【シカゴ沿岸 駆逐艦<宵月>】
シカゴBMから孵化した魔獣は、南下しつつあった。ここで儀堂は決断を迫られていた。このままヤツを追うか、それとも退避し、味方の増援を待つか。迷うことではなかった。
儀堂は首元に手を当てると、マイクを起動させた。
「艦長より、撃ち方止め。取り舵いっぱい。機関最大。これより離脱する」
艦橋の興津が復唱する中、抗議の声が耳当てから木霊した。
『ギドー、嫌じゃ! 妾は離れとうない』
「駄目だ」
儀堂は遮るように言った。
「オレ達にヤツは倒せん。お前にもそれはわかっているだろう」
『あやつを捨て置くというのか!?』
「そうだ」
『いかん! ギドー、あれを止めねばならん!』
「無謀だ。万に一つでも勝てる戦いならばやってやろう。だが、今の<宵月>は万全ではない。理由は言わずともわかるな」
僅かな沈黙の後、軋む音が耳当てから響いた。光を失った鬼が、牙をこすり合わせたのだ。
「そういうことだ。このまま正面から殴り合っても、一方的に嬲られるの関の山だ」
『……そうかもしれぬ。だがギドー、あの獣は厄災をまき散らすぞ。妾の世界は、あれのせいで二度と戻れぬ場所となったのじゃ。それにお主は誓っただろう』
今度は儀堂が黙ることになった。
『お主は全ての魔を殺戮すると妾に約束した』
儀堂家の墓の前、黄昏の下で交わした誓いが思い起こされる。儀堂は隔壁の向こうにいる誓約者向けて、肯いた。
「確かにな。しかし、今のオレ達にそれが可能なのか?」
『保証は無い。だが、後生じゃ。妾の頼みを聞いてくれ。妾はあやつらを捨て置けぬ。置けぬのじゃ。ギドーよ、お主の目には何が映っている』
シカゴBMの魔獣の巨体が遠ざかっていく。双眼鏡を構えると、儀堂は焦点を調整した。魔獣は牛のような体躯で、その巨体を十本の脚で支えていた。表面は黒い鱗状の皮膚に覆われいる。この世のいかなる生物にも属さない。あらゆる生態系から外れた形状だった。
儀堂は双眼鏡の焦点を尾の先へ移した。自然と眉間に皺が寄っていく。同時に自身の認識が誤っていたことに気がついた。今まで尻尾だと思い込んでいたものは、首だった。魔獣は胴体の前後に、ぞれぞれ三本と二本の首を生やしていたのだ。頭部に焦点を合わせたとき、儀堂の瞳は大きく開いた。この瞬間、彼はネシスの懇願する理由を悟った。
そっと双眼鏡を離す。
額に汗が浮かび、鼓動が早くなるのがわかった。惨すぎる真実に身体が拒否反応を起こしていた。彼は呼吸を整えると、答え合わせをおこなった。
「あれは、お前の同胞なのだな」
『ああ。同胞だったものじゃ』
ネシスの言葉の端々から口惜しさがにじみ出ていた。
「合点した」
『ならば――』
「倒せる方法があるのか?」
『ある。決して易くはないが……』
儀堂は遠ざかる巨影に目を向けた。咆哮が木霊してくる。鼓膜を切り裂くような金切り声に近い音質だった。何かを訴えかけているように儀堂は感じられた。
ふと思った。
あれは悲鳴なのではないか。
首元に手を当て、逆立っていく気が静まるのを待つ。そして徐に口を開いた。
「易くないと言ったな。<宵月>で可能なのか?」
<宵月>が装備している五十センチ噴進砲でも、あれを仕留められるか怪しいところだ。第一、射程に捉えること自体、困難に思えた。
『お主と妾ならば――』
ふいに言葉が切られる。訝かしげに儀堂はネシスに呼びかけようとしたとき、耳当てから音が割れるほどの怒号が響いた。興津の声だった。
『艦長、すぐに艦橋へ戻ってください! 合衆国軍が――』
直後、儀堂の身体は熱波の衝撃に包まれた。
【シカゴ上空 ERB-29】
ERB-29はシカゴBMから這い出た魔獣の後を追っていた。デンバーから正式に追跡命令が下っている。
アームストロングの報告を受けたデンバーの司令部は、シカゴBMから這い出た規格外の魔獣を、月獣を名付けた。名付け親は不明だが、他の魔獣と区別する上では使い勝手がよさそうだった。
目下のところ、月獣は時速二十ノットほどで、南下していた。ERB-29は不用意に追い越さないよう、月獣上空を大きく左旋回しながら後を追っている。
上空から観察した月獣は、まるで多足虫のようなフォルムだった。背中に大量のトゲを生やしたダンゴムシ、その前後から複数の首が触角のように伸びている。見ている者に嫌悪感と不安を覚えさせるものだった。
アームストロングへ向けて、僚機のB-29からの無線が入った。その内容はさらに不安を煽るものだった。
「アポロよりトール2へ退避とはどういうことだ?」
眼下の巨体を眺めながら、アームストロングは困惑気味に問い返した。トール2の機長は、敢えて機械的な応答を行った。
『プロスペクトからのダイレクトコマンドだ。トール2の反応爆弾で再度攻撃を行う』
アームストロングは息を飲んだ。プロスペクトとは合衆国大統領のコードネームだった。デンバーのHQを飛び越えて、大統領命令が下ったことを意味している。合衆国の存続に関わる非常事態と判断されたのだ。
『とにかくそういうことだ』
トール2の機長は投げ出すように言った。
『あんたは高見の見物に転じてくれ。ああ、すまない。別にあんたに対する他意は無いんだ。ただオレは、アルカトラズやデンバーの連中を、ここに招待したくて仕方が無いんだよ』
後半は戯けた声で続けていた。トール2の機長はシカゴ出身だった。アームストロングは知らなかったが、察することは出来た。
「トール2へ、帰投したら良いバーを紹介するよ。10年もののバーボンが置いてある」
『いいね、トール1も誘おう』
「ああ」
短い返事をすると、アームストロングは機体の高度を一万メートルまで上げた。まもなくトール2が爆撃コースへ進入する。その高度は七千メートルほどだった。
月獣が移動目標のため、可能な限り移動経路を予測して投下する必要があった。
―果たして効果があるのか。
眼下で銀色に輝く機体を見ながら、アームストロングは思った。シカゴBMと異なり、奇妙な方陣は展開されてない。奇怪だが、生物のような形状をしているからには無傷で済むとも考えられなかった。しかし、相手は前例のない月獣なのだ。いかなる能力をもっているか不明なまま、こちらの切り札を投入することに疑問を感じざるを得なかった。
―もし、トール1と同様に効果がなかったら……。そのときは何をもってして、ヤツを仕留めれば良いのだ?
アームストロングが、そこから先の可能性について考えるのを止めたとき、副機長のマーカスが引きつった声を上げた。
「スティーブ、月獣の様子が……ホーリィシット!!」
アームストロングがマーカスを窘めることはできなかった。彼も目前光景に茫然自失となっていたからだった。
トール2のエンジンが火を噴いていた。
「マーカス、何があった?」
「わかりません。ただ、あのバケモノの背中から何かが――」
直後、アームストロングは身を以て正体を思い知ることになった。ERB-29が大きく揺れる。アームストロングは操縦桿を握りしめながら、努めて冷静に状況報告を命じた。
「各部、報告。何の異常だ」
『こちら上部機銃座。機長、3番エンジンに何かが突き刺さっています』
アームストロングは右後方へ目を向けた。確かに何かが突き刺さっている。見覚えのあるのものだった。
黒いトゲだった。月獣の背中から無数に生えたトゲの一本が突き刺さっている。
「デンバー、いやアルカトラズへ報告だ。月獣への反応弾爆撃は――」
下方で黒煙を噴きながら、墜落していくトール2の機体が見えた。
「失敗した。トール2は月獣の攻撃により撃墜。繰り返す。反応弾爆撃は失敗……以上!」
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