はじめまして!玄野 黒桜と申します。
こちらの作品はROSSOというバンドの「ブランコ」という曲をモチーフに書いた作品です。
互いの名も知らない2人の男女、その悲しい恋の物語です。
「はぁはぁはぁはぁ」
この街一番の高級ホテル、その一室に一人の男が立っていた。呼吸は荒く、だらりと下げた右手には未だ乾いていない血が滴るナイフが握られている。
「どうして…どうして…」
女に男の左肩に顔を埋め、うわごとのようにそう呟く。
2人の足元、毛足の長い絨毯にはどす黒い染みができ、その上にもう一人男がうつ伏せに横たわっていた。その目はカッと見開かれ閉じられることはもうない…。
「どうして…」
また一つ、女の呟きが零れた。
――――――――――――――――――
その男は靴磨きだった。毎日街頭に立ち、客がいない時間は道行く人を眺めて過ごす、そんな日々が男の日常だった。
ある日、男がいつものように道行く人を眺めていると、突然影が落ちてきた。
「ん?」
男が顔を上げると自分を見下ろすように誰かが立っていた。逆行で顔は見えないが長い髪と服装からどうやら女のようだ。
「ええと、いらっしゃい?」
「ふふっ、どうして疑問系なのよっ」
「えっ!?いや、その…」
男の言葉に女は楽しそうに笑う。そんな女の反応に恥ずかしくなって男は顔を俯かせる。
「ふふふっ、ああ笑った!靴磨きお願いできる?」
「は、はい!じゃ、じゃあそこの椅子に座って足はここに」
恥ずかしさに顔を上げられないまま、男は側の木の台を指差す。
「ここね?」
「っ!?」
そう言うと女は椅子に腰掛けて足を台に乗せた。長いスカートの裾から白い足首がちらりと見えて、男は更に顔を俯かせた。
「………」
「………」
2人の間に会話はない。女の靴を磨きながら男は少しだけ視線を女に向けた。
「っ!!」
美しい女だった。男が今まで見てきたどんな女よりも美しい女だった。女は退屈そうに雑踏を眺めていた。その横顔に暫し男は見蕩れる。
「???どうかしたの?」
「い、いえっ!!」
ふいに女と目が合って男は慌てて視線を手元へ戻す。心臓が早鐘を鳴らし、顔が熱くなる。
自分の返事が変に思われていないかとこっそり女を窺ってみるが、彼女は少し首を傾げたあと、視線を雑踏へと戻した。その様子に男は心の中で安堵のため息を漏らした。
「あ、あの、終わり、ました」
靴が磨き終わったことを少し残念に思いながら、男は女に声を掛けた。
「もう終わり?…あなた腕がいいのね」
女は自分の足元を見てそう言うと立ち上がった。
「あ、ありがとうございます」
男はそれを見ながら慌てて返事をする。
「いくら?」
女に金額を伝えると彼女は手に持ったバックから小銭を取り出し手渡してきた。
「あ、ありがとうございます」
そう言いながら、男はなるべく女の手に触れないようお代を受け取ろうとき、
「あら?あなた…」
そう言って女が何故か自分の顔をまじまじと見つめている。長いまつげが揺れる。
「な、なんで、しょう?」
再び男の心臓は早鐘を打ち、頬が紅潮するのが分かる。唇が乾いて張り付くのを感じながら男はなんとかそう返事をした。
「意外と可愛い顔をしてるのね」
「へっ?」
女が何を言ったのか理解できなくて男は一瞬、頭が真っ白になる。女はそんな男の様子をくすくす笑うと「それじゃあね」と言って雑踏へ消えていった。
右手に硬貨を乗せたまま、男は暫くその場に立ち尽くした。
その日も男はいつものように道行く人を眺めていた。
「こんにちは」
「いらっ、しゃ、い…」
掛けられた声に男は返事を返すがその言葉は途中で途切れる。そこには先日とは違う服に身を包んだあの女が立っていた。
「今日もお願いできる?」
男の反応を気にした様子もなく女はさっさと男の向かいに腰を下ろす。
「はっ、はいっ!」
男は慌てて返事をすると急いで仕事の準備に取り掛かった。
それから女は毎週決まった曜日の決まった時間に靴を磨きに来るようになった。男が靴を磨いている間、女はいつも雑踏を眺めていた。男はそんな女を窺うようにして眺める。会話はとくにない。女は靴磨きが終わると代金を払い、雑踏へと消えていく。
そんなことが何度かあったある日、女はお代を払う手を止めて、はじめて会った日のように男の顔を見つめる。長いまつげが揺れた。また男の心臓が早鐘を打つ。
「あなた恋人はいるの?」
「えっ?
………
………
………
あっ!い、いえ、いませんっ!」
どれくらい時間がたっただろうか?恐らくほんの数秒ことだと思うが、男にはとても、とても長く感じた。そうしてようやく口を開いた女の言葉を理解するのに更に少しの時間を要した。理解した瞬間、即座に否定する。
「ふーん、そっか。いないのか」
女はそう呟くと暫く何事か考え込んだ後に言った。
「じゃあ私の恋人にならない?期間限定の恋人」
「えっ!?恋人っ!?って期間限定?」
女の言葉に一度は舞い上がった男だったが、続く女の言葉に首を傾げる。
「そう、毎週私がここに来たときだけの恋人。ダメ、かな?」
女はそう言って少し不安げな顔をした。
「ええと、よくは分かりませんが自分で良ければ喜んで恋人になります!」
女の意図は分からない。だが、女のそんな顔を見たくなくて男は了承の返事をした。
「本当に!ありがとう!!」
男の返答に女が満面の笑みを浮かべる。それが男が初めて見た女の笑顔だった。
こうしてその日から女が靴を磨きに来るときだけ、男は靴磨きではなく恋人になった。。男は女の仕事も住んでいる場所も、名前すら知らなかったがそれでも良かった。靴を磨き終わるまでのわずかな時間、2人は逢瀬を重ねた。
ある日、靴を磨き終わっても女はなかなか帰らなかった。ただじっと男の横に腰を下ろし雑踏を見つめている。今までそんなことがなかったので男は首を傾げる。
「ねぇ、もし、このまま私を連れて逃げてって言ったら逃げてくれる?」
「えっ?」
それまで無言だった女が突然呟いた言葉に男は驚く。女はそんな男の顔を見て笑うと「冗談よ」と言って立ち上がると「またね」と言って去っていった。男はただその後姿を見送ることしか出来なかった。
次の週、女は来なかった。
待ち続ける男の脳裏に、先週の別れ際の女の姿が浮かぶ。
「っ!!」
男はいても立ってもいられずに商売道具もそのままに街へと駆け出した。女を探して街中を駆け回る。
男が女の居場所を突き止めた頃には辺りは暗くなっていた。女は借金のカタにこの街の裏社会のボスに売られ、今は街一番のホテルにいるという。
薄汚れたバーの片隅で男はグラスに入った琥珀色の液体を一気に煽った。強い酒精が喉を焼き、体が熱くなる。
店を出た男はポケットから何かを取り出した。その手には鈍く光るナイフが握られていた。
――――――――――――――――――
2人は小さなの部屋にいた。
高級ホテルを抜け出した2人は追っ手に怯えながら裏路地を駆け、男の部屋へ逃げ込んだ。
仕事道具とベッド、それだけの小さな部屋で2人は薄汚れたブランケットに包まり身を寄せ合っていた。
「これから…どうするの…?」
女が小さく呟く。その顔はとても疲れて見えたがそれでも女は美しかった。
「牧場…」
「えっ?」
「お客にさ、聞いたんだ。ずっと北には草原が広がっててそこには牧場があるんだって」
「うん」
男がどこか熱に浮かされたように言う言葉を、女は頷きながら聞く。
「明日の朝の列車でこの街を出よう!そうして2人で北に行って…一緒に暮らさないか?」
「そうねぇ…そう、しましょうか」
男が見ているその牧場に女は身を委ねた。
翌朝、夜が空ける前に2人は部屋を出た。人通りのない道を選んで駅へと急ぐ。角に差し掛かる度に身を潜める様にて駅へと向かった。
「ふぅー。あと少しだ」
「もうすぐこの街ともさよならなのね…」
ようやく見えた駅舎に男が安堵のため息を吐く。男の弾んだ声に対して女は少し寂しそうに街を振り返った。
「ふふふ」
「どうしたの?急に笑い出して?」
突然何かを思い出して笑い出す女に男は首を傾げた。
「私たち、お互いの名前も知らないのにこれから一緒に逃げるんだと思ったらなんだか可笑しくなってきて」
彼女はそう言うとなおもクスクスと笑い続ける。
「じゃあせっかくだしここで自己紹介しようか!君の名前、教えてくれる?」
「いいわ。私の名前は―」
男に促され彼女が名乗ろうとした、その時!
「見つけたぞっ!」「こっちだっ!」「取り押さえろっ!」
「なっ!?このっ!離せぇぇぇっ!!」
「ちょっとっ!ヤメテッ!ヤメテよぉぉっ!!」
2人の周囲から怒号が聞こえたかと思うと、警官たちが2人を取り押さえる。
「君ぃーっ!きぃみーっ!!」
「あなたっ!あなたーっ!!」
2人は必死に手を伸ばすが、その手が結ばれることはなかった。
名前も知らない恋人たちがやむを得ず罪を犯して逃亡しようとするも果たせない、というお話です。
最後、お互いに名前も知らないまま引き裂かれてしまうという悲恋を描きました。
短編と言うことで敢えて心情描写は少なく、それぞれの表情や反応からいろいろと想像して頂ければ嬉しいです。
よろしければコメントやレビュー、評価やブックマークなどお待ちしております。
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