【東京 世田谷 駒沢練兵場】
昭和二十年十月十日
駒沢練兵場は数ある教練施設の中でも、古参の部類に入っている。事の起こりは幕末まで遡ることが出来た。東京が江戸と呼称されていた時期である。
百年ほど前に浦賀に訪れた合衆国艦隊、俗に言う『黒船』は、徳川幕府にとって終末を告げる使徒に等しかった。マシュー・ペリー代将の指揮するUSSサスケハナの全長は七十八メートル、排水量は二千トンを超え、蒸気機関と外輪式推進器で自走できた。船体に最新鋭のバロット式前装滑空砲を搭載し、兵士はマスケット銃を手にしていた。
幕府内外で先見性のあるものは、その威容に気圧されるだけではなく、あることを悟った。海の向こうでは刀の時代はとうの昔に過ぎ去り、儀礼具としての地位に収まったのだ。
徳川幕府は追い立てられるように近代化の道をひた走ることになった。彼等は西洋式の軍制と装備の導入を決定し、速やかに充実させていった。駒沢練兵場は急速に行われた幕府軍の近代化計画に端緒を発した。
駒場野に白羽の矢を立てたのは、フランス人のシャノワンだった。彼は軍事教官として母国から招かれており、軍事修練場の拡大を提言していた。そんな中で駒場野に目を付けたのは、卓見だった。そこは八代将軍吉宗の時代より武術訓練の場として使われていたのだ。さっそく幕府は現地に役人を派遣し、見地を行ったが、これが思わぬ仇となった。
駒場野周辺の百姓が一斉に蜂起したのである。百姓達は事情を満足に知らせずに、田畑を取り上げようとする役人に不満を爆発させた。彼等にとって、代々開墾してきた土地は生活の糧で在り、訳のわからぬ異国人の言うままとなった幕府は裏切り者に等しかった。
後に駒場野一揆と呼ばれる騒動は、駒場野から目黒へかけて瞬く間に広がり、幕府は対応に追われることになった。結局のところ、幕府は駒場野の拡張を放棄せざるをえなくなった。菊の御紋を掲げる勢力が倒幕のため京都で勃興しつつあった。とてもではないが、百姓ごときにかかずらわっていられなかったのだ。
駒場野の一揆から二ヶ月後、徳川慶喜は大政奉還を宣言し、明治の世が開けた。それから十年もたたずして、駒場野は再び注目されることとなった。
明治政府は富国強兵政策の一環として、明治六年に徴兵令を敷いた。近代軍創設への一歩を踏み出したわけだが、旧幕府と同様の問題にぶち当たった。端的に言えば、場所不足である。数万にも及ぶ兵士を収容する施設など、どこにもなかった。特に人口密集地で、最も徴兵数の多い関東一円において深刻だった。
明治政府が旧幕府と同様の結論に至ったのは必然だった。駒場野の平坦な土地は兵営の建設と練兵場の整備に向いていた。ただし、明治政府は同じ轍を踏まなかった。立ち退き対象の住民には土地代金を用意した。それだけではなく、地元では招致運動すら起きた。世田谷一帯の住民は軍事施設が地元経済を潤すことを理解していた。彼等とて百姓ばかりでは無くなっていたのである。日本は資本主義国家として順調に変態をとげつつあった。
昭和二十年、駒場野には一大軍事施設『駒沢練兵場』が完成されていた。
◇
「ここも、さびしくなったものだよ」
初老の軍人が練兵場の一角を指した。カーキー色の制服に身を包んだ陸軍軍人だ。肩章は黄色の下地に銀の星が三つ付いている。
「ほら、あそこは厩舎だったんだ。輜重用の軍馬が轡を並べていたんだが、今じゃあ一頭もいなくなってしまったよ。五年前、東京BMが現れたとき、魔獣に食われちまったらしい。かわいそうに……」
教育総監の土肥原賢二大将は肩を落とした。生まれついた垂れ目には憐れみの色がうかんでいる。
並び歩いていた軍人は第三種軍装だった。普段は開けっ放しにしている上着の三つボタンが、はち切れそうになっている。
「仕方ありませんよ」
六反田が心底同情するように言った。
「あのときは誰も彼もが精一杯でした。海軍だって例外じゃない。手探りでやるべきことをやるしかなかったんです」
「たしかに、君の言う通りだ……。そのときの最善を尽くすほか、我々に出来ることはない」
「ええ、全面的に同意ですよ」
「今回の場合、取引相手として私が最善だったわけかね? 言っては何だが妙手だよ。私はこの一件に関しては完全に利害の外にいるからね。ゆえに、誰も口を出せない。それが狙いだろう?」
土肥原は打って変わって、好々爺のごとき笑みを浮かべた。
「悪い話じゃないかと思いますがね?」
六反田は茶化した声で応じた。まったく食えない爺さんだと思う。さすがは「満州のローレンス」と呼ばれただけのことはある。
そのむかし土肥原は満州の地で国民党や地方軍閥相手に謀略戦を展開、関東軍の勢力を拡大させた。もしBMの出現が無ければ、土肥原は満州国建国の功労者として名を残したかもしれなかった。彼にとっては不幸なことに、関東軍も満州国も今や公文書の中にしか存在しなかった。いずれも魔獣の群れに押しつぶされ、中国東北部は地方軍閥と魔獣が凄惨な死闘を繰り広げている。そして満州国消滅により、土肥原をはじめとした陸軍首脳部は政治的発言力を失った。
六反田にとっては好都合だった。政治的に実権がなく、それでいて他省庁から干渉されにくい存在だ。往時の影響力がなくなったとはいえ、陸軍大将においそれと楯突ける存在は多くはない。
「新兵にとって、得がたい機会ですよ。北米へ行く前に生きた魔獣相手に模擬戦なんて、望むべくもないでしょう。なによりも――」
突如、黒い影が二人の上空を飛び抜けていった。旧式の複葉機ほどの大きさだが、ずいぶんと鋭角的なシルエットだった。それはまるで西洋の長剣を思わせるフォルムだ。黒い影はまっすぐに練兵場のフィールドめがけて吶喊していく。行く手には新兵達が退避行動をとっていた。もっともらしい言い方だが、要するに逃げるか隠れるかしていた。
「最強の魔獣ほど、恐怖を叩き込むのにうってつけの教材はない。魔獣の恐ろしさなんて、実際に対峙しないとわからんもんです。多くは、その脅威を理解する前に亡くなっていく。まあ、誤解されやすい敵ですから。相手を嘗めて、油断したところでパクリとやられちまう」
「はじめはね、なんとかなりそうなもんだと思っちゃうんだよ」
後頭部をかきながら、土肥原はうなずいた。
「グールやら小型のワームあたりを相手にしているときは、こちらの攻撃がびっくりするほど当たる。連中、戦術行動をほとんどとらないからね。だから、何というかな。錯覚するんだ。こちらが有利だってね。だけど、しばらくしたらすぐに気づく」
「切れ目のないグールの大群、半身を砕かれても突進してくるトロール、そして一瞬にして人を燃えかすにするヒュドラの炎……」
黒い影は新兵の群れ、そのど真ん中に着地する。薄く舞い上がった土埃の中から、白く長い首が突き出され、頭部から間髪入れず火炎を放たれた。
悲鳴と怒号があちこちから巻き上がる。数名の兵士が腰を抜かし、そのうち幾人からアンモニア臭が漂っていた。
「隙間無く、押し寄せる暴力。それが魔獣との戦いですよ」
六反田は満足げに、その光景を眺めていた。
土肥原も変わらぬ表情で佇んでいる。陸軍教育総監として、彼は新兵の生存率を上げる使命を負っている。その意味では、今回の申し出は願っても無いことだった。シロというドラゴンは正しく魔獣の脅威を植え付けてくれている。この先、いかなる魔獣と遭遇しても、教え子たちは見くびること無く対処してくれるだろう。
おおむね満足を覚えた土肥原だったが、ひとつだけ気になることがあった。
あのドラゴン、聞いていた話よりもだいぶ大きくはないか?
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