いずこかの闇の中──。
一人苦しみ呻く者がいた──。
「むうう……、うぐ……」
その名を死怨院乱道。
見事、蘆屋真名によってその秘術を封じられてしまった彼は、その呪を解くために自らを蝕む呪法の痛みに耐えていた。
「もうすぐ……もうすぐだ……。
少なくとも、あの少年を迎え撃つまでには、秘術を回復しておかねばならん」
真名が、その命を触媒に使用した呪はあまりに強大であり、千年近く生きてきた乱道でさえそれを解くのに数か月を要するだろう。
それをたった二週間で解こうというのだ、肉体的、精神的に返ってくる反動は並大抵のものではない。
「くふふ……、やっと……やっと、求めるモノが手に入るのだ……。
何をもってしても俺は……」
死ぬよりもつらい痛みに耐えながら、それでも乱道は笑う。
その理由こそ、あの二人の存在。
蘆屋真名──。
そして、矢凪潤。
死怨院乱道──。
彼は、生前、術者を志した当時は、特にこのような邪悪極まりない性格はしていなかった。
なにより、その呪法で何人もの人を救ってきた陰陽師であった。
それがなぜ今のような性格に至ったのか?
その理由こそ──。
「ああ……わが悲願──。
呪法とココロ──。
そしてカミとのつながり──」
その研究は、初め呪法の類を極めるものが、知的生命に限られることに疑問を抱いたことに発する。
高い知性を持たない魔なる者の中にも強大な異能を持つ者はいるが、それはあくまで腕を持つがゆえに腕を振るえる、程度の意味でしかない。
腕を持たないものが、腕を生み出す技術を生み出し、腕を扱えるようになる──。それこそが呪法──。
そうするのには、どうしてもある程度の知性を必要とした。
そんなこと当たり前ではないか?
たいていの者はそう言うが、乱道は疑問に思ってその疑問を捨てることはなかった。
そして、そのうちに一つの仮説をその心に抱く。
「通常生命と知的生命を隔てる壁──。
それは、強い自我──」
いわゆる動物などの通常生命は、知的生命に比べ『怨霊』となる可能性が低い。
その理由こそ、知的生命が持つ強すぎる自我(エゴ)にあると、呪術の世界では考えられている。
そしてその通り、人間の自我(エゴ)は、多くの強い感情の原因となり、その感情の爆発が『怨念』──そして『怨霊』の生まれる根源となっている。
それは、時に通常生命すらも『怨念』に引きずり込むのだ。
乱道は、人の心の研究を進めた。
そして、その人としての生涯でですら解明できない命題に取り組むために、自らの寿命を無限に延ばすことを考えた。
それは、のちに多くの悲劇を生み、そして死怨院呪殺道の秘術へとつながっていく。
死怨院呪殺道──。
その秘術が生まれた理由は、ヒトの感情をその手に掌握し、支配することにある。
秘術で、ヒトの憎悪が利用されるのは、その感情がヒトを操るのに最も適していたからに他ならない。
かの舌童は、乱道に対し『愛は時に憎悪すら超える』と言って、愛を語り乱道に破門される結果となった。
その言葉を聞いたとき、乱道は愛など憎悪の前では、一息で吹き消される程度の弱いものだと思った。
そして、事実、過去の研究ではそれを明確に証明していた。
その言葉を放ったかの舌童自身が、結局、外道に堕ちていたのがその証拠ともいえる。
そして、かの蘆屋真名ですら、その事実を証明した。愛情が真名の戦術を狂わせ、彼女の敗北へと導いたのだ。
「ああ……この段階にきて俺は……」
二つの有力な実験体を手に入れられる状況になった。
もしかして──。
「やっと俺は至れるのか──。
呪法──。
ココロ──。
カミ──」
その三つの間に、乱道は一つながりを感じていた。
かの世界魔法結社(アカデミー)で聞いた『汎魔法論』──。そんなことは、乱道はとうに気づいていた。いや、だからこそ、三つのつながりに気づけたともいえる。
結局、魔法や呪法は、知的生命がココロにい抱く空想──、それを現実世界に浸透させ、自由に自然をコントロールする技術ではないのか?
ならば、その呪法を司るカミもまた、空想が生み出したもの──、ヒトのココロより出でたものではないのか?
それを証明したい──。
乱道の研究はそこに集約されているといっても過言ではない。
乱道の術が、憎悪を根源としているのは、実験の際に扱いやすいココロの動きである──。結局その一点しか理由はない。
乱道が『乱』を呼ぶのも、まさしく実験のために、ヒトのココロを憎悪に染めるため。
そのほうが、手っ取り早く実験を行えるからでしかない。
そして、現在、乱道はその研究の分岐点にいる。
「蘆屋真名……、
欠落症を患いながらも生き続けて、心と魂を鍛えあげたもの」
それは、まさしくカミを降ろし、カミを封じ、カミを研究し尽くす容器に最もふさわしい『降神の器』。
「矢凪潤……、
『使鬼の目』……『小角の目』を覚醒させた異能者」
それは、ココロを直接つなげ、その謎を解明するために必要な特殊能力を持つ『呪物』。
「ああ……、
とうとう俺は……至れるのか?
いや……至って見せよう──」
闇の中、乱道は痛みに耐えながら呟く。
そして、その純粋すぎてあまりに邪悪な望みは、のちに一つの結論を彼に与えることとなる。
◆◇◆
「……」
その時、矢凪潤は森部山天狗衆の総本山にいた。無論、最後の八天錬道をこなす為である。
しかし……、
「……どうした?! 潤!!
心が乱れておるぞ!!」
天翔尼の叱咤が潤に向かって飛ぶ。潤はその最後の修練に集中できていない。
「く……」
つい潤は呻いて顔をゆがませる。真名の顔が心に浮かんで離れない。
「潤! そのような状態では、最後の試練……、我が威霊をその身に受け取ることはできんぞ?!」
今、潤は森部山の山頂から地下に潜った、地底湖の中央、石畳の祭壇に座して精神統一をしている。
そこで、身を清め、心を静め、大天狗の威霊のかけらを魂に取り込んで、魂を神霊の域までに高めることが今回の修練である。
そうすることで、その魂は人でありながら、一時的に神霊の魂と同一の存在に塗り替えることが可能となる。
『天羅荒神』──。
かの蘆屋道満が、神霊を多数従える安倍晴明に対抗すべく、自らを超神霊化する術として編み出した、蘆屋一族の秘術中の秘術。
先に真名が使用した『天魔合身』と双璧をなす蘆屋の大奥義である。
実のところ、両者には力の優劣は存在しない。
ただ、真名の場合『天魔合身』との相性がよく、『天羅荒神』との相性がそれほどよくないため、真名にとっての切り札が『天魔合身』となっていただけである。
矢凪潤にとって、両術との相性は真名とは真逆である。
潤が『天羅荒神』を身に着ければ、少なくともかの蘆屋真名の本気状態クラスの力は、発揮できることは期待できる。
ならば、かの死怨院乱道に対抗することも可能になるだろう。
……しかし、
(……くそ……くそ、なんで、真名さん……)
潤はどうしても修練に集中できない。
奴は……、乱道は約束した。契約だと言った。真名には手を出さないと。
(真名さん)
でも、真名が敵の手に落ちていると考えただけで、心は波のように乱れた。
自分でもここまで、真名のことを想っていたとは気づいてはいなかった。
「潤……」
天翔尼がため息交じりに呟く。
「もうやめるか?
そうすれば、かの狗神が貴様の記憶を消してくれるぞ?
……真名様のことは、我々に任せればよい」
「……それは」
潤はどうしてもそれは嫌だった。真名のことを忘れてしまうなんて、自分の命か失われるよりも嫌だった。
「だったら集中しろ。
真名様の父上、蘆屋道禅様にも約束したのであろう?」
……そう、真名が乱道に連れ去られたのは、すでに蘆屋道禅の知るところとなっていた。
現在、情報統制によって、八天と道禅以外には知る者はいないが……。みなに知れるのも時間の問題であろう。
真名が攫われたことを知った蘆屋道禅は、真名の事を諦めるよう潤に言った。
真名の父としては非情な判断だが、潤をはじめとする蘆屋一族を統括するものとして、真名……自分の娘可愛さに潤を乱道に売り渡すようなマネはできなかったのだ。
だが、潤はその道禅に宣言した。
自分は負けるつもりはない。
必ず真名と共に道摩府に帰還すると。
蘆屋道禅はその真剣なまなざしに、一つの賭けをすることにした。
そして、真名不在でも、八天錬道の最後を受けられるよう手配したのである。
そして、今潤は、その修練の場にいる。
この場に来てすでに一週間、あと一週間で期限である。
その間に修練をこなさねば、自分には乱道に勝てるすべはない。
(真名さん)
潤はそれでも真名を想って心を乱す。そんな彼の心にナイフを突き刺すものがいた。
潤の八天錬道を常に見守ってきた奈尾である。
「もう諦めたほうがいいんじゃないっすか?
もう十分でしょう?」
奈尾は無表情でいう。
「道禅様なら、真名様のこともいいようにしてくれるっすよ?
あんたが、真名様のこと背負う必要なんてないっすよ?」
「それは……」
奈尾の言葉に、苦し気に潤はつぶやく。
「そもそも、真名様のことはあんたには関係ないことっす。
真名様が負けたのは、真名様の問題であって。
なんであんたが、わざわざ敵の術中にはまりに行く必要があるっすか?」
それはその通りである。
でも……
「僕は……真名さんを……」
「守りたい? 救い出したい?
それこそ、真名様にとっては余計なお世話でしょう?」
それは違う……、とは言えなかった。
真名が自分を想い、そして自分も真名を想っている。……それは、まだ誰にも語ってはいない。
「大丈夫っすよ。あんたの記憶はきれいに消すっすから。
余計な心配をしなくても済むっす」
奈尾は笑って言う。潤にとっては笑えない話だが。
「僕は……」
絶対に真名とのことを忘れたくはなかった。
これまでの修行……そして、真名との想い出。
つらく苦しいこともあった、でもかけがえのないもの。
「僕は……真名さんを助け出します」
ただ、そのことだけを決意として言葉に出した。
すると、今度は、さっきと違って奈尾は目を怒らせて言った。
「だったら!!
気をしっかり持つっすよ!!
今まであんたを……
あんたと真名様を見てきたからわかるっす!!
きっと!! あんたなら真名様を救い出せるって!!」
その叫びに潤ははっと顔をあげる。奈尾は珍しくも涙を見せていた。
「馬鹿っすよねおいら……。
試練に立ち向かう者に余計な感情を寄せてはならぬ……
それが試練を見守る狗神に対する掟っす。
だから、あえて突き放すような、関係ない人間を装っていったっす。
でも……、あんたと真名様はとても良かったっす。
おいらにとって、その旅路を見届けるのが楽しみになっていたっす。
だから、こんなところで終わってもらっちゃ困るっす。
ねえ? 潤……、あんた真名様が好きでしょ?
だったら!! 根性を見せるっすよ!!」
「奈尾さん……」
それは、潤の心に強く響く言葉であった。
(そうだ……、僕が助けないで、誰が真名さんを助けるというのか?)
そう心に刻みつけ気を持ち直す。
(僕は……真名さんを助ける。
そして、僕自身も犠牲にはならない。
だってそうだよね? 母さん……。
真名さんが僕を想ってくれるように、僕も真名さんを想い……
そして、僕が真名さんを想うように、真名さんも僕を想っている……)
心を強く持て!
そして、自身の持つ絆の力を信じろ!
かつて自分の母が言った言葉を心の中で反芻しながら意識を集中する。
「おお?!」
それを見た天翔尼が声をあげる。潤の心の乱れが抑えられ始めていた。
「これならいけるかもしれん!」
何か眩しいものを見るような目で天翔尼は潤を見つめる。
そして、奈尾もまた……、
「これで……、おいらの使命は終わりっす。
きっと大団円になるって、おいらは信じてるっす」
……この時の奈尾の言葉は、数日後に現実のものとなるのであった。
◆◇◆
西暦2022年8月上旬──。
潤は今、東京の某所にあるかつての乱月の拠点にいた。
乱道によって指定され、それに従いやってきたのである。
潤は慎重に廃屋に足を踏み入れ進んでいく。半ば壊れた階段を下りていくと、頭を押さえられるような感覚を得た。
(……異界)
そう、その階段を下りた先は、呪より構築された異界であった。
遥か天井も、壁すら見えない巨大な空間がそこにはあった。
「約束通り来たぞ! 乱道!!」
そう、空間に向かって叫ぶ潤。降りてきた階段が霞のように消えた。
『よかろう……。
そのまま進んで来い……』
どこからか声だけが聞こえてくる。潤はためらうことなく足を進めた。
おそらく罠は張られているだろう……そんなことはわかっている。
それでも……、いやならばソレを踏み砕くだけだ。
今の潤にとっては、罠などどうでもいいことだった。
【潤……】
心配げに蜘蛛の姿の美奈津がつぶやく。
【お兄ちゃん】
決意を込めた言葉でかりんがつぶやく。
【主】
……そして、すべてを悟ったような呟きが、傍らの白い柴犬から発せられた。
<そして……潤の……乱道との最終決戦が始まる>
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