【シカゴ近郊】
鋼鉄の野獣が一斉に咆哮を上げ、一酸化炭素を多分に含んだ排気をまき散らした。運動場で群れを成した五式戦車チリと共に一式半装軌装甲兵車ホハ、そして複数の自動貨車が続いて出て行く。自動貨車の一両、その荷台には複数のアメリカ人が乗車している。彼等は一様に疲労と安堵の入り交じった表情を浮かべていた。B-29の搭乗員達だ。さきほどまで、生死の境を綱渡りしていたのだから無理からぬことだった。
本郷は重戦車マウスの車体前部に腰掛けていた。次々と発進していく部隊を見送りながら、いかにも満足げだった。いつも通りの穏やかな和尚のような面持ちだったが、瞳には決意が宿っていた。
マウスの元へ一人の戦車兵が駆けてくる。遠目でも誰かわかった。
本郷は相手の姿を認めると、車体前面から滑るように降りた。やがて目の前に来た士官に対し、海軍式の敬礼を行った。
「ご苦労、中村中尉」
中村にとっては予想外の挙動だったらしい。面喰らった顔を浮かべると、慌てて答礼した。
本郷は苦笑を浮かべつつ、「すまんね」と言った。中村は明らかに困惑していた。謝られる道理などないはずだった。
「何を仰っているのですか」
「君には面倒を押しつけてしまった」
「そんなことはありません。むしろ、面倒を背負ったのは隊長の方でしょう」
いつもなら茶化すところだが、今回ばかりはできなかった。彼はマウスの背後にあるものへ視線を移した。一両の自動貨車があった。ワイヤーでマウスと接続され、その荷台には巨大な楕円状の球体がくくりつけられていた。
「なぜですか?」
思わず、中村は問いたださざるをえなかった。彼は今まで上官の決意に異を唱えることはなかった。しかし、今回ばかりは納得できなかったのである。彼は本郷の返事を待たず、続けた。
「反応爆弾で特攻など、隊長の信義に反するではありませんか!」
中村は怒りに震えていた。彼の上官はマウスとともに反応爆弾を牽引し、あの月獣へ突撃を敢行しようとしていた。日頃より、生きろと命令していた男が進んで死地に向おうとしているのだから、許せるはずがなかった。
本郷は思わぬ反抗に目を丸くした。学生から反論を受けた講師のような心境だった。彼は破顔すると首を振った。部下の認識を改める必要があった。
「中村君、違うよ。僕はまだ靖国へ行くつもりはない。ちゃんとユナモと生きて還るよ」
「どうやって……? 隊長も、あの爆弾の威力は身をもって知っているはずではありませんか」
「ああ、わかっている。だけど、月獣を放っておく訳にはいかないんだ。ここであれを食い止めなければ、人類はもっと酷いことになる。それに……」
本郷は言いよどんだ。彼は月獣の正体をユナモから聞かされていた。マウスの操縦席に居座った小さな鬼は、哭きながら同胞の解放を懇願した。それを無視することは到底出来なかった。
「とにかく、僕の意思は変わらない。無論、信義も曲げるつもりはない。なあ、中村君、僕が本当に腹を決めたら、ユナモと一緒には行かないよ」
「それは……」
確かに、本郷が子どもを道連れにするなど考えられなかった。
「まあ、そこは僕を信じてくれ。それに実のところ、君の方が大変なんだ。何しろ、あの<宵月>を救援しなければならない」
かろうじて無線が<宵月>と繋がったが、艦長の儀堂は人事不省に陥り、混乱していた。中村は月獣を避けるように迂回し、ミシガン湖岸にいるはずの<宵月>に接触、必要あらば救援しなければならなかった。
「いいかい。<宵月>が自力で帰還できないようならば、可能な限り人員を保護してくれ。北へ向うんだ。そこには遣米軍がいるはずだ」
「わかりました。お任せください。身命にかけてやってみせますよ」
中村は軽く自身の胸を叩いた。確かに困難な任務だった。事と次第によっては、彼は二百名近い人員を保護しつつ、敵中を横断しなければならない。もちろん、彼等を収容する車両はないため、徒歩での進軍を護衛することになる。
「君に幸運を」
本郷は再び敬礼した。中村は片手を額にかざして答えた。
「ええ、大丈夫です。自分で言うのも何ですが、運には恵まれているんで……むしろ隊長に幸運を。あなたにこそ、必要なものでしょう」
「ああ、そうだね」
本郷は手を下げると、中村は一礼して自車へ戻っていった。やがて彼の率いる最後の小隊が出て行き、運動場に残されたのは二両のみとなった。
車体前部に登り、本郷は天蓋を開けた。
「ユナモ、行こうか」
丸い光に照らされて、操縦席に小さく収まった鬼子がつぶらな瞳を向けてきた。
「ホンゴーも来るの?」
「もちろんだ」
「なんで? わたし一人で、あの黒いたまは運べる。ホンゴーが来る必要は無い」
ユナモは本心から言っていた。彼女からすれば、この背の高い浅黒い人間が一緒に来るのが不思議でならないようだった。
本来ならば反応爆弾など放っておいて、本郷は中隊ごと撤退するつもりだった。しかし、ユナモが頑として言うことを聞かなかった。ネシス同様、彼女は月獣の正体がかつての同胞であることを知っていたのだ。その中には、かつて故郷で彼女を世話してくれたものも含まれているかもしれなかった。自分にとって母や姉に等しいものたちを変わり果てた姿で放置するなど、到底出来なかった。
彼女は本郷を置いて、月獣に立ち向かうつもりでいた。それは本郷史明という人間にとって看過できぬ行為だった。
本郷はそっと頭をなでた。
「ユナモは優しい子だ。ありがとう。でも僕は行くよ。僕は大人だからね」
例え数百年生きた鬼であろうと、子どもに変わりは無かった。彼が内地に残している妻や子も、異論は挟まないだろう。
子どもを残して戦場を去る大人が居てはならないのだ。そのような救いのない世界にしてはならない。
「ホンゴー?」
ユナモは小首をかしげた。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
ホンゴーはそっと天蓋を閉じると、砲塔によじ登り展望塔から乗車した。
「君らには貧乏くじを引かせてしまった。すまない」
砲手と装填手二名に対して、本郷が深々と頭を下げると、三名は慌てて首を振った。
「そんなこと言わんでください」
「自分らが無理を言ったんですから」
「最後までお付き合いしますよ」
彼等は本郷の降車命令に抗議し、共に行くことを望んでいた。本郷は一人一人の顔を見た後で、ただ一言「誠に有り難う」と言った。
展望塔から身を乗り出し、遙か彼方で蠢く月獣の影を捉えると、無線機へ成すべきことを伝えた。
「戦車、前へ」
『了解』
跳ねるように鋼鉄の鼠が動き出した。
【シカゴ上空】
ERB-29“アポロ”の危機は去ったかに見えた。被弾した右翼の3番エンジンから火を噴いたが、自動消火装置によって火災は食い止められている。その代わり、3番エンジンは完全に停止したため、機関出力は四分の三に減じている。それでも自力帰還は可能な状態だった。
―オレは一生分の幸福を使い切ったのではないか。あるいは悪魔にでも魅入られでもしたのか。
癖の強くなった操縦桿を握りしめながら、スティーブン・アームストロング大尉は思った。片翼に負荷がかかっているとはいえ、彼の愛機はエンジン以外に損傷を受けずに済んでいた。機体にエンジンよりもよほど脆弱な電子機器を満載しておきながら、それらは無事で済んでいる。
つまり、その気になれば任務は続行可能だった。
アルカトラズやデンバーから新たな命令は下っていない。全ての判断は指揮官であるアームストロングに委ねられていた。
眼下で着実に進攻しつつある事態を観測し続けるか、あるいは基地へ帰還するか。
少しばかり思考を巡らせて、彼は後者を選択することにした。これ以上、彼に出来ることはないように思えた。もちろん、その前に司令部へ機体の状況と自らの意思を打電するつもりだった。恐らく彼の判断を非難する者はいないだろう。
彼が無線機に手をかけたとき、酷くなまりの入った音声がレシーバーから響いてきた。
『こちら海軍陸戦隊所属、ホンゴー中佐。上空の合衆国軍機へ、この無線が届いたら応答求む』
思わぬ呼びかけに、アームストロングは幻聴を疑い、副操縦士のマーカスを見た。彼は目を剥いた顔で、アームストロングを見ている。どうやら幻ではないらしい。
ホンゴーという士官はさらに続けた。
『こちらは貴軍の反応爆弾を所持している。これより月獣に吶喊するので、支援を求む』
アームストロングは、やはり幻聴ではないかと思った。さもなくばホンゴーという士官は正気を失っているに違いない。
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