儀堂は深く呼吸すると、自己嫌悪を終わらせた。
「ネシス、回復できるか?」
月鬼は強力な回復能力を持っている。かつてネシスと邂逅したとき、儀堂はその身に弾丸を叩き込むも、すぐに傷口は塞がってしまった。
『すまぬ。妾にもわからぬ』
消え入るような声だった。
「だから謝るな。わかった。障壁の展開に支障は無いのか?」
儀堂は<宵月>を包む黒い幕を見据えていた。数分前よりも、黒の濃度が薄くなったように感じる。
ネシスは言いよどむのがわかった。ほどなくして<宵月>に、危機的な未来が訪れそうだった。
「障壁の維持がお前の負担になっているのだな」
『そうさな。お主の言う通りだが、些末なことじゃ。維持だけならば、できようて』
「攻撃を受けた場合は?」
『長くはもたぬ……』
ネシスは苦しげに絞り出した。
「そうか。少し待て」
儀堂は艦橋内へ視線を巡らし、副長の興津と目が合わせた。どうやら直感的に上官の決心を悟ったらしい。背筋が自然と伸ばしていくのが見て取れた。
「艦長――」
「副長、オレは防空指揮所に上がる」
艦長席から立ち、儀堂は壁に掛けていた外套と双眼鏡に手を伸ばした。
「了解です。ならば私も――」
「いや、君はここで待機だ。もしものときは後を頼む。ああ、そうだ。機関部に全力発揮の用意をさせろ。そのほか各部からの連絡は、私につなげてくれ。使いぱしりにしてすまないね」
何事が言いかける興津を畳みかけると、儀堂はそのままタラップを昇った。
防空指揮所へつくや、喉頭式マイクに手を当てる
「ネシス、聞こえるな。障壁を開けろ」
『ギドー、おぬしはどこにおるのじゃ? 気配が動くのがわかったぞ』
「それは後で良い。反応爆弾の衝撃も収まった頃合だ。シカゴBMの様子を把握したい。お前の障壁が邪魔で、見えないんだ」
『見えるように計らうこともできるぞ』
「今すぐ見たい。いいから開けろ。そんなこともできないのか? お前は役立たずか?」
言い終わるや、直後に障壁が解かれた。<宵月>の周囲を隔絶した球体が取り除かれ、塵芥の残骸と化したシカゴ市街が目に入った。
「よろしい。<宵月>を湖面に降ろしてくれ」
『……わかった』
宙にあった<宵月>の船体が湖面に着水した。数千トンの淡水が押しのけられ、楕円状の波紋が広がっていく。
「これでいい。さて……」
儀堂は、双眼鏡を構えた。虚空に浮かぶシカゴBMが映し出される。本来なら視界を遮っていたはずのビル群は倒壊し、全景を見取ることができた。
シカゴBMは徐々に高度を下げつつあった。その周辺を4つの小型BMが周回し、軌道上に光の帯が渡されている。その帯には解読不能な巨大に文字が浮かび上がっていた。
「……舞っているようだ」
思わず感想が漏れ、マイクが音を拾った。
『ギドー、どうなっておる。おぬしの言う通り、障壁を解いたのじゃ。外の様子を聞かせよ』
「そう、急くな。話すのに骨の折れる光景だ」
簡潔にBMの様子を伝えると、ネシスは唸ったまま何も話さなくなった。
「奴らが何をやる気かわかるか?」
返事はない。その代わり、何事か呟く声が聞こえてくる
『……光の帯、解除の紋章を渡しておるのか。よもや、いや、ありえぬ。奴らが同胞を解き放つなど』
「ネシス、心当たりがあるなら……いや、待て。さらに動きが変わったぞ」
『何が起きたのじゃ』
「繭が出来ている」
『なんじゃと?』
シカゴBMの高度が下がるにつれ、それまで等間隔で周回していた小型BMの軌道が崩れだした。それぞれのBMが、不規則な軌道を描き、その後を追うように光の帯が渡されてく。
帯はシカゴBM全体を包み込むように幾重にも展開され、やがて巨大な紫色の繭が出来ていた。小型BMは光の帯に吸い取られるように小さくなり、やがて完全に消失した。
儀堂は自身の報告が正確さに欠いたと気がついた。
後に残ったのは虚空に浮かぶ楕円状の球体だった。
「ネシス、訂正する。あれは繭ではない。卵だ」
双眼鏡のレンズに映る影は直立した卵、そのものだった。
耳当てから息を飲む音がした。
『ギドー、すぐにホーゲキするのじゃ! あれを産み出してはならん!! いかんのじゃ!!』
悲鳴に近い懇願が鼓膜を打った。思わず眉をひそめたとき、殻を割る音がミシガン湖上の空に響き渡った。
卵状のシカゴBMにヒビが入り、光が漏れる。そのヒビの隙間から巨大な手が見えた。
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