【東京 築地 海軍大学校 昭和20年 2月28日 昼】
六反田は大きなくしゃみを二回すると、身体を震わせた。震動でデスク上の書類の束が崩れ、床にこぼれ落ちる。
「何をやっているんですか?」
呆れながら、矢澤少佐は床に散らばった書類を拾い上げた。
「風邪でも引いたのでは?」
「莫迦を言え。きっと誰かがオレの悪態を吐いているのさ」
「なるほど、確かに……」
思わず同意した矢澤を六反田は睨みつけた。理不尽さを感じつつも、矢澤はさっと目をそらし、自分の執務机へ戻った。
「井上閣下でしょうかね」
「わからんぞ。自分で言うのも何だがな。オレを嫌っているヤツなんて、星の数ほどおるからな」
「はあ、左様で」
その論理で行くと、六反田は四六時中くしゃみをすることになるのではないかと思ったが黙ることにした。
「まあ、気にもならんがね。オレもそいつらのこと嫌っている。お互いに見解が一致して誠によろしい。それにオレにとって重要なのは好き嫌いじゃない。莫迦かそうじゃないかだ。まあ、大概の莫迦は好き嫌いで物事の優劣を判断したがるから、オレを無能と思う奴は高確率で莫迦だな」
六反田は傲岸の極致にあるような態度で断言した。
「そいつはまた大した自信ですね」
矢澤の呆れるような口調に対し、六反田はニヤリと嗤った。
「矢澤君、君は私を無能と思うか?」
「そんな、まさか!」
「だろう? だが、初対面でオレに対する印象は好まざるものだったはずだ」
「それは、まあ、否定はしませんが――」
矢澤が初めて六反田に会ったのは、4年前の地中海のアレキサンドリアだった。彼は六反田が指揮する水雷戦隊の参謀職を任じられた。初対面の六反田は目の下にくまをつくり、防暑服はよれよれで数週間洗濯されていなかった。自分も数週間後に似たような風体になるのではと思い、恐怖したのを覚えている。
「だが、君はそのとき私の能力まで判定しなかっただろう? そこが違う。莫迦はすぐに判断を下し、途中で自分の評価が誤っていると振り返ることすらない。『自分が誤った、あるいは誤っているかもしれない』、その前提が抜け落ちた奴はどうしようもない。ずっと誤り続け、事実が自分の認識とずれると今度は他人のせいにし始める。この手の莫迦が兵を死なせる様をオレは嫌と言うほど見てきた」
六反田は胸ポケットから煙草を取り出した。菊印の煙草は切れたらしく、今日は草色に梱包された安煙草だった。
「そういう莫迦は、善悪を越えた有害物だとオレは思っている。是非ともとっと死んでいただきたいね」
六反田はマッチを擦り、紫煙を焚きつけると肺に補充した。
「北米に、その手の莫迦が少ないことを祈るばかりだ」
六反田は机の抽斗から書類の束を取り出した。矢澤は身を乗り出し、書類の束を受け取った。表紙には朱色のインクで『Confidential(機密)』の印鑑が押されている。
「例の反攻作戦ですか?」
それは米英連合軍が計画している反攻作戦の計画書だった。遣米軍経由で六反田は入手していた。
「ああ、決まったよ。有り難いことに後ろ倒しになったらしい。4月末に開始予定だそうだ。私が思うに恐らく戦線が泥沼化して、戦力の再編が上手くいっていないのだろう。合衆国中央部は広大な平野が続いているからな。まともな防衛線を敷くのは不可能だ。五大湖以東から侵出してきた魔獣を順繰りに叩くだけで精一杯さ」
「それなのに反攻作戦を行うのですか?」
矢澤は作戦計画書にざっと目を通した。陸軍12個師団、航空機は4千機、後方要員も合わせて20万人を越える動員が計画されている。大した兵力だが、作戦主目標である五大湖周辺の制圧には少なすぎる。
「たったの20万で五大湖まで戦線を押し上げるのですか? とても現実的では……」
「そこが不思議なところだ。オレが知る限り、合衆国軍は莫迦じゃない。5年前の我らが大本営でもあるまいし、いくら世論に押されたからと言って、こんな画餅を描くほどめでたい輩じゃない」
「確かに、彼らは実利主義の権化ですから。まさか――」
矢澤はある可能性に気がついた。彼は自分の前提に疑いをかけた。
「この計画書……本物ですか?」
六反田は満足げに肯いた。
「イイ質問だな。そう、オレも同じことを考えた。そこで色々と探りを入れてみた。それこそ官民、鉄鋼から乾物屋まであらゆる業態、業種の伝手を使ってな。それで物騒な噂を耳にした」
「噂?」
「連中、新型の爆弾を開発しているらしい。そいつは一発で戦局を変えるような代物だ。街一つを吹き飛ばすほどの威力で、反応弾と呼ばれている」
「そんなものが――」
いや、だとしたら筋が通る話だと矢澤は思った。今まで攻略に多大な犠牲を払ってきたBMに対しても有効だろう。上手くいけば、一撃で四散させることも夢ではない。
「もし、その噂が本当ならば世界は一変します。魔獣に奪われた土地を一気に取り返せますよ」
矢澤は興奮気味に話したが、六反田は対称的に冷ややかだった。
「その通り。だが矢澤君、ひとつ忘れちゃいないか?」
矢澤は虚を突かれたような表情になった。
「何をです?」
「魔獣が素直にオレ達の攻撃を受けてくれるのかね? なあネシスの嬢ちゃんのような知性をもった存在が敵側にいたとして……なすがままになると思うか?」
「それは……」
「いいか。この計画は敵側が今まで通り知性がない前提で組まれている。たしかにこの5年間の戦いで、魔獣は戦略らしいものをもたず無作為に攻撃を仕掛けてきた。おかげでやりやすくはあった。考えなしに突っ込んでくる獣を狩るだけの作業だったからな。だが、ネシスのように知性を持った奴が、意図的に魔獣や魔導を操りだしたらどうする?」
矢澤はようやく彼の上官が、あの<宵月>を突貫で修復させた理由に思い至った。
「つまり閣下は、その可能性を米英に突きつけるために……」
「まあな。論より証拠ともいうだろう。既に遣米軍司令部には伝えてある。連中に前提を見直させるため、あの嬢ちゃんには北米へ行ってもらう。まあ、オレの杞憂かもしれんがな。その反応弾で戦局を打開できるならば言うことはない」
六反田は大きく背伸びをすると、椅子を回転させ、窓の外へ視線を向けた。浦賀水道に集結した艦隊、さらに先にある北米の原野を見据えている。実のところ、六反田が反応弾を存在を知ったのは米英の反攻作戦が計画される遙か前のことだった。そのとき六反田は魔獣に対するものとは別の懸念を抱いた。
米英が反応弾を所持したのならば、この戦争における日本の立場はひどく不利になる。均衡を保つにはどうすれば良いか、簡単な話だった。
「矢澤君、井上さんに電話を頼む。例の初号計画ついて話をしたいと伝えてくれ」
【浦賀水道沖 昭和20年 2月28日 午後】
この日、大日本帝国は87回目の北米支援船団YS87を送り出した。
通例と異なり、この船団の陣容は異様なほど頼もしいものとなった。
EF所属の補助艦艇ではなく、GF直属となる新設された第三航空艦隊が護衛戦力の中核を受け持つことになっていた。新鋭空母<大鳳>を旗艦とする強力な機動部隊だった。
小山のような艦船に囲まれ、一隻の駆逐艦が船団中央へ颯爽と駆けていく。
<宵月>だった。艦隊司令部からの命令で船団中央へ陣取ることになっている。
艦橋で、ようやく儀堂は艦長職に集中できるようになった。ネシスの質問攻めは今のところ止んでいる。見るに見かねた御調少尉が引き取ってくれたからだ。彼女が乗船してくれたおかげで多少なりとも負担は減りそうだった。
改めて儀堂は妙な配置だなと思った。
――船団を守るべき駆逐艦が、中央に配置されるなんて。
これではまるで、<宵月>が守られているようだ。
「全く……相変わらず、海軍とはようわからんことをする」
その日は世界にとり、新たな転換点。その始まりとなった。
しかし当事者を含め、この世界の住民がそれを自覚するのは少し先になる。
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