【アメリカ合衆国 ノースダコダ州 ハービー 1945年2月12日 深夜】
本郷が意識を回復したとき、視界に入ったのは真っ白な天井だった。混乱と不安が心中を巡り、反射的に起き上がろうとする。上半身を浮き上がらせたところで、制止の声が小さくかかった。
「大丈夫です」
本郷の肩にそっとたおやかな手が置かれる。米国人の女性看護師だった。年の頃は20そこそこに見えた。赤毛で、美人と言うよりも可愛らしさの要素が強い顔立ちだった。頬のそばかすによるものだろうが、実年齢よりも幼く取られそうだ。本郷は、米国のとある児童小説のヒロインを思い返した。
「ここはどこですか?」
日本人的な英語の発音で、本郷は問うた。
「ハービーの仮設病院です」
「ハービー?」
本郷はぼやけた頭に地図を広げた。オベロンの西方80キロに該当する地名があったような気がする。そんなところまで後退したのか? いや、それよりも確かめるべきことがある。
「僕の部隊は? 他の兵は?」
「安心してください。皆さん、すぐ外の駐車場であなたの回復を祈っています。ここまで兵隊さんが、あなたを運んできたんです」
赤毛の看護師は落ち着かせるように言い聞かせた。
「そうですか……」
本郷は半ば浮き上がらせた上半身を、再びベッドへ委ねた。
「ご気分はどうですか? 痛いところは?」
「痛みは大したことはありません。ただ、少し頭がぼやけています」
「失血性のものでしょう。あなたは慕われているのですね。輸血を募ったら、兵士のみなさんが我先にと手を上げましたよ」
「それは……有り難いことです」
本郷は恥じ入るように看護師から目をそらした。それが照れによるものだと看護師は気がついた。
「暫く安静にしてください。傷口が開いてしまいますから。また何かあったら、呼び鈴を鳴らしてくださいね。ミスタータイチョウ」
「ミスタータイチョウ?」
耳慣れぬ呼称に首をかしげる。
「あなたのお名前ではありませんの? 兵士の皆さんがしきりにあなたのことをタイチョー、タイチョーと呼んでいたので――」
本郷は思わず失笑した。あいつら、ここに来て一年も経つのに碌な英語を話せぬとはどういうことなのだ。これは教育が必要だな。
「いいえ、違います。タイチョーは役職の呼称です。本郷が僕の名です」
「あら、ごめんなさい。日本語はよくわからなくて、私ったら恥ずかしいわ」
「無理もないでしょう。僕だって、一昔前までロサンゼルスがどこかなんて知りませんでしたから」
「ふふ、それではおあいこですね」
赤毛の看護師は顔を綻ばした。あどけなさが故郷に残した17の娘を思い出させた。
「そのようですね。ミス?」
「アンナ。アンナ・フィールズです。アナで良いですわ」
アナは本郷を寝かしつけると、病床から去っていた。改めて首を回し、周囲を確かめる。本郷の他にも数名の合衆国軍の将兵が、その身を横たえている。時折うめきとも悲鳴とも着かぬ声が木霊する。本郷は急にある疑念に囚われた。ふと実は夢を見ているのではないかと思った。あるいはすでに自分は死んでいて、北米の原野、鉄の棺桶でその身を腐らせているのではないか――。
ひそかに本郷は額の包帯に手を当てた。鈍い痛みをわずかに感じ、ほっと安堵した。
二日後、退院した本郷は去り際にアナヘ自分の持っていたチョコレイトを手渡した。世話になった礼のつもりだった。アナは少し驚いた様子で、頬を染めながら受け取った。チョコレイトは貴重品だが、高級品というわけではない。本郷が所持していたものは、ロサンゼルスの食品店でも入手可能なものだった。にも関わらず、なぜかえらくアナは喜んだようだった。
彼が2月14日に殉教した聖人について知るのは、しばらく後のことだった。
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