遠ざかるヒールの足音を背後に聞きながら、矢澤は額の汗を拭った。
「ただいま戻りました」
「ご苦労」
室内の書類の山奥から六反田の声が聞こえる。昨日よりも一層散らかっているのは、山口と交わした激論のせいだろう。
「君はいつも一足遅いな。もう少し早くくれば、面白いものが見られたぞ」
「何があったのです? あの女史がここまで足を運ぶなんて。まだ演算機の件を根に持っているのですか? ものすごい剣幕でしたよ」
「ずいぶんと殺伐とした評価だな。君は誤解しているぞ。我々は極めて有意義な取引を行ったのだからな」
六反田はわざとらしく鷹揚に肯いて見せた。恐らくあの女史にとって碌でもない取引だったのだろうと確信する。
「取引? なんです?」
「まあ、そいつについては後回しだ」
六反田は煙草に火をつけた。「まあ、座れ」と矢澤に椅子を勧める。パイプ椅子を占拠している書類の束をデスクに積み、矢澤は腰を落ち着けた。
「<宵月>は想定以上に活躍したそうじゃないか」
「想定外にもほどがあるってもんですよ」
改めて見ると、六反田は左目付近に青あざをつくっていた。恐らく山口によるものだろう。
「閣下も奇襲を受けられたようで」
「莫迦を言え。オレの場合は想定内だよ」
六反田は、椅子の上でふんぞり返り、ふてぶてしい嗤いを木霊させた。二重あごが揺れる。
「あれが無事に稼働してくれたのは喜ぶべきことだ。それもこれ以上にないほど劇的な初陣だ。便所で俺たちの論評を垂れた莫迦どもも、少しはおとなしくなるだろうさ」
「まあ、ただ飯食らいの汚名は返上できそうですが……」
矢澤は複雑な心境で同意した。確かに<宵月>の上げた戦果は、軍内での月読機関の地位を押し上げるだろう。だが、それは横須賀の犠牲の上に成り立っている。
矢澤の心境を察したのか、六反田は表情を切り替え、笑みを消した。
「矢澤君、我々には時間が無い。君はわかっているだろう? この戦争に銃後なんてないんだ。BMはどこにでも現われる。そして現出すればそこは地獄と化す。5年前の東京湾決戦を忘れたか?」
「忘れるはずがないでしょう。なんのために我々が必死になって、あの装置を開発したと思っているのです」
矢澤は語気を荒げた。彼の身内も少なからず魔獣の犠牲に遭っている。姪っ子は片腕を持って行かれた。
「そうだ。オレ達が相手にしているのは魔の軍勢だ。そして残念ながら、我々の世界に英雄はいない。黙示録のごとく神の使徒が降臨してくるわけでもない。ヤツラの始末はオレ達がつけるしかないんだ。向こうが魔導で、この世界の法則を変えてくるなら受けて立つしかなかろう。そのための月読機関であり……そして魔導機艦<宵月>だ」
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