〈天崩壊〉
鳥とそれによく似た〈眷族〉と、羽毛のごとき軽いもの以外は一瞬しか宙に浮くことを許されないという理屈の一切わからない新しい物理法則が、この世の中を支配するようになって一年ほどが経った。
おれが―――に限った話じゃないが―――アメリカ大陸で目にするものは、かつてとは完全に一変してしまっている。
昨日、テキサス州の小さな町で出くわした〈恐鳥〉なんかがその最たるものなのだが、以前ならば怪獣映画のCGでしかお目にかかれなかったような代物があたりまえのように荒野を跋扈しているのだ。
せめて地上を好き放題歩き回るだけならばともかく、見た目通りに「鳥」なので、青くて広い大空まであいつらが支配するものだから、もう人間は肩身が狭すぎて仕方ない。
国から国、州から州どころか、町から町へ移動するのさえ少なくないリスクが生じるようになってしまっているのだから。
ここまで不自由になって、ようやくアメリカ人が権利と自由の本当のありがたみを理解できるようになったらしいのは笑えるところだ。
確かに、鳥相手に人権を訴えても通用しないわな。
この一年間で、人類は話のまったく通じない化け物鳥を恐れつつ日々の生活を送りながら、「物が浮かばない」という新しすぎるルールに慣れていかなければならなかった。
特に、これまでは自在だった身体の動かし方にも著しい支障をきたすようになっていて、おそらくいまだに馴れていないものが多いはずだ。
おれでさえ、走り出しのときのわずかに身体が浮いた瞬間、身体ががくりと下に落ちてズッコケるように躓くということがまだある。
産まれてから十八年も馴染みきった法則から、今更修正するというのははっきりいって大変なことであった。
プロのアスリートのように飛んだり跳ねたりが多い人間にとっては、さぞ面倒なことだろう。
「親父さんの消息、わからなかったな。あの町に隠れている可能性は頭にいれてたんだろ?」
おれは運転中のヴァネッサ・レヴェッカ・クレインことネルに話を振ってみた。
アメリカ南部の景色を眺めながら単調な運転をするのに、飽きてきたところだった。
昨日の夜野営した荒野とは一転して、ハイウェイはいかにもテキサスらしい砂漠と岩だけの光景から、テキサス・ヒル・カントリーの森林地帯に入っていた。
おれが知っているテキサスとは180度違う、緑にあふれた光景なので、車でドライブしているとちょうどいい温度と湿度から愉快になってくる。
ただし、人は住んでいないので対向車はないし、建物も見かけないので当然店なんかは皆無だ。
昨日の町で水を手に入れておいて正解ではあっただろう。
ネルが調べたいことがあるというので、朝からの運転はおれがやることになっていた。
無免許のおれだが、ハイウェイパトロールの検問もないし、別に問題はないだろう。
道連れほどのドライブテクニックはないが、単調な運転を続けるだけの根気は持っているしな。
ただ、そろそろ眠くなってきていたこともあり、同乗者がいるのだから暇つぶしに会話をするのもいいのではないだろうか。
ちょっと前まではずっと一人で旅をしていたこともあり、独り言と食事以外で口を使えるのは嬉しい限りである。
「パパァのクレジットカードが使われたってだけで、あまり期待はしていなかったから。それにもう一年も前のことだから、あそこにいるとはそもそも思ってなかったわ」
「それでも、少しでも手がかりはあったに越したことはないだろう。他に追跡情報もないようだし」
「まあ、そうね。一年前にあそこにパパァが立ち寄ったということの確認がとれただけでも収穫といえば収穫かしら」
ネルは手元にある複数のタブレットを操作し、かつ音声認識システムに指示をだしながら、〈眷族〉対策のレーダーと睨めっこしつつ運転を続けている。
信号も対向車もないアメリカの長いだけのハイウェイ上では、これだけやっても事故の危険はない。
むしろ、自動運転装置がついていないのが不思議なほどに金がかかっている車なのだ。
防弾ガラスとかタフな足回りの強化とか、十億円ぐらいかけたと聞いている。
アメリカ大統領の専用車“ビースト”の改修費が十五億というから、それに近い性能はあるということだろう。
彼女が探している口ひげの男が実の父親だということは聞いていたが、その父親がこの車の改修費を稼ぎ出した実業家である。
「ところでさっきから何を調べているんだ。朝からずっとだろ」
「―――このあたりの〈眷族〉の動向。目撃情報から噂話までなんでも。オウマタイム以外で長時間移動するのだから用心はしておくべき。昨日の〈恐鳥〉の話はヒットしなかったわね」
「〈恐鳥〉はもうだいぶポピュラーな存在になってきているな。北部では数も増えているらしいし。そういう意味での危険は避けたほうがいいか」
「逆。一番近くで〈眷族〉が暴れてないかを探しているの」
「なんでだ?」
おれの問いかけに返事はなかった。
答える気がないというより、応える気がなくなったというところだろう。
出会った時からそうだが、どうにも秘密主義できまぐれだ。
聞けば色々と教えてはくれるのだが、肝心なところでは沈黙を貫く。
そもそも親父さんを探している理由も「パパを殺すため」という物騒なものなので、相当面倒くさい拗らせ方をしているのは間違いない女ではある。
「そういえば、どうして親父さんを殺しにいくんだ」
返事はない。
もう少し東の方で拾われたときから、そのことについては何も語ろうとはしない。
ただ、この物騒な旅の目的が「父親を殺すため」であるということしか教えられていなかった。
そんな旅に酔狂にもつきあっているおれの方がちょっとおかしいとしか言いようがないのかもしれない。
「セーギ、いったん止めて」
「おう」
おれはシボレー・サバーバンのブレーキを踏んだ。
ほとんど音もなくスムーズに停車する。
さすがはアメリカ大統領の専用車キャデラック・ワン“ビースト”の兄弟として試作された高級車だ。
見かけは死ぬほどゴツいが乗り心地はすこぶるいい。
チタンやセラミック、複合鋼材でできた厚さ5インチの装甲と、グッドイヤー製のランフラットタイヤが採用されており、銃弾を受けてパンクをしたとしても、100㎞以上の距離を走ることが可能という化け物でもある。
「あれか?」
ネルが車を止めるように指示したのは、道の端に止まっている一台のステーション・ワゴンのせいだろう。
同じシボレー製だ。
路肩に寄せたというよりも、道から外れて停車したという感じだった。
エンジンのあたりから黒煙がかすかにあがっている。
「運転中に“禽”にでも襲われたのかな?」
「誰も乗っていないわ」
双眼鏡でなく手元にあったライフル用のスコープで観察するところが、いかにも全米スナイピング競技の金メダリストっぽいな。
周囲を見渡してみた。
やや枯れ気味だが、鬱蒼と茂った森を突っ切るように通った道路のどこにも人影はない。
森の奥はかなり深く、富士の樹海を思わす不気味さだ。
探せばバカンス用のコテージなんかはあるはずだが、さすがの能天気なアメリカ人もここらで生活する気はないだろう。
そういえば、おかしなことに空を見渡しても“禽”も鳥も飛んでいない。
これだけ自然にあふれた場所だし、人間が来ないとなったらだいたい鳥の楽園と化しているのが常なのに……
それに、あのステーション・ワゴンが〈眷族〉などに襲われて停車したのだとしたら、鳥が上空を群れて死体を漁っているはずだ。
そうなると、ただの事故か……
「ちぃと見てくるわ。あんたは上を警戒していてくれ」
「汝もね」
また、聞いたこともない古い言い回しをする。
属性マシマシというか、なんでも足せばいいってもんじゃないぜ。
おれはサバーバンから空を警戒しつつ降りて、やや早歩き気味にステーション・ワゴンへと向かった。
左手は空けておいて、右手にはいつもの通りS&W M66 2.5インチだ。
最初、オートマチックも考えたのだが、やはり、〈羽毛の世界〉で銃を武器として使用するのならば敵に銃口を密着させての接射しかないし、その際にあまり銃口をぴたりとくっつけるとオートマチックではハンマーがコックされて撃てなくなってしまう。
その点を考慮すると、やはりおれの蛮用に耐えうる単純で頑丈なリボルバーがファーストチョイスになる。
まあ、全部、銃器の専門家のネルの受け売りなんだけどな。
ネルは狙撃の腕と銃器の知識だけでなく、手入れや修繕についても博士みたいに詳しく日本で観た映画の知識しかないおれなどとはくらべものにならない。
運転席のミラーにぎりぎり映らない程度の死角を選んで、地擦りの早歩きでやや迂回気味にステーション・ワゴンに近づく。
映画やフィクションとは違い、白昼の荒野で襲われていたからと言って必ずしも善人であるとは限らないからだ。
ここ一年ばかりの経験でそんな当たり前のことを、おれは反吐が出るほど経験していた。
後部の荷物スペースが開いていた。
乱暴に開け放たれた旅行カバンが一つある。
ちらちらと服らしき布が飛び出していた。
ヘッドセットがネルの声を垂れ流す。
『―――セーギ、車の近くに動くものはないわ』
「はいよ」
そっと窓からのぞき込む。
男が一人、運転席に沈み込むように突っ伏していた。
そりゃあ、動くものはいないだろうさ。
運転席にはおびただしい量の血だまりができていた。
左半身に幾つもの創傷があり、おそらく鋭い刃のついた長いものでザクザクと抉られて殺されたのだ。
こんなアメリカの片田舎だと得物はガーデンフォークか何かだろう。
なんらかの手段をもって車を停止させ、窓を開けさせたところで鋭い農機具で運転手を襲う。
酷い殺し方だ。
助手席の足元には見慣れた拳銃―――ブローニング・ハイパワーだ。元軍人かな―――が落ちていたが、安全装置も外れていなかった。
おれにはこの男の死についてどんな責任もなかったが、それでもまだ生きているうちにたどり着いていれば遺言の一つでも聞いてやれたのに。
運転席から離れて、ステーション・ワゴンのフロント部を見ると、前輪に有刺鉄線らしきものが巻き付いているのがわかった。
こんなものが絡んだらパンクは必至だ。
有刺鉄線を発明したのはアメリカ人だというし、西部の開拓史にはつきもののアイテムとはいえ、こんな物騒な使われ方は願い下げだな。
ステーション・ワゴンの運転手を殺した奴らは、これをハイウェイに敷いておいて獲物がかかるのを待ち、かかったら近づいて行ってフォークで刺したのだ。
運転手はハイパワーを使わなかった。いや、使えなかったのか。
銃声が響けばすぐにでもやってくるヤバい化け物鳥が傍にいるのに気が付いていたからとか……
「ネル。ありふれた強盗の仕業のようだ。近くに人殺しがいる」
『旅行カバンらしいものが見えるんだけど、荷物を漁ってみてくれない。気になるの』
「わかった」
おれは開放された荷物スペースの中を見た。
ネルのいうカバンがある。
一目見ただけで脳みその奥の、手ではふれられない部分に熱いものが沸き上がり、激しい痛みを発した気がした。
カバンからはみ出ていた黄色い布きれを手に取る。
子供の靴下だった。
記憶にあるキャラクターがプリントされている。
開けてみると、小さなクマの可愛いぬいぐるみが鎮座していた。
「おい、誰かいるか! いるなら返事をしろ! 生きているなら声を上げてくれ!」
危険を承知で叫んでみたが、当然のように返事はない。
ステーション・ワゴンの側面に写真が貼ってあった。体格のいい元軍人風の父親と、陽に焼けて変色したブロンドの母親、そして十歳ぐらいの青い目をした女の子が写っている。
こういってはなんだが、アメリカ人の理想の幸せな家族そのものといった写真だ。
だが、父親は運転席で真っ赤になってしまっていて、ここに残りの二人の姿は見当たらない。
ステーション・ワゴンを降りて、一周してみたが、運転席以外に血の跡らしきものはなかった。
おれは何が起こったのかをほぼ正確に把握した。
「―――近くに動くものはいないか」
『戻ってきて。知りたいことを教えてもらいたいなら』
なるほど。
おれが危険を承知で汗をかいている間、ネルはネルで情報を収集していてくれていたのか。
何が起こったのか見透かしていた訳ではないだろうが、そのあたりセレブのお嬢様育ちのわりには抜け目がない。
写真をはぎ取って丁寧にポケットに収め、大急ぎでサバーバンに帰り、助手席に乗り込む。
大統領警護のために質実剛健に作られた兄弟車同様、飾り気のない運転席のはずが、いくつものタブレットや液晶画面でわけのわからない状態になっていた。
その真ん中でタッチペンを使ってなにやら調べていたネルがこちらに視線を向けずに言った。
「ここはブラウンマホガニーの森というらしいわ。国立公園にするほど広くはないけど」
「地図は出したんだろう。見せてくれ。急いでるんだ」
「見せてもいいけど、どこを調べるか決めてあるの?」
「だいたいでいい。人のいそうなところだ。衛星写真とかあるだろう」
「そんなの、〈天崩壊〉前のものよ。都会ならともかく、郊外のものは使い物にならないのは、あなたも知っているでしょう。軍のものをクラックして持ち出すことならできるけれど、今はまだ警察も軍も敵にしたくはないの。〈パック〉に頼めば足はつかないけど」
「なんでもいい」
ネルが手渡してきたタブレットの画面には、この地域の衛星写真が写っていた。
このハイウェイとブラウンマホガニーの森の位置が正確にわかる。
ざっと見たところ、怪しいところは一つしかなかった。
「森の中心にやたらと拓けた場所とでかい建物があるな。そこだな」
おれは目的地を指でタップした。
なんだかやたらと時代がかった建物の画像が出る。
「なんだ、これは? サクラダファミリアみたいだ」
「プロテスタントの教会ね。こんなテキサスのド田舎に建てられたものにしては凝った作りね。でも、十年以上前のリーマンショックのときに運営の宗教団体が破産して、信徒もろとも散り散りになって今は無人みたい」
自分たちの位置と地図をリンクさせてみて、この建物のある方角を睨み付けた。
「女の子とお母さんを攫っていった連中がいるというのなら、この教会が怪しいわね」
そう、ステーション・ワゴンに乗っていた母親と娘が何者かによって拉致されたというのならば、彼らを助けられるのはおれたちしかいないのだ。
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