あらかたの荷ほどきが終わるや、儀堂家の居候達は居間に集まった。とりあえずは一段落したので、休憩を挟むことにしたのだ。
「この小さな円卓は慣れないわ」
居間に足を踏み入れるなり、キールケはちゃぶ台を指した。練兵場のときと違い、今日は白いワイシャツにストライプの入った紺色のパンツスーツを着用している。
「あなたたち、そんな格好でよくくつろげるわね。さすがは禅の国と言ったところかしら」
二人の先着者を感心したようにキールケは眺めた。
正座をした御調少尉は海軍第一種の軍装を身につけている。いっぽうネシスはセイラ―服姿であぐらをかいていた。
「ゼンが何かは知らぬが、お主の国では立ったままくつろぐのか?」
ネシスが鼻で嗤う。御調は何も言わなかった。
「そんなわけないでしょ。椅子じゃなくて、タタミに腰を下ろすのが嫌なだけよ」
キールケは本当に慣れない様子でしゃがみ込むと、窮屈そうに足を崩した。パンツスーツを穿いているため、多少無理な姿勢でも人目を気にする必要は無かった。ただ、それ以前の話として、目下のところ彼女がいる空間には同性しかいない。
「ところで、儀堂はどうしたの?」
首かしげるキールケの背後から、小春が盆に急須と湯飲みを載せて入ってきた。
「衛士さんなら、少し前に出かけましたよ」
「そう。これからのことを話したかったのに、残念。ああ、ありがとう」
小春から湯飲みを受け取ると、そのまま湯飲みを傾けたキールケだったが、すぐに離してしまった。
「これは……」
「どうかしました?」
虚をつかれた表情のキールケに、不安げに小春は尋ねた。
「いいえ、違うわ。ねえ、あなたこれってもしかしてアールグレイ?」
「ええ、欧州の方には紅茶がいいかと思ったんですけど……お口に合いませんでしたか」
「とんでもない。よく手に入ったわね。あの艦長が紅茶なんて意外だわ」
「ああ、これは私が持ってきたんです」
「そうなんですか?」
よほど意外だったのか、それまで黙っていた御調が口を開いた。実際のところ、御調の反応は自然なものだった。昨今の時世で紅茶などの嗜好品は滅多に手に入らない高級品だった。
「父が商社に勤めていて、ときどき訳ありの品をもらっているんです」
「良いのですか? 貴重品でしょう」
「いいんです。だいたい、うちに置いてても腐らせるだけですから。父は勤めでほとんど家に居ないし、母は紅茶は好かないんです。兄貴はそもそもこういうのに興味が無いし」
心なしか諦めたように小春は言った。ネシスが意地の悪い笑みを浮かべる。
「なるほど、舶来の風情に通じたのはお主だけだったわけじゃな」
「風情って言うほど、たいしたものじゃないけど」
実のところ、図星だった。小春は欧米の風俗に敏感で、ひと一倍関心をもっていた。有り体に言ってしまえば、彼女は同年代の中でもマセた少女だった。
商社勤めの父は、戦前から舶来品の土産を家に持ち込んでいた。好奇心旺盛な小春にとって海を越えた世界から持ち込まれた文具や菓子は、宝物のように輝いて見えていた。
父だけでは無く、付き合いのあった儀堂家も陸軍士官の中でも開放的な部類の家庭だった。儀堂の父は、かつて駐在武官として英国にいた経験から、吟醸よりもシングルモルトを愛していた。
対米戦が迫り、きな臭い世相となった時期もあったが、それでも両家は斜に構えること無く泰然としていた。
国内において、欧米に対する忌避感はなくなりつつあったが、同世代の日本人にとって、未だに西洋は『遠くにある場所』だった。しかし、小春にとっては『少し遠くにある場所』だった。
キールケは紅茶の香りを十分楽しんだ後で、湯飲みに口をつけた。
「いいわね。あなた紅茶を淹れるのがうまいわ。ねえ、ひとつお願いしたいことあるの。もし可能なら珈琲を取り寄せてもらえるかしら?」
「珈琲? 父に聞いてみないとわからないけど、たぶん大丈夫だと思います。南米とも取引があるって言っていたし」
キールケは少女のように顔をほころばせた。
「よかった。お代は払うから。ねえ、御調少尉」
御調はにべもなく首を降った。
「経費としては申請はお控えください。目的と効果が不明瞭です」
「冗談よ。これだから――」
東洋人はと言いかけて、彼女は止めた。その東洋人の国に厄介になっているのだ。
「あの、私から代わりにお願いしても良いですか?」
小春は、遠慮がちに切り出した。意外そうにキールケはうなずいた。何を言い出すか、見当も付かないようだった。
「あら、何かしら?」
「言葉を教えてほしいんです」
その手には鞄から取りだしたノートが握られていた。
【駒沢練兵場 厩舎】
「おいおい、どういうことだ」
戸張は、シロの首筋に巻尺を当てながら言った。
「だから言っただろ。キールケと御調少尉が押しかけてきたんだよ」
シロの首を挟んで、戸張と向き合った儀堂は巻尺の先端を受け取った。そのままぐるりと首筋を一周させて、再び戸張に手渡す。
昨日とは一転して騒がしくなった家内に堪えきれず、シロの様子を見に来たところだった。
戸張はシロの首越しに儀堂を睨んだ。
「ちょっと待て。お前、ずるいぞ」
「何を言っているんだ」
「二人も女を囲うたぁ、とんだ御大尽さまじゃねえか。いつの間に、そんな仲になりやがった」
本気で青筋をたてる戸張を、儀堂は呆れた目つきで見返した。
「オレの意思じゃない。六反田閣下の命令だ。キールケの下宿先にされたんだよ。シロの厩舎に通いやすいかららしい。それなら、いっそのこと練兵場の宿舎に泊まり込ませた方がよほど都合がいいだろうに」
「なんだぁ、そういうことか」
ほっと胸をなで下ろした戸張だが、面白くない様子だった。心底面倒くさそうな儀堂だが、嫌みにしか聞こえなかった。
戸張は巻尺の目盛を確認し、シロの首元からほどくと、数値をノートに書き記した。
「何をやっているんだい?」
「小春から頼まれたんだよ。身体の大きさを測ってくれってな。あいつ、シロの成長を記録に付けているらしい」
小春はシロの成長日誌を付けていた。数日ごとに身体の大きさを測っていたらしく、シロがいかに規格外の生物なのかを伺い為ることが出来た。
「へえ、まるで学者だな」
「オレもそう思う。あいつ、気が強い割に意外と勉強が好きなんだよ」
儀堂はあいまいに肯いた。気の強さと勉強の出来について、論理的な相関を見いだせなかった。
「親父は高等まで出す気らしい。その先はわからん」
「小春ちゃんは、どうしたいって?」
「わからんが、まあ大学まで行きたいのならオレも頑張らねえとな」
女子が進学できる大学は限られていた。その大半は私立であり、学費は並ならぬものだ。小うるさい妹だが、兄として道行きの手助けくらいはするつもりだった。
「そうか……」
十七のとき、儀堂の姉は儀堂が江田島の海軍兵学校に行く際、東京駅のホームまで見送ってくれた。まだ小さい妹は泣き渋って、ズボンを掴んで離さなかった。自分を送り出した二人の葬式を、その五年後に出すことになるとは思いもしなかった。
「おい、衛士。ちょっと頼む。衛士……どうした?」
「いや、なんでもない。何をすればいい?」
「お前が呆けるとは珍しいな。とにかく、次はこいつを頼む」
肯きかけた儀堂は、訝かしげに眉を潜ませた。
「……待て。何をする気だ?」
彼の親友は乗馬用の鞍を抱えていた。
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