽が振り返るのと同時に。
いつきの大きな目から涙が一筋こぼれ落ちた。
「おじさん、私もう。どうしたらいいか、わかんないよ……」
街灯の下で、少女が肩を震わせながら、小さなてのひらで涙をぬぐう。
泣くだけ泣けば自分で答えを出すだろう、などと楽観的に捉えていた太陽は、面を食らう。
まさかあれだけ強引にヒーローというものにしがみついていたいつきが、ここまで思いつめていたとは。
それほどまでにこたえたのだろうか、徹夜の始末書デスマーチが。
「いつき、お前……」
「私、ただ憧れてただけだと思ってた……そこに居られるだけで満足してた……。でも……いざ本当のことを知っちゃったら、気持ちが抑えられなくなっちゃって……」
太陽はその段になって、ようやく気づいた。
親元から飛び出してまでヒーローになりたい、そんないつきの覚悟を、どこか他人事として考えていた自分に。
だから“叔父と姪”という、都合のいい距離を言い訳にしていつきになにも尋ねなかったのだ。
オリジンレッドとしていつきの背中を支える反面、叔父・火野太陽としては積極的に踏み込むことを避けていたのだ。
「……私、自分の“好き”を信じていいか、わかんないよ……」
二十年前、正義の味方に憧れてヒーローの道へ進むことを決めた自分の姿が、いつきと重なる。
それを一時的な、若さゆえの過ちだと軽く決めつけて。
等身大のいつきがどれほどの覚悟で、ヒーローと向き合っていたのか。
いつきの本気さも、覚悟の重さも。
味方の顔をしながら、なにひとつ受け止めてなどいなかったのだ。
それを自分の都合で辞めさせようだの、続けさせようだのと。
己の心臓を貫きかけたどうしようもない後悔を、太陽は強く掴んで握りしめた。
「いつき、いいか! よーーーく聞け!」
太陽はいつきの震える肩を両手でがっしりと掴んだ。
いつきは驚いたように顔をあげ、潤んだ目を丸くする。
「おじさん、事情は知らねえけどよ。ちょっとやそっとのことでブレてんじゃねえ! 大切なことなんだろ? “好き”なんだろ? お前、本気でそのために東京まで来たんだろ?」
力強く問いかける太陽に、いつきは黙って小さくうなづいた。
太陽はニッと白い歯を見せると、更に言葉を続ける。
「本当のことを知ったら幻滅したか? だったらお前は涙なんて流してねえはずだ。現実なんざどうでもいい、お前はお前が“好き”だと思ったものを信じろ」
「で、でも……」
「でもじゃねえ、諦めんな! お前が自分の“好き”を諦めねえ限り、道はその先に続いてるんだぜ?」
ひととおり全部吐き出し肩から手をはなすと、太陽はまだ少し濡れたいつきの頭に手を置いた。
「おじさんの言うことなんか信じなくてもいけどよ。いつき、お前自身のことぐらい、お前が信じてやらねえでどうすんだ。貫き通してみろよ、お前の気持ちを」
「………………………………」
太陽はいつきを正面から見つめて励ます。
近しい他人ではなく、叔父と姪として。
(いつき……正直お前、ヒーローに向いてるぜ。俺はもう、ヒーロー辞めろなんて言ったりしねえ。お前の背中は俺が死んでも守ってやるからな、いつき!)
(おじさん……私もう迷わない。オリジンレッドさんのことが好きだっていう、自分の気持ちに嘘つかないよ、おじさん!)
致命的なすれ違いに気づくことはなく。
正体を隠しあうふたりのヒーローは決意を新たにするのであった。
いつきは太陽に頭をなでられ、少し恥ずかしそうに眉毛をハの字にしながら笑っていた。
きっともう、迷ったり泣き叫んだりはしないだろうと、太陽は思う。
「ようし、家までおじさんと競走だ! いくぞー!」
「あははは、おじさん歳なんだから無理しちゃダメだよ」
「言ったなこいつめぇ!」
ふたりはそんな暑苦しいやりとりを交えながら、春の夜道を走って帰った。
そんなやりとりがあったせいか、マンションに辿り着いたころには夜の22時を回っていた。
「……おやすみおじさん。今日はその、ありがと」
「おう、気にすんな。おやすみいつき」
己の寝室が完全にいつきの寝室として既成事実化してしまっていることにはあえて触れず、太陽はトレーニング機材の詰まれた隣室でぼんやりと天井を見つめていた。
あれほどがむしゃらに夢を追いかけられる姪を。
ヒーローとしての輝きを失わないいつきを。
37歳の太陽は、少し眩しく感じるのであった。
そのきらめきが、自分自身に向けられているものとは知らずに。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!