<アリゾナ>の初弾は大きく逸れて着弾した。六本の水柱が右舷遙か彼方で立ち上がる。前甲板の第一と第二砲塔より放たれた35センチの砲弾による水芸だ。あんなものを<宵月>で受けたら、一溜まりもないだろう。
儀堂は機関出力を最大のまま、艦をジグザグに突っ走らせた。敵艦は左後方10万メートルより追尾してきている。防空指揮所より敵艦の飛行高度は約1500メートルで、速度は30ノットほどと報告された。合衆国海軍時代の<アリゾナ>の最大速度は20ノットだったはずだ。やはり元はどうあれ、あれは全く別物と考えるべきだろう。
幸い<宵月>の最大速力は33ノットだから逃げ切れないことはないが、儀堂にその意思は皆無だった。彼は反撃を命じた。
「後部第三、第四砲塔、対空射撃始め」
まもなく<宵月>後甲板より、連続的な発射音が聞こえてくる。<宵月>に搭載されている長10センチ高角砲が砲弾が吐き出しているのだ。戦艦相手には気休め程度にしかならないが、こちらに交戦の意思があると示さなければ再び横須賀へ進路を向ける可能性があった。
儀堂は次々と入ってくる報告を思考へ落とし込んでいきながら、いずこにいるとも知れぬ鬼に話しかけた。
「ネシス、君の妖……魔導であれを海上まで落とせないか?」
せめて海上に降りてくれれば、<宵月>の魚雷か噴進砲で屠ることも可能だろう。なまじ莫迦みたいに空へ浮かんでいるから面倒が生じるのだ。全く、なにゆえあれを空へ浮かばせたのか。船は海上を航行してこそ船なのだ。
『むむ、やってみよう』
ネシスは再び六芒星の陣を<宵月>の艦尾に展開させた。それは先ほど横須賀上空の雲を払ったものと文様が異なっている。陣の中央から赤い光が放たれ、まっすぐアリゾナへ伸びていくが途中で弾かれてしまった。
『だめじゃな。結界を張っておる。すまぬ。今の妾ではあれを引きずり降ろすのは出来そうに無い』
「……そうか」
『お主らこそ、妾を墜としたときのようにできぬのか? ほれ、あのときのように羽虫から火の弾を落として、鉄の楔を打ち込めば――』
「可能だろうが、ひとつ問題がある」
敵艦より発砲、上空より飛来した砲弾は再び逸れた。しかし、今度は初弾よりも近くに落ちている。どうやら修正射が可能らしい。
警報がかかって関東一帯の航空基地から増援が来るまで、最速で1時間はかかるだろう。その間、あの砲撃の雨をかいくぐる必要があった。横須賀の航空基地ならば、もっと早いかもしれない。しかし儀堂の記憶が正しければ、横須賀の航空戦力は哨戒機が主力で、対艦能力は低かったはずだ。
あるいはハワイ沖のようにこちらも戦艦を持ち出せば、例え被弾してもすぐには沈まないだろう。だが、いま儀堂が乗っているのは駆逐艦だ。35センチ砲弾の前には駆逐艦の装甲など、ボール紙にも等しい。
――仕方が無い。味方航空隊の来援まで、避け続けるしかないな。
幸い、35センチ砲弾の装填には時間がかかる。その間、不規則に変針し、避け続ければ勝機ができるかもしれない。
「味方が来るまで、オレ達は逃げ続けるしか無い」
『つまらぬのう。逃げるのは好みでは無い』
「同意だが、好き嫌いで戦争ができるほど、この世は楽じゃないんだ」
『道理じゃな』
ネシスは儀堂の口癖で愉しげに応じた。
<宵月>は蛇行しながら、<アリゾナ>を横須賀から引き剥がした。逃走劇は30分ほど繰り広げられた。その間、<宵月>と<アリゾナ>の距離は少しずつだが縮まっていた。速力では<宵月>の方が優勢のはずだが、<アリゾナ>の砲弾を避けるため、変針を頻繁に行う度に距離を詰められてしまっていた。
<アリゾナ>から15斉射目が放たれる。儀堂は再び変針を命じた。
「面舵30度!」
「おもかぁあじ!」
操舵手が舵輪を回す。5秒後に左舷前方距離300メートルで水柱が立った。危なかった。そのまま直進していたら、直撃したかもしれない。
――やりすごせるかもしれない。
儀堂の中に確信に近い、展望が見えていた。通信室から、あと15分ほどで増援の航空隊が到着すると報告があった。館山から発進した部隊だ。このまま回避を継続すればあるいは……。
残念ながら儀堂の希望は叶わなかった。見張り員が悲鳴のような報告を発した。
「敵艦発砲!」
「莫迦な……! 早すぎる! 次発装填まで1分以上はかかるだろう?」
興津が儀堂の認識を修正する。
「副砲です! ヤツが副砲を使い始めたんです!!」
<アリゾナ>の両舷から小さな発砲炎が見えた。間をおかずして小口径弾の雨が<宵月>に降り注いできた。続いて断続的な震動が<宵月>を駆け巡る。
処女航海にして、ついに<宵月>は被弾を迎えた。
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