「―――〈パック〉、聞こえている?」
ネルはタブレットの画面を見つめながら、ヘッドセットのマイクで呼びかけた。
おれに聞かせるためにリンクしているタブレットを通じて人の声がする。
『はいはい、お嬢さま、よーく聞こえておりますよ。この〈パック〉がお嬢さまの一挙手一投足から目を離すことなんてぜったいにありません』
「スナック菓子とコーラをキッチンまでとりにいくときは私のことなんて忘れているくせに忠義面しないで」
『お菓子はわたくしめのガスですからしかたがありませんわねえ』
人の声といったのは、明らかにキーが操作されている機械音声だからだ。
今どき動画通信がスマートフォンでもできる時代に、こんな耳障りな機械音声の加工をするなんていったいどんな奴なのだ?
タブレットの画面には「サウンドオンリー」とわざとらしい表示がされていた。
身バレしないようにという意図ではなさそうだ。
たぶん、そういう趣味なのだろう。
ネルは実物を知っているはずだが、わざわざ聞く気にもならない。
これまでに何度か耳にした会話だけで想像をたくましくすると、どう考えても脂肪の塊の歩くのもおっくうそうな中年女しか思いつかない。
「またブクブクと肥えているのでしょう」
『お嬢さま、レディにでぶなんていってはいけませんよ。深甚な恨みをかうことになりますからね。ところで、どうなされたんですか? 残念ですが、五分以内に避妊具を届けに行けるほど近くにはいませんからね』
「うるさい。黙って。―――モニターしているのならわかるでしょ」
『当然ですわね』
シボレー・サバーバンに備え付けてあるディスプレイの方に衛星写真が写った。
ネルが検索していたものと同じだ。
ただ、解析率はずっといい。
おれたちの通っていたハイウェイと森の全景が写っていた。
そのうちの一点が拡大される。
森の中央部分に開けた場所があり、そこにかなり大きい建物がある。
『このあたりでは唯一といっていい教会ですわねえ。もともと福音派だったのですが、ここ数年で急速に信仰の先鋭化が進み、最近ではFBIからカルト認定されていたドド・デマリアの教えの城という教団のものですわ』
「リーマンショックでその団体が自然解散したまではわかっているけど、〈天崩壊〉後にどうなったかまでわかる?」
『まったくわかりませんねえ。以前は、毎日二十人ほどの信者が通い詰めていたそうですから、今でも二十人で乱交パーティーでもやってらっしゃるのではないですかねえ。うっふんあっはん大作戦ですわ』
「そういう下品なのはいいから。どんな噂でもいいから集めておいて」
『イエース、マイレディー』
サウンドオンリーが消えて、通話が終わった。
ネルと話していたのは、〈パック〉という女の協力者で、ニューヨークのオフィスから彼女を在宅サポートしているらしい。
会話内容だけだとわかりづらいが、かなり優秀なクラッカーだ。
この衛星写真はなんとアメリカの行政筋からかすめとってきているそうだ。
彼女にはこういう協力者が山のように存在する。
〈パック〉のおかげで昨日の雑貨店のセキュリティを簡単に破って中に入れたのであった。
「どう思う?」
ドド・デマリアの教えの城とかいう宗教団体―――どうみてもカルト宗教のHPを見て、森に建てられた教会らしきものを検討していたネルに聞かれた。
この教会は、いっけん確かにゴシック様式の古い様式のようだが、それは表面だけで、実際には築三十年もたっていない。
そもそも、ドド・デマリアの教えの城がテキサスのこのあたりにやってきたのがそもそも二十年前。
地元の住民もそれほどいない辺境地帯ということで、州知事あたりを抱き込んでしまえば意外と簡単に進出できるものなのだろう。
もっとも、何年かの時間と莫大な金をかけて、こんなところに信仰の地を作るなんて、おれの感覚ではまっとうな連中とは思えないな。
とはいえ、その城もまともに活動できたのはたったの数年。
リーマンショックでドド・デマリアの教えの城は解散し、一年前には〈天崩壊〉があったので、おそらくいかに熱心な信者がいたとしても安息日ごとに訪問してくるなんてことはできないだろう。
すでに教会自体は放棄されていると考えるべきだ。
「―――悪いことを考える連中が根城にするにはいいロケーションだ」
「いくわよ」
おれはサバーバンの運転席に乗り込んだ。
いたるところにつけられたレーダーを睨み付けながら、アクセルを踏む。
昼の間は常にこういったものとにらめっこをしていなければならない。
〈眷族〉どもはやはりというか、結局のところ鳥の親戚だから鳥目なため夜はほとんど活動しない。
フクロウのように夜に活動する種類もいることはいるが、ミネルヴァの語源となったように〈眷族〉の中ではかなり高い知性の持ち主で、無理になわばりに押し入らないかぎり襲われることは少なかった。
だから、この〈羽毛の世界〉で単に移動するだけならば夜を選ぶのが正しい。
もっとも、同じ夜といっても都市部と辺境では、移動の際にかなりの強運が必要になるということをおれは良く知っているので、夜間行動はよほどのことがないかぎり慎むようにオススメしている。
だが、今はとにかくステーション・ワゴンに乗っていた家族を優先しなければならない。
サバーバンはスピードを落として、じっくりと進む。
衛星写真ではわかりづらかった森の奥へと続く道を探すためだ。
「ビンゴ」
すぐに見つかった。
サバーバンどころかピックアップトラックでも行けそうな幅だが、道そのものは舗装されておらず、車の轍のあとが色濃く残っていた。
鬱蒼とした木の枝の下にトンネルのように伸びている。これだと衛星写真だとなかなかわからないだろう。
それほど多くはないが、日常的に使われているようである。
〈眷族〉が好みそうなこんな場所を住処にしている連中がいるというだけでわりと驚きだ。
しばらく進むと、少し上りになっていて突然丘のように開けた場所に出た。
写真で見たとおりに円形の広場になっている。
GPSをみると、教会のある土地のあたりだった。
だが、それらしい建物はなく、丘の中心に三角の屋根をした奇妙な小屋があるだけだった。
木々の間に三台ほどのトラックが隠されていた。
どれもボロボロで定期的なメンテナンスさえされている様子はない。
運転席には誰もいなかった。
おれたちはサバーバンを同様に木の陰に隠すと、手分けしてトラックを調べてみた。
鍵は刺さったままで、盗まれるという心配はしていないらしい。
つまり、確かに人はいるのだが、そいつらは誰かがここまでやってくるとは考えてもいないのだろう。
「あの小屋ね」
「消去法を使えばな」
「池のほとりにあった岩がいつのまにかなくなっていたら、池の奥で沈んでいると考えるのが妥当よ」
「シャーロック・ホームズかよ」
ネルはいつものスナイパーライフルMK13ではなく、カービン銃を選択していた。
アメリカ製品大好きな彼女らしく、ものはアメリカ軍が採用しているコルト社のM4だ。
ただ、ネルはM4C1カービンとかいう名前で呼んでいたので純正の品ではないのかもしれない。
M4はいろいろな国の銃器メーカーでクローンが生産されているのから、すべてを網羅できている人はそんなに多くはないだろう。
しかし、珍しい―――というか、完全に対集団用の装備だ。
M4カービンは主流であったアサルトライフルのM16よりも銃身が短いことで市街地や室内でも振り回しやすいことから、軍隊だけでなく警察でも採用されている。
あの小屋が戦場になるかもしれないということで、わざわざサバーバンの奥から取り出してきたようだ。
まあ、スナイパーライフルのMK13では接近戦はできないからな。
「あんな小屋にそんなに大勢詰めかけているとは思えないぜ」
木の陰から、広場全体を見渡す。
やや緩いスロープの丘になっていて、しかも遮蔽物がまったくないため、近づいただけで丸見えになるという難点がある。
小屋はやや細長く、入り口らしいものはあるが、壁に穴が開いているだけのようだ。扉らしいものはなかった。
「―――ああいう建物になにか覚えがあるんだが……」
おれはどうやれば誰にも気づかれずに丘の頂までたどり着けるか考えてみた。
もし見張りでもいようものならすぐに接近を悟られるだろう。
夜になれば別だが、まだお天道様が真上にも達していない時間帯では闇に紛れてとはいかない。
さて、どうするか。
広場に踏み出してみると地盤が軟らかいのか、湿っている木の葉の上を歩くような感触がした。
しかも妙に蒸し暑い。
季節が季節だからそんなに暑さは感じないはずなのに、むわっとした湿気と熱があるのだ。
森にいたときは感じなかった不快感に耐えきれずに、一度サバーバンまで戻ろうとしたとき、草むらに異様なものを見つけた。
膝をついて拾い上げる。
土で汚れていたが何なのかすぐにわかった。
人の耳だった。
切り口からして鋭利な刃物で切断されたのがわかる。
しかも、こびりついた血が乾ききっていない。
大きさからすると成人の女のものだろう。
この状況で推測できる持ち主は一人しかいない。
「―――母親のものか……」
ステーション・ワゴンから母子を攫った連中は、アジトに連れ込む前に人質に危害を加えたのだ。
おそらく無抵抗のものを残虐に。
それだけでかなり危険な連中だということの想像がつく。
M66のグリップを握る拳に必要以上の力がこもる。
次の瞬間、ビシッと空気が割れた。
左半身を半歩ずらしたあとを裂いていくものがあった。
そいつが何なのかを見定める前に、おれはいつもの滑るような歩法で木の陰に隠れる。
続けざまにさらに同じ音がする。
木漏れ日の中、おれを脅かす音を発したものは丈の長い雑草の繁みに潜んでいた。
鎖。
おそらくは分銅付き。
あらゆる飛び道具を許さないこの〈羽毛の世界〉において、手元を離れても新物理法則の影響を受けずに使用できる武器の代表格といえば鞭であり、鎖のような「遠心力で浮くもの」なのである。
しかも、この鎖の長さはおよそ七メートル。
常人なら振り回すのも難しい長さのものを自在に操れるというのならば、この世界ではとてつもない脅威だろう。
そして、おれの知る限り、〈眷族〉は道具を使わない。
つまりは―――
「ネル、下がれ。ライフルなしのあんたじゃ、危なすぎる」
茂みから長い鎖を振り回しながら現れたのは―――
両目の部分だけをくりぬいたコーヒー豆などをいれるズタ袋を被り、黒ずんだ染みばかりの薄汚れた作業服を着た男だった。
おれを睨む瞳は明らかに狂気の光を滲ませている。
誰が何と言おうと、正真正銘のまさに殺人鬼そのものがおれ目掛けて鎖を放ってきた。
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