アレクサンダー・〈ソニー〉・ビーンは、スコットランドに15世紀ごろ実在していたという人物である。
ビーンの家族については、ロンドンのニューゲート監獄の犯罪カタログ『The Newgate Calendar』に掲載されており、ジョン・ニコルソンの著書『ローランドの昔話』でも詳細が記述されている。
それ以外に、特に言及した書物がないのは、事件の残虐性を重く見たスコットランド王朝によって記録を抹消・封印したためと言われている。
事件は、スコットランド南西部で起きた。
イースト・ロージアンで生まれたビーンは、怠惰で粗暴な性格であったため、労働を嫌って家を飛び出し、一緒になった女とともにギャロウェイ付近にあるバナーン・ヘッドの海岸の洞窟に暮らすようになった。
洞窟の入口は、満潮時に海面下に隠れるので誰にも見つかることなかったが、二人は生き残るために通りすがりの旅人を襲うことで生きていた。
二人は、自分たちの犯行が表ざたならないように、旅人は必ず殺し、死体は洞窟に持ち帰り、これを食べるようにしていたという。
ビーンと妻は男8人、女6人の子をつくり、その子供達はさらに男18人、女14人を産むという近親相姦を行い、結果的に家族は50人を越える大所帯になった。
子供達はまともな教育を受けず、きちんと話すこともできなったが、旅人を襲うことに関しては優れた能力を持つ狩人であったという。
家族の犯行は世間に気づかれることなく、彼らに殺された旅人は1500人以上とも言われているほどである。
彼らの犯行は25年間に渡って続けられたが、ある時、一組の夫婦を襲って失敗したことで露見することになる。
事件を報告されたスコットランド国王ジェームズ1世は、400人の兵を派遣し、一族の住処である洞窟を猟犬を用いて見つけ出し、ビーンの一族を全員捕縛した。
洞窟内には、盗品に混じっておびただしい数の肉片や人骨が発見され、まるで地獄のような有様であったという。
ビーンの家族は裁判も行なわれずに、全員が極刑に処せられ、男は両腕両脚を斧で切断されて失血死するまで放置され、女はその様子を見せられた後に火炙りになった。
ただ、ビーンの一族のうち2人の子供たちの行方が知れなかったが、どこかで野垂れ死にしたのだろうと結論づけられて事件は終わったとされた。
◇◆◇
『―――そのビーンの子孫が新大陸に渡り繁殖したのが、〈ヒルズ・マン〉だという説があるんだよ』
〈教授〉はかなりの早口でそれだけを説明してくれた。
いつ、さっきの連中―――〈教授〉の説が正しければ〈ヒルズ・マン〉だ―――が追跡してこないとも限らない状況でのことなのでありがたかった。
「でも、〈教授〉。そのソニー・ビーンの子孫が〈ヒルズ・マン〉だというのなら、ただの人間のはず。あんな人間離れした怪力はどこからやってきたの?」
『怪力だけじゃないぞ。伝え聞くところによると、ソニー・ビーンの子供たちの四肢を切断して出血死させたのは、通常の処刑方法では殺しにくかったからだという話だ。絞首刑や槍突きではなかなか死なず、仕方なく血を抜いて殺すことにしたらしい。要するに、タフネスを超えた不死身の肉体の持ち主揃いだったというわけだ』
「怪力で不死身? 確かに面倒くさそう」
『それに人食いだ。古代から、共食いを行うおかしな血筋にはよくそういうことがある。人食いをすると、おそらく高い確率で悪魔が憑くのだろうともっぱらの評判だな』
ネルは〈教授〉のオカルト系ヨタ話を完全に信じているらしかった。
かつてのおれだったら眉唾物としてネタ以上とは考えずに聞き流していたかもしれないが、世界が変貌を遂げた今だったら十分に信じられる。
ただ、それよりももっとおれにとっては重大なことがあった。
「〈教授〉、その連中が人を食うというのは本当に真実なのか? 単なる噂話にすぎないとかいうことはないのでしょうか」
『紛うことなき事実さ。そもそもわれらが合衆国の広大な森林地帯には、ネイティブの時代からおかしな怪物が住み着いているのは常識だったが、〈ヒルズ・マン〉はその中でも本当に実在が確認されている本物だ。FBIの極秘資料にも〈殺人現象〉と呼べるほどではないにしても、通常の殺人鬼の範疇には収まらない脅威として記されている。年間の行方不明者何万人のうち、どれだけがやつらの胃袋を満たしているのか想像もできないね』
「そんな奴らにとって、今はまさに黄金時代かもしれないわね」
「―――そんなことはどうでもいい」
おれは二人の会話を遮った。
本当にどうでもよかったからだ。
もう話をする必要はない。
これ以上、無駄な時間を費やしたくない。
「……あのステーション・ワゴンの母娘がそいつらのところに拉致されたというのなら、すぐにでも助けに行かなきゃならねえ」
『やめた方がいいな、日本のお若い武芸者』
あまり時間がないのはわかっている。
写真に撮られていた日に焼けたブロンドの母親は耳をむしり取られていたのだ。
おそらく抵抗したからだろう。
娘への見せしめか、大人しくさせるためか、理由は両方かもしれない。
母親を痛い目に合わせれば小さな子供なんてあっという間に黙る。
素直で優しい子ならすぐだ。
「血気盛んね」
「あんただってやる気はあるんだろ?」
「わたし、〈眷族〉相手の人助けは無条件にやるけれど、土着の殺人鬼退治は基本的に範疇に含まれないのだけれど」
「―――サバーバンで黙って留守番してくれれてもいいんだぜ」
ネルは両肩を竦めて、
「わたしをカレン扱いしないでもらえる? 行くに決まっているでしょ。……気になることもあるしね」
カレンというのは隠語の一つで「他人に横柄な態度をとったり、大声で街中で怒鳴り散らす白人のおばさん」のことをいう。
日本では死語になった、オバタリアンとかそういう類いのものだ。
それと一緒にするなという訴えは、もっともなことかもしれない。
「奴ら、ヤバいぐらいの怪力の持ち主だぞ」
「奇遇ね。わたしも強いのよ」
重さ5キロはあるM4カービンをバトンのように自在に振り回すネル。
ああ、そういえばそうだった。
この女も並みではないんだ。
加えて、彼女は左手首の腕時計型のブレスレットを指さした。
自信たっぷりで不敵な顔だ。
この辺は「カレン」の素質がありそうだけどな。
「わかった。とりあえず、懐には潜らせるなよ。さっきの鎖ぶん回し男のことを考えると、奴らとの接近戦は避けたほうがいい」
「この〈羽毛の世界〉で?」
「なるべく、だ」
おれたちはもう一度森の奥へと戻ることにした。
ただし、藪の中には入らない。
どんな罠が仕掛けられているかわからないからだ。
この森が〈ヒルズ・マン〉の棲み処だというのならば、きっと罠の一つや二つぐらいは仕掛けてあるだろう。
用心しつつ、しかし、できる限り素早くおれたちはさっきの拓けた場所へと進む。
途中で、壊れたのか、それともガソリンがなくなって乗り捨てられたらしい、ボロボロの廃車ばかりが集められている場所を見掛けた。
10台以上はあった。
あれが全部犠牲者のものだとすれば、いったいどれだけの人間がやつらの餌食になったことだろう。
まったく胸糞悪い。
「そこの木の間にワイヤーが張ってあるわ」
反射的に止めた足首のあたりに、ワイヤーが引っかかるようにピンと張られていた。
全力疾走中にこんなものにかかったら、足首が切れてしまったとしても不思議じゃない。
前時代的な罠だが、効果的なうえに残虐そのものので仕掛けた奴の狂った精神が手に取るようにわかる。
「木の表面が削ってあるから、それが目印みたい。気をつけなさい」
「了解だ」
しばらくして、ようやくスタート地点にまで戻ってこれた。
太陽がおれたちの頭上でわが物顔で輝いている。
ざっと見た限り、サバーバンの黒い車体には泥と靴の跡が無数についていた。
鍵穴にも金属のこすれた疵がついている。
間違いなく誰かが―――おそらく〈ヒルズ・マン〉だろうが―――車に手を出したのだ。
大統領警護の車と同種の防弾装甲がされているこのサバーバンは、いかに怪力と言えども人間レベルの力ではへこませる程度で精いっぱいだったようだ。
防弾ガラスも割られてはいない。
「なるほど。いつまでたっても追ってこなかったのはこういうことね」
「あいつらからすると、獲物の足を奪っておくのが優先ってことか。ぶっ壊されなくて良かったじゃないか」
「でも、わたしの愛車を壊そうとしたことは許さない。GEのレキサン製の防弾ガラスでも疵はつくのよ」
しゃがんで前輪をみると、例の有刺鉄線が嵌めてあり、車を出そうとしたらすぐにパンクする仕掛けになっている。
見た目や予想より、はるかに狡賢いということだろうな。
しかし、わざわざこういう仕掛けをするということは……
「Gotohelldumbass!」
樹上から木の葉が降ってきた。
この世界らしくヒラヒラではなくてストンという落ち方だが、違和感を覚えるには十分な量があった。
まるで意図的に落とされたかのように。
そして、同時に「死ねえ、くそったれ」という罵倒が聞こえてくる。
頭上から。
おれよりも先に反応したのはネルだ。
M4カービンを捧げ銃のようにして持っていた彼女は、銃口を上に向けたまま視線を向けることもなくぶっぱなした。
弾が飛んでいくかどうか、目標に当たるかどうかは関係ない。
反射的といっていい防衛行動だった。
連続するフルオートの銃声は奇襲を仕掛けてきた相手を怯ませる効果がある。
完全にこっちの不意を突いたと確信していた敵に対しても。
農業用のフォークを抱えて木の上で潜んでいた〈ヒルズ・マン〉は、迸るマズルフラッシュに動揺したのか、目標を大きく外してしまう。
おれたちが車で逃げ出そうとする瞬間を狙って、頭上からの奇襲を仕掛けるという罠だったのだ。
ネルがおれよりも早く〈ヒルズ・マン〉に反応できたのは、おそらく彼女のボディスーツについている動体センサーか赤外線感知装置のおかげだろう。
彼女を中心として半径数メートル圏内で動くものを補足し、ヘッドセットに異常を知らせる仕掛けだ。
〈眷族〉の危険に支配されたこの大陸を旅するためにはなくてはならないわけではないが、間違いなくあった方がいい用心である。
その仕掛けが頭上に潜んでいた〈ヒルズ・マン〉を発見したのだろう。
おれたちは上からの奇襲に関してはかなり慣れている。
〈眷族〉相手に慣れていると、「俺なら、空から攻めるね」は当たり前すぎて、即応できるのが当然のことなのだ。
ネルは背中から倒れこんでM4カービンをさらに連射する。
接射でない以上、ただ銃声がして、銃口から飛ぶことを許されなかった弾丸がダラダラと落ちていくだけだが、それでも〈ヒルズ・マン〉を牽制するには十分だ。
〈羽毛の世界〉での落下は質量に左右されず、速度も同じになるので運動神経のいいものならかつてと変わらない。
フォークをもった〈ヒルズ・マン〉はネルをまたぐように着地したが、銃口をビビりながら避けていた。
前世界の常識が残っているからか、目の前でカービン銃を連射されたら怯まずにはいられないのだろう。
再び、フォークを振り上げてネルを刺し殺そうとするのが遅れる。
「シャ!」
おれがカラテの前蹴りをわき腹に叩き込む。
本来ならば吹き飛んで転がっていくところだが、羽毛よりも重いものは宙を浮くことを許されない世界では、わずかに身体が持ち上がってバランスをくずし、ぶざまに倒れる。
こいつは目の部分の空いたズタ袋ではなく、生き物の毛皮をなめした肉の仮面をつけていた。
この皮仮面は小柄だったし、わき腹を抉られて呼吸が止まらないやつはいない。
激痛からの苦鳴をあげて沈みこむ。
樹上といっても相当の高さはある。
そこから平然と降ってきた思い切りの良さは買うが、奇襲をするには知性が足りなかったな。
「銃声を聞きつけて〈眷族〉がやってこないことを祈るわ」
仰向けの体勢から起き上がりつつ、ネルはシールドを抜いて銃口を〈ヒルズ・マン〉の胸に添えた。
そして、引金をしぼる。
接射はこの世界でまともに銃器が使える機会だ。
普通はこれで終わる。
だが、恐るべきことに胸に風穴が開いたはずの皮仮面は、おかまいなくネルめがけて爪を振るってきたのだ。
シールドの口径程度の痛みでは死なねえぜ、とでもいうかのようなタフネスぶりは麻薬患者のものを思わせる。
ストッピングパワーが足りないというよりも根本的に〈教授〉の情報通りにタフなのだろう。
とはいえ、ネルはその程度で怯む可愛げのある女ではない。
すかさず胸に2発、頭に1発のいわゆるモザンビーク・ドリルのトリプル・タップ。
ぐったりとして倒れこむ〈ヒルズ・マン〉を払いのけて、ネルは立ち上がる。
その際に頭部にもう一発撃ちこむ。
普通ならオーバーキルだが、〈教授〉の情報を拡張解釈してこいつらは不死身といってもいいタフネスの持ち主と仮定しておく方がいいかもしれない。
トドメを確実に刺しておくにこしたことはないのだ。
それにおれたちは、もうだいぶ殺し殺される関係に慣れきっていた。
「ヴヴヴヴ!!」
おれの後ろからもう一匹が大型のナタを手にして襲い掛かってきた。
まあ、一匹で待ち伏せをしているとは思っていなかったよ。
振り下ろしてきたナタをもつ手を右掌底ではたいて軌道をそらすと、そのまま裏拳で顔面を叩く。
態勢を崩したところで、足の甲を踏みつぶし、痛みで怯んだところへ左手のM66を突き立て、みぞおちに弾丸をぶちこんだ。
シールドと違って、357マグナム弾が腹を貫けばさすがの怪人でもお陀仏だろう。
ダブルタップまでして余計な音をたてる必要はない。
銃の音に敏感な化け物が近くにいたら厄介だからだ。
「もうセンサーに反応はないわ。ここにいたのは、こいつらだけね」
「さっきの鎖野郎はいなくて、ここに2匹だけか。おれたちが2人ってことで甘く見たのかな?」
「そうね。だいたいの人間はただの餌としか思えない連中のようね。罠を張る知能はあっても、警戒するという知性がないのでしょう」
餌と聞いて脳裏に浮かんだのは、あの写真の女の子だった。
耳は削がれたかもしれないが、母親だってまだ生きている可能性はある。
大雑把だが罠を張り、車を運転するあたり、知能はそれなりに高い連中だ。
父親は殺したのに母子をわざわざ拉致したのなら、なんらかの口にもしたくない悍ましい動機を持っていないともいいきれない。
いや、あれこれ考えるのはヤメだ。
どのみちおれは、あの丘の中央にある小屋に行くつもりだった。
「おれたち、じゃないかしら」
まるでおれの心を読んだかのようにネルが呟いた。
あんたは、融通の利かない道連れだと内心罵っていたりしそうだけどな。
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