〈天崩壊〉
そう名付けられた災害―――超物理現象と呼ぶものもいる―――は、ある日突然に起こった。
後に「天が落ちてきた」とも表現される全世界規模の大災害におけるもっとも直接的な被害は、地球上のあらゆる国や地域・都市をつなぐ航空便であった。
〈天崩壊〉が起きた瞬間、この世界のあらゆる場所で、宙に浮いていたものはわずかな例外を除き、吊るしている鎖の切れたシャンデリアが天井から落ちるようにまっさかさまに地面に激突していったのである。
通常、なんらかの故障に見舞われた航空機ならば胴体着陸や湖・海面への着水によってかろうじて被害をまぬがれることもできたであろうが、〈天崩壊〉においては慣性や揚力の働きなど一切関係なく、ただまっすぐに地面へと向かって錐もみながら落ちていくしかなかった。
フライト直後のものを除いて、ほぼすべての航空機が地面に激突し四散した。
〈天崩壊〉時に離陸または飛行中、着地寸前だった航空機がいったいどれだけの数存在していたのか、結局のところ正確な数はまだ判明していない。
ありとあらゆる場所で人間の生活は飛行機という便利な乗り物に結びついていたのだから。
同様に乗り込んでいた乗客・乗員の人数もわかっていない。
ただ、おびただしい航空機と人間が〈天崩壊〉を原因として死亡したことは確かである。
死んだ者たちはなぜ自分が死んだのか、まったく想像もできなかったことだろう。
だが、これは航空機に限った話ではない。
同じ現象は宙に浮いているすべてのものに及んでいた。
ピッチャーが投げたボール、走り高跳びをしていた陸上選手、観測のために浮かんでいた気球など、それらすべての地面から一瞬離れていたものがなんの支えもなく地に落ちた。
戦場で殺し合う兵士たちの銃弾でさえ、銃口から放たれたと同時に地面に次々と散らばっていき、おかげで至近距離で機関銃を乱射されたのに死なずに済んだものたちもいたほどだ。
〈天崩壊〉の瞬間から、この地球上には『生物であろうと無生物であろうと浮くものは許されない』という新しい絶対の掟が誕生して蔓延していったのである。
重いものが下へと転がっていくように、液体が熱によって気体になるように、それは原理もわからない新法則として世界を蹂躙した。
世界中のすべての物理学者を自殺に追い込むためじゃないか、というジョークが生まれるほどに不可思議な現象であった。
もっとも、例外がないわけではなかった。
それは、「鳥」だった。
羽根を有して自由に宙を飛ぶことができる「鳥」という種だけは、なぜかかつてと同じように空を舞うことが許されていた。
そして、その理由だけは誰にでもすぐに理解できるようになる。
この未曽有の事態をようやく咀嚼し始めた人類が、次に理由と意味を理解しようと頭をひねりあたふたしていたとき、地球上における制空権は完全に別の存在によって掌握されてしまっていたのである。
航空機を使用した人・物の移動がほぼ不可能となったことで人類の社会活動は著しい制限を受けることになり、それと同時に、人類は何万年ぶりかの種の天敵の発生をも知った。
これまで人間と共存していた「鳥」によく似てはいたが、まったく異なっているともいえる生き物―――〈眷族〉の出現である。
小型のものいるが、ほとんどの〈眷族〉の肉体は車並みに大きく、背中に生えた翼はさらに大きい。
すべての〈眷族〉は尖った凶器のような嘴の中に切れ味の鋭い牙を有し、生きていようと死んでいようと獲物の肉をざっくりとそぎ落とす。
なによりも人にとって厄介なのは、〈眷族〉が人を喰らうことである。
地球上の他のどんな生き物よりも、人を好物としているのだ。
〈眷族〉たちは我が物顔で大空を飛びまわり、目に付いた地上の人間どもを容赦なく襲っていった。
狙われたものたちはほとんどなす術がなかった。
〈眷族〉と人間とは単純な筋力においても大きな差があった。
せめて有効な武器があればなんとか護身ぐらいはできただろうが、〈天崩壊〉後の世界において、最もポピュラーな護身用の武器である銃は、殺傷力のある弾丸が打ち出せない、乾いた炸裂音をあげるだけの役に立たない道具にまで堕ちていた。
さらにいえば、銃を所持しているものはなぜか〈眷族〉に優先的に狙われるようになるため、持ち歩くものが激減した。
〈眷族〉に遭遇したのならば、惨めに逃げ回るしか生き残る手段はなくなっていた。
人間は地を這いずりまわるだけでなく、天敵に怯え、物陰に隠れ住まなければならなくなっていたのだ。
この状況でもインターネットの利用は可能であったため、世界各国の様子はダイレクトに伝えられ、地球上のあらゆる国や地域がまったく同じ混乱状態に陥っていることはすぐに広まった。
ただし、人間たちも無秩序に混乱していた訳ではない。
銃器の使用が不可能になったということは、迫撃砲やミサイルといった軍隊の虎の子の兵器もつかえなくなったということである。
この機に乗じてアメリカではメキシコからの移民が違法になだれ込み、パレスチナでは素手と刃物を使った中世の陣取り合戦がはじまり、それ以外の地でも考えられないほどの数の暴徒たちが平和を蹂躙していった……
もともと銃の少なかったおれの生まれた日本は、一年経ってもどうやらかつての平穏を保っているようだが、銃を治安悪化に対する抑止力としていた国は荒れに荒れていったらしい。
特に最悪だったのはアメリカ合衆国で、〈眷族〉の発生率について他国を軽く凌駕し、他の追随を許さないレベルだった。
最新の報告では、世界中の銃器の社会への普及と“禽”の確認数はほぼほぼ比例しているそうだが、アメリカだけは群を抜いて酷い有様になっているそうである。
もっとも〈眷族〉が暴徒の類いまでも例外なく標的にしてくれたおかげで、一定レベルの平穏が維持されているということもあり、怪物の恐怖による治世という面があったのも事実である。
まあ、とにかく〈天崩壊〉という訳の分からない災害は、かつての世界秩序を完全に破壊したのだ。
―――世界は完全に変貌した。
鳥と、一枚の羽毛程度の重さしかないものしか浮かばない世界に。
人類は今の世界のことを―――〈羽毛の世界〉と呼んでいる。
世界中の人々が、〈フェザー・ワールド〉が始まった〈天崩壊〉の原因を見つけ出し、叶うことならもとの世界に戻そうと躍起になっていたが、今のところ誰一人としてただの一歩も真相に近づけずにいた……
◇◆◇
おれは窓の補強の隙間から外を眺めていた。
さっきの銃声を聞きつけて“禽”がやってくる様子はない。
「防音がわりとしっかりしていたみたいだ。〈恐鳥〉どころか“禽”みたいな中小型の〈眷族〉もこっちには来ないな」
「どのみち車をだせばすぐに気付かれるわ。……今、地形を確認しているからもう少し目視での確認をお願い」
「わかった」
ネルは、縦に積んでみたら瓦割りができそうな、普通の市販品よりもゴツいタブレットを覗きこんでいた。
〈天崩壊〉後でも、インターネットはまだ活きているし、むしろこれがなければもう少しよくない世界になっていたかもしれない。
ネットさまさまだな。
航空機が使えないことで物資の移動は大幅に制限されるようになってしまったとしても、新物理法則は情報が大陸間を飛び交うことまでは妨げられない。
飛び交う情報だけが人類の手に残った唯一の飛び道具なのかもしれないな。
もっとも、ネット上での真実ではない流言飛語の類―――いわゆるフェイクニュースなどの量は格段に増加していると言われている。
エビデンスを集めて裏を取りたくても、そう簡単にできるような時代ではなくなっているから仕方のないことだけれども。
「航空写真で確認中。一年前から更新してないけど」
「〈天崩壊〉後にそこまで無料サービスに力を入れている会社はないだろうからしょうがないさ」
「ビッグテックも肝心な時に役に立たないわ」
「IT企業だからな」
おれは場所を移動して別の窓から同じように外を眺めた。
くつろいでいられる状況ではない。
老店主とその孫娘は二人でカウンターの内側、他の客たちは喉が渇くのでぬるいビールを飲みつつこっちをうかがっている。
当然警戒はされているが、とやかく言ってくる元気はもう残っていなさそうだ。
おれの1インチの正拳突きで悶絶させられた巨漢も動けるようになってはいたが、じっと睨みつけて、ぶつぶつと恨みごとらしきものを呟くだけだった。
頭二つ分は背が低い日本人のカラテの恐ろしさというものを骨の髄まで味わってくれたのだろう。
おれが全米ジュニアカラテのチャンピオンになったとき、ほとんどのアメリカ人選手があんな感じでしょぼくれていた。
全員が体格差による圧勝しか体験してきていないような巨漢ぞろいの大会だったので、まさかいくら本場出身とはいえ比較対象にもならなそうなチビ助にやられるとは夢にも思ってもいなかったあいつらのことを思い出す。
だが、すまんな。
おれはガキの頃からどういう訳か自分よりでかい奴相手の喧嘩で負けたことはないんだ。
自分でも不思議で仕方ないのだが、どうもおれには体格差による補正というものを無効化してしまうような才能があるらしい。
技術なのか、それとも才能なのか、なんともはっきりとした結論がだせないのだが、とにかく二倍近い体重差のある相手とでも、ボクシングの同階級で戦っているように彼我戦力差が自然と調整されてしまう、そんな感じがあるのだ。
あまり悩みすぎるとハゲるかもしれないから、とりあえず理屈としては母方の叔母の嫁ぎ先が相撲部屋であったことから、小さいころよくそこに出入していたので無意識のうちに巨漢に馴れているせいだという設定を固めてあった。
それ以上は考えないようにしたのだ。
まあ、要するにデカい連中の相手は得意中の得意だ、ということを落としどころにしたのである。
おれたちがいることによる緊張状態に耐えられなくなったのか、それとも好奇心旺盛なのか、じっとしていたストライプのシャツと黒いジーンズ姿の孫娘が祖父の眼を盗むようにネルのところに近寄っていく。
どちらも十代後半ぐらいで年が近そうだから、親近感でも湧いたのだろうか。
「そんなにデカい銃、あんたが撃てるの? 見たところ、持ち歩くのだって普通に大変そうなサイズだけど」
「ほっておいて。あなたには関係ないでしょ」
「オウマタイムを狙うにしたって、もう少し使い勝手のいいライフルとかにしたらいいのに。使えない武器なんて無駄じゃないのさ」
孫娘の問いは、別に挑発している訳ではないだろう。
確かにネルの背負っているスナイパーライフルはストックやマウントも含めれば彼女の体格にはまったく不釣り合いだ。
銃身の先端につけるサプレッサーまで含めたら、ネルの身長とほぼ一緒である。
一発撃つどころか保持して構えることさえ困難に思えた。
ちなみに本人の解説によれば、レミントンM700というライフルを基にしたMK13というボルトアクション式のライフルで、かの有名なグリーンベレーが狙撃に使うんだそうだ。
「使えるわ」
後ろ手にグリップを握ると、MK13がまるで竹刀でも扱うかのように軽々と背中から離れ、銃口を西部のガンマンの早打ちのごとく孫娘に突き付けた。
信じがたいことに長く重いはずの銃身は微動だにせず、しかもネルはまるで拳銃を扱うかのように片手撃ちの体勢であった。
ついさっき小型拳銃のシールドを祖父に向けたのとほとんど同じ光景。
4キロから5キロはある重量を軽々と扱ってみせたのだ。
おれ以外は皆露骨に驚きの声を上げる。
「え、え、えっ!」
さっきのアメフト選手もどきでさえ、こんな大きさのライフルを片手保持なんてできないだろうに、ネルは顔色も変えず、腕も震わさずやってのけたのである。
「これでわかった? わたしには使えるの。だから、差し出口はいらないわ」
「う、うん……」
かなり驚異的な光景と脅しに近い否定をされたのに、孫娘はすぐに踵をかえさなかった。
なぜか、その場に立ち尽くして、ネルを見ている。
1分ほどしてしびれを切らしたのか、ネルの方が口を開く。
「あっちにいってくれないかしら」
「……聞きたいことって何さ? あんた、さっきそう言ってた」
ネルはちらりと視線を逸らし、
「そうね。―――1年前の〈天崩壊〉の直後にここでクレジットカードを使っていろいろと購入した男の人のことを知りたいの。覚えている?」
孫娘は振り向いて老店主をみたが、返事は首を縦に振る肯定だった。
「ここらじゃあ、滅多にカードは使われない。請求の手続きが面倒だからだ。〈天崩壊〉以降はもっとだな。だが、そいつについてはわかるぞ。1年前でも妙によく覚えているが、あの口ひげの男のことだろう」
「カード会社の記録までは調べたの。でも、取引情報が混乱していたみたいで、何を買ったのかまではわからなかったわ。他に、その男のことについてなんでもいいから記憶にないかしら」
ちなみにカード会社の記録というのは、データバンクを違法にハッキングして調べたものだ。この店での取引についてもそれで知ったらしいし、防犯カメラにデータが残っていないかまで漁ったそうだ。
もっとも、この店は防犯カメラまでは設置していなかったので映像まで入手はできなかったと聞いている。
「〈天崩壊〉のあとでまともな旅行者がやってきたのは珍しかったから覚えちゃいるが……」
「どんな人でした?」
「少し待て。……ああ、口ひげを生やしていた。あれだ、クラーク・ゲーブルみてえな。口に出してみると、そうだな、確かになんとなくレット・バトラーくせえ態度の奴だった。どことなく芝居がかっていた」
レット・バトラーって、「風と共に去りぬ」か。
老店主と孫娘は首をひねり、
「何を買ったのか、どこに行ったのか、誰かと一緒だったか、それとも一人だったのか、そういったことまで覚えてて?」
「缶詰とかをしこたま買っていったはずだ。一人で何往復もして運んでいたから、多分連れはいなかっただろうさ。話しかけられはしたが、ワシは口を利かなかった。ちょっと鼻持ちならない態度をしてやがったからな」
「そう」
「あたしはちょっと話したかな。テキサスはダラスまでしか来たことがないとか、防衛隊の基地があるとか、そんな雑談をしたっけ」
落胆はしているが、それでも無収穫ではなかったとネルの表情が物語っていた。
どうやら、口ひげの男はネルの探し人で間違っていないらしい。
「ありがとう、助かったわ」
「その口ひげのおっさんを捜している理由も聞いてもいい? このご時世にアメリカを旅しながら人捜しなんて大変だもの。深い理由があるんでしょ?」
ネルはかすかに笑った。
あえて例えるなら自嘲の笑いといったところか。
「わたしのパパァなの」
「え、そうなの!?」
「ええ。〈天崩壊〉にはぐれてね。それからずっと探しているという訳。あっちはどうかは知らないけれど」
最後の一言だけ、ネルは一切の感情をなくした貌で特に冷淡に呟いた。
実の娘が父親に向ける言葉とはとても思えない冷たさだった……
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