未知の分野の開拓には、相応の対価が要される。個人であれ、国家であれ、恐怖と期待に翻弄されながら、彼ら彼女らは前人未踏の地を切り拓いていく。
まことに理不尽なことだが、初めの一歩を必ずしも自身の意思で踏み出せるとは限らない。あるいは本人すら知らぬ間に踏み出していることすらある。自身が未知の領域に踏み込んだことすら気づかないまま、既存の経験則に従って突き進むものもいる。
その道程はフィクションにおいては終始劇的な脚色を加えられるものだが、当事者にとって日常の一部に過ぎないものだ。
◇
【東京 世田谷 太子堂】
昭和二十年九月二十四日
今年で齢十五を迎える戸張小春にとって、兄の帰還は常に突発的で予測不可能なものだった。それは、この戦争が始まる前から変わらぬものだ。
十年ほど前、彼女がようやく小学へ進もうとする頃、兄の寛は海軍軍人になるため、瀬戸内の小さな島へ渡った。いらい便りをほとんどよこさず、年に数日だけ、まるで旋風のように帰省し、瞬く間に戻っていった。物心つきはじめた小春にとって、寛の存在は風物詩に近い何かだったが、疎遠に感じることはあまりなかった。要因は二つある。
一つは兄の寛の誰に対しても胸襟を開きたがる遠慮の無い性分、生来持ち合わせている諧謔味だった。もう一つは、兄と対極的な性格をもち合わせている親友の存在だった。儀堂家の長男は兄と違い、まめに便りを実家へ寄越す青年だった。戸張と儀堂は家同士で付き合いのあり、特に両家の母はお互いの家を行き来していた。彼女は儀堂衛士の視線を通して、間接的だが寛の様子をうかがい知ることが出来た。自然と小春の関心は、兄と共に衛士へ移っていった。儀堂家の母から伝わる長男の印象は家族思いで、一途に誠実な青年士官だった。
小春が初めて儀堂と顔を合わせたのは、兵学校時代に短い休暇を利用して帰京したときだった。初対面での衛士の印象は彼女の幻想を裏切らぬものだった。もちろん寸分違わぬと言うわけではなかった。誤差はあったが、上方修正される類いのものだった。兄の寛が蒼空の風のような人間とするならば、儀堂衛士は深い森を思わせる印象があった。独特の落ち着いた、それでいて底が見えないものだった。理由はわからなかったが、帰省時にたまに見せる寂しげな瞳がさらに印象を深める結果となった。小春が衛士と父親の間に説明困難な確執があると気づくのはしばらく後のことだ。とにもかくにも、小春にとって、帰還を待つ相手が二人出来たことは確かだった。
◇
九月も終わりかけた日、夕方のことだ。その日、彼女は通り雨から庭先の洗濯物を退避させている最中だった。雨音をかいくぐって玄関から開く音がした。続いて間髪入れずに突き抜けるように「ただいま」と第一声が発せられる。寛が帰ったのである。
「はぁい! ちょっと待って!」
家内には小春以外に誰も居なかった。母の春子は防災訓練のため公民館へ赴いている。父の剛も、まだ勤務先から帰ってきていない。小春は、この日たまたま女学校の授業が早く終わったため、兄を出迎えることが出来たのである。
小春は残りの洗濯物を急いで縁側へ取り込むと、すぐに玄関へ向おうとした。その途中、再び大声が発せられる。
「おーい、なにか拭くものを頼むぜ。ふたつくれ」
「わかったぁ!」
途中で箪笥からタオルを取り出す。廊下を歩く足取りと鼓動が早まっていた。ふたつということは二人分ということだ。兄とともに来る帰還者など、小春には一人しか考えられなかった。ほとんど無意識のうちに、口元がほころんでいた。
「お帰りなさい。はい、これ拭くもの――」
愛らしい笑顔を玄関に出した小春の耳に、奇怪な鳴き声が届けられた。直後、少女は全身を硬直させた。
寛は妹が差し出した二枚のタオルを有り難く受け取ると、片方を自分に使い、もう片方を自分の連れに使った。
「いやいや、参ったぜ。急に降り出しやがる。ああ、大人しくしろ。羽がびしょびしょだぞ」
「…………」
「それにしても元気そうじゃねえか。親父とお袋も変わりないか? ああ、そうだ。衛士のヤツも戻ってきているから、後で顔を出しに行こう。よぉし、こんなものか。おい、どうした? なにぼうっとしてんだ?」
「………なにって、そっちこそ、それ………なによ」
小春は硬直を解くと後ずさった。兄の横にいる四足の連れを指さす。大型犬ほどのサイズだが、形状は明らかにことなっている。こんな首の長い、翼の生えた犬がいてたまるもんですかと思う。
「ああ、こいつか。今日から飼うことになった竜だ。名前はシロってんだ。ほらシロ、あいさつしろ。前に話した、オレの妹だ」
純白の竜は首を上下に振ると、カモメと鶏を混ぜ合わせたような甲高い鳴き声を上げた。
小春はしばらく開口したまま沈黙し、眼を白黒させた。ようやく目前の事態を理解すると、兄に対して投げかける適当な言葉を絞り出した。
「………ば」
「ば?」
「ばっかじゃないの!!!」
このように戸張小春にとって兄の帰還は、まことに突発的かつ予測不可能なものだった。
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