【大日本帝国 横須賀 昭和20年1月9日】
横須賀にその施設はあった。
草色の戦闘服に身を包んだ、直立不動の衛兵。その脇にある門柱には『海上護衛総司令部』と刻み込まれている。
通称、護衛総隊。EF(エスコートフリートの略)とも呼ばれる。
大日本帝国及びその友邦諸国の航路の護衛を目的として設立された組織だ。当初は連合艦隊所属の一部隊に過ぎなかったが、その任務の多様化と活動領域の拡大に従い、独立した指揮系統を保持するようになった。所属艦艇の大半は巡洋艦以下の補助艦艇によって占められているが、隻数だけならば母体となった連合艦隊に比肩しうる規模の戦力を有している。
かつて横須賀鎮守府が置かれた施設に、海上護衛総隊司令部は設置されている。一時期は海軍省内にあったが、やはり人員の拡大に応じて兵員が収まらなくなったため移転となった。軍令部との連絡がとりにくくなったが、護衛総隊直属の艦艇の大半が横須賀を母港としているため、現場に近いという意味では好都合だった。
その司令部内の廊下を速歩で進む軍人がいた、よほど急ぎの用事らしい。彼はある一室で足を止めると、息を軽く整えてノックした。間もなく「入りなさい」と室内から返答があった。
彼が開けたドアには長官室と書かれていた。
「大井大佐、入ります」
大井篤大佐は室内奥のデスクまで進むと、そこの主に書類を差し出した。表紙には軍極秘の印鑑が押されている。
灰皿でタバコをもみ消しながら、伊藤整一EF長官は書類を受け取った。
「決まったのかね」
「はい、伊藤長官。今度のYS八七船団の編成です」
「北米支援船団もこれで八十七回目か」
「はい。ただ今回は通常のそれと異なりますので、護衛戦力を増強しております」
「なるほど……」
伊藤は船団の編成表へ一通り目を通すと、人員表のページをめくった。そこには尉官以上で職位をもった士官が載っている。ふとある人物の名が目にとまる。
「おや、ここの――」
伊藤はその人物の名を指さした。大井は事前に反応を予想していたらしい。目もくれずにうなずいた。
「はい、本人たっての願いだそうです。一日も早く海へ戻りたいと」
「しかし、相当な重傷だったと聞いている」
「ええ、先月退院したばかりです。私も直接本人へ会って参りましたが、不調には全く見ませんでした。何と言いましょう。不気味なほど平静でした」
「……よもや死に場所を求めているわけではないだろうね? 悪いが、彼と心中してやれる兵はおらんよ。何しろ、どこもかしも人手不足だ」
「それはないかと――」
大井はこれまでの戦歴から、そのような結論を出していた。件(くだん)の士官は死に場所を求めるどころか、生存を第一にしているようだ。そして確実に敵を血祭りにしている。彼が任官した部隊は、かつてないほどの戦果をたたき出すことで有名だった。
「今回の任務の特殊性を鑑みますと、彼は適任です。なにしろ、あのハワイ沖海戦の生き残りですから」
「そうか……もっともなことだな。忠君報国は望むところだが……。北米航路は娑婆の空気とはことさら遠くなる海だ。儀堂大尉に会ったら伝えてくれ。悔いは残すなと」
「はい」
大井は一礼すると、長官室を後にした。
廊下の窓から港に停泊する艦艇群が見えた。そのうちの一隻、海防艦がちょうど舫いを解いて出港するところだった。哨戒任務だろう。昨年まで近海に潜む魔獣のせいでまともに漁業ができなくなっていたが、EFの徹底した掃討作戦により近頃ではめっきり被害が減っていた。つい数ヶ月前から築地では競りが復活している。
「はたして……」
彼は思った。果たして、あの大尉に残すものなどあるのだろうかと。
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