まだ開けていない段ボールを隅にどかし、なんとか布団を敷く。引っ越してきたアパートは、畳に砂壁、むき出しの木の柱と、昭和の香り漂うものだった。まあ、一人暮らしを始めたばかりの大学生にはちょうどいい所だろう。
ここに移ってから初めての夜だ。俺は環境が変わると眠れないたちだけど、多分引っ込しの疲れですぐに眠れるだろう。なれない作業で体が痛い。明日は筋肉痛だなと思いながら、ペンダント型の電気の紐を引っ張って明かりを消そうとする。
まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、パッパッと電燈が点滅した。
「なんだ、びっくりした」
真横から、視線を感じる。心臓が跳ね上がった。まさか、幽霊?
腕を伸ばした姿勢のまま、動きを止める。ゆっくりと視線を感じた方へ首をめぐらす。
布団の右側に、古びた柱があった。そこに、一対の目が浮かび上がっている。
木目がそう見えるのだ。その周りには曲線の節が入っていて、なんだか着物を着た女の姿に見えなくもない。うっすら鼻筋と唇らしきものまで見える。
(あれか。三つの点があると顔に見えるって現象? なんていったっけ……)
たかがの木の模様に怯えていたなんて。俺は思わず笑いだしそうになった。小さいとき、毛布のしわが人の顔に見えて怖かったっけ。
今度こそ電気を消して、俺は布団にもぐりこんだ。
こんな夜中に誰かコンビニにでも出かけたのか、外の階段を降りる音が小さく聞こえた。
午後に大学から帰ってきて、ドアの鍵を開けようとしていると、隣のおばさんが声をかけてきた。
「あ、お隣に新しく来た人ね。こんにちは。私は山田っていうの」
「あ、よ、よろしくお願いします」
俺はできる限り愛想よく返事をした。これから近所と問題なく暮らすには、こういうところはしっかりしておいた方がいい。
「学生さん? ちゃんと学校に行ってるの? 偉いわあ」
「はあ」
そりゃ学生なんだから大学に行くだろう。
「それがねえ。あなたの前にその部屋に住んでた男の人。トシブミさんっていったんだけど、最初はちゃんと働いてたのに、そのうち引きこもるようになっちゃったのよ!」
働きに出ていた、ということはもういい歳だったはずだ。そういえば、中高年の引きこもりが問題になっている、とネットニュースの見出しにあった気がする。でもそれは若いころ引きこもり始めて、そのままいい歳こいたおっさんになった、というケースが多いとされていたが、そのトシブミさん職場で嫌なことでもあったのだろうか。
「当然家賃も払えなくなって、両親に連れてかれたのよ。もう大変だったんだから。泣くわ喚くわで!」
(そうはなりたくないもんだ……)
「それにしても、人間動かないと太るのね~トシブミさん、ここに来たばっかりの時はスリムだったのに、引きこもってからぶくぶく太り始めてね~ 連れ出されるときは肌も蒼っちろくなって……」
田中さんの話を聞くでもなく聞いていたとき。視界の隅に何か動いたものがあった。アパートを囲む、ブロック塀の外。原因を見定めようとしても、道路には誰もおらず、動くものもない。
気のせいだったのだろうか。
「うちにも一人娘がいるけど、ちゃんといい子に育ってくれてよかったわ~ それじゃあ、またね」
どうやら山田さんの話も終わったようで、俺はあいさつをして部屋に戻った。
片付けの続きをしようと畳に座り込んだとき、またしても視線を感じる。
女の人に似た柱の木目。それがぬっとりと濡れていた。まるでその女が水から上がってきたように。
「うおっ! なんだこれ!」
恐る恐る顔を近づけてみる。見間違いではない。
雨漏りでもしているのだろうか。けれどここ一週間、晴天続きだ。
「気持ちわりぃ……」
雑巾を持ってきて、その水気をふき取る。ただの水より粘りがあり、俺は雑巾と手を何度も洗った。
じっとりと汗をかいて、俺は目を覚ました。
部屋の中は暗いはずなのに、なぜか柱の所だけ、闇がぬぐわれたようにはっきりと見えた。液体のように柱の表面がゆらぐ。白い、煙のようなものが柱から立ち昇った。それと同時に、部屋が急に寒くなる。
異変に逃げ出そうにも、寝ている俺の体は動かない。
白い煙は、ぐっしょりと濡れた女の姿になった。水滴を滴らせながら、俺の顔を覗き込む。
「うわあああ!」
俺が今度こそ本当に目を覚ますと、部屋はきちんと暗闇に包まれていた。もちろん柱も同じで、そこだけはっきり見えるなんてことはない。
「なんつー夢……」
眠る前よりぐったりした気分で、電気をつけた。
昼間拭いたはずの柱が、また濡れていた。
アパートに向かう間、友人のアキノリはご機嫌だった。手に提げているビニール袋には、スーパーで買いこんできた缶チューハイやおつまみが入っている。
「しかし、引っ越し祝いのパーティーとは気の利いたことをするな」
「いや、親友のお前に新しい家を紹介しようと思ってな。ピザぐらいおごってやるから」
アキノリの笑顔に、ちょっと良心が痛む。
さっきの言葉に嘘はないけれど、実は怖くて一人でいられないから一晩泊まっていってほしい、なんて情けなくて言えない。
でもまあ、そうそう命に係わる異変なんて起きないだろう。アキノリに危険はない……ハズだ。
『あなたの前にその部屋に住んでた男の人。トシブミさんっていったんだけど、最初はちゃんと働いてたのに、そのうち引きこもるようになっちゃったのよ!』
山田さんの言葉が蘇る。
ひょっとして、トシブミとやらは幽霊に取り憑かれておかしくなってしまったのではないか? 霊に憑かれると痩せこけるイメージがあるけれど、太って動かなくなるのだって悪影響だ。悪霊が、トシブミを部屋から離さなかったのでは?
俺は首を振って恐怖をごまかした。色々考えたけど、幽霊なんているはずがない。きっと今日は何事もなく過ぎるんだ。そして「やっぱりただの気のせいだった」となるはずだ。柱の水は、気温差で結露したとかなんとか、原因があるのだろう。
「おう、早く鍵!」
促されて、俺はドアを開けた。
そして、そのまま立ちすくんだ。
部屋がおかしい。直観的にそう思った。
俺は、急いで最後に見た部屋の様子を思いだした。
とりあえず出したテーブルに勉強道具。テレビと、クローゼットに何着かの服。窓際の段ボール。切ったまま散らかしておいた荷物用の紐に、カッターナイフ。
そうだ。部屋に置かれている段ボールの配置が違っているのだ。直射日光を避けて部屋の隅に置いていたはずの箱が、窓辺に寄せられている。
「だからどうしたって。早く入れよ」
アキノリは不審そうに言った。俺の様子におかしなものを感じているようだ。
一瞬この異変をアキノリに言おうかと思った。けれど、それで彼がビビッて帰ってしまったら俺が怖い。
「あ、う、うん」
結局、おれは何も言わなかった。
部屋に入ると、相変わらずチリチリとした視線を感じる。見まいとしたのに、つい柱に目をやってしまった。
俺の視線に釣られて、アキノリも柱に目を向けた。
「うわ、なんだこれ、女の顔みたいだな」
考えることは同じらしく、アキノリはまじまじと木目をみつめた。その顔が不快そうにしかめられていく。
「しかもこれ、なんか濡れてねえ?」
その言葉通りだった。
アキノリはぶるっと身を震わせた。
「あー、なんか気が変わった。やっぱり俺、帰るわ」
「お、おいちょっと待ってくれ! せっかく来たんだから!」
「あ、すまん、用事を思い出したんだ」
そう言って、アキノリはあっさりと帰っていった。
そんな薄情な、と思ったが、俺も騙したようにして連れてきた手前、あまり強くは言えない。
やっぱり、あの柱の女が荷物を動かしたのか? でも幽霊が物体を動かすなんてあり得るのか? ポルターガイストという奴だろうか?
とりあえず、近所の神社で買ってきた災難除けのお札を木目の上に貼りつける。それから柱の根本に盛塩をしてみた。
こっちはそう何度も引っ越しできるほど金に余裕はないのだ。しばらくは、これで様子を見るぐらいしかできることはない。これで異変が収まるよう、俺は祈るしかなかった。
何か、女の泣き声のようなもので、俺は目を覚ました。何かいる。そう直観した。前のような悪夢でもない。目はしっかりと覚めている。
自然と右側の柱に目が行く。柱の近くに、なにか白いものが落ちていた。はがれ落ちた符だった。その傍には、黒く焦げたようになった盛塩が、何日も放っておかれたようにしけて皿の底でへたっていた。
そして、柱のすぐ前、人影がこちらに背をむけてうずくまっている。
かすかに残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。心臓が高鳴って、こめかみに嫌な汗が浮かぶ。
畳をこする足音をさせ、その人影は立ち上がる。そして布団の真横に立った。
逃げよう! そう思うが、恐怖で体が縛り付けられて動くことができない。
人影は布団の上から覆いかぶさってきた。
全身が押し付けられ、肺から息が漏れる。吸うことはできない。ソーセージのような指が、首に巻き付いた。必死にその手をひっかくが意味がなかった。
顔に血が溜まって熱くなる。視界に変な光が飛んだ。なんでもいい、命を助けてくれるものはないか。俺は手当たり次第辺りを探った。
カッターナイフが指先に当たった。荷を解くためにその辺に出しっぱなしにしていた物だ。刃を繰り出し、切りかかる。相手の手の甲をかすめた。
自分でも幽霊に物理攻撃が利くと思わなかったので、その何者かが野太い悲鳴をあげ、体から退いたのには驚いた。
布団から這い出して、むせ返る。喉が引きつれるように痛んだ。細い管を空気が通るような、おかしな音が口から漏れた。
涙でにじむ視界の中で、電燈の紐を引っ張る。
明かりに照らし出されたのは、死に装束を着て黒く長い髪を垂らした柱の木目そっくりの女性、ではなかった。
深緑色の半袖シャツに、カーゴパンツを着た小太りの男だった。
「誰だよお前!」
まだ喉が締め付けられているようで、叫んだはずの声は情けないくらい小さかった。
「こ、こ、この部屋から出ていけ!」
男はそういうと柱に這い寄った。
「う、符に紙を貼るなんてひどいことを! そ、それに荷物で前をふさぐなんて!」
どうやら断りもなく符をはがしたのはこの男のようだ。
男は、手で女の姿をなでる。
「か、か、か、かわいそうに。く、苦しかっただろう、ゆうちゃん」
「ゆうちゃん?!」
「う、うるさい! どうせ、へ、変な奴だと思っているんだろう!」
泣きながら男は言った。
「僕は、や、やせてた時からバ、バカにされてきた。し、虐げられてき、きたんだ」
ひざまずくようにすると、男は柱の女に何度も何度もキスを繰り返す。
「さ、最初は彼女の姿にき、気づかなかった。タ、タンスをどかしたときに気づいて、こ、こ、恋に落ちたんだ!」
「タンス?」
ということは、この男は前にここに住んでいたというトシブミだろう。
男がキスをするたびに、柱が濡れていく。怪奇現象の原因がわかって、俺は軽く吐き気がした。
確かに、前の住人だったら、合い鍵を返さずに持っていて部屋に忍び込むことの可能だ。こんな安アパートなら、住人が変わったからといってわざわざ鍵を付け替えたりしないだろう。荷物を動かしていたのも、こいつだったか。
「ゆ、ゆうちゃんは他の女みたいにクスクス嗤ったりしない! 臭いってひそひそバカにしたりしないんだ! だからずっと離れられなかった! 仕事だって行かなかったんだ!」
「それで引きこもりか」
俺は呆れながらスマートフォンを手に取った。
「もしもし、警察ですか? 俺の部屋に……」
「うわああ!」
警察という言葉におびえて、男は部屋を飛び出していった。
「なんだったんだ一体……」
通報を終えると、俺はその場にへたりこんでしまった。ぼんやりと部屋を見渡す。
乱れた白い布団に、濡れた柱、転がったカッターナイフ。
おかしい。何かがおかしい。脳の一部分が、そう違和感を訴えていた。けれど、俺はそれを「気のせい」にして握りつぶした。まともに考えるには、あまりにも疲れすぎていた。
その日の夕方にはもう、俺は解いたばかりの荷物をまた詰め直す作業をしていた。テレビをつけっぱなしにしておかなければ、また嫌なことを色々と思い出してしまいそうだった。
あれから警察に通報して分かったことは、トシブミは数週間前から実家を脱走して行方不明になっているということだった。またこの部屋に戻ってこられたらたまったものではない。
とりあえず、必要な物だけをバッグに詰めて、ネットカフェにでも逃げ込むつもりだった。早い所、また引っ越し先を見つけなければ。
『……トシブミさんと身元が判明しました』
間違いなくトラウマになった名前がテレビから流れ、俺はびくっと体を跳ね上げた。
テレビでは、無表情なアナウンサーが原稿を読んでいる。
『司法解剖の結果、トシブミさんは死後一週間ほど経っており、警察では自殺と他殺両方の可能性を視野に入れて捜査をするとのことです』
画面が切り替わり、どこかの公園で警察官がうろうろしている様子を遠くから撮った様子が映し出されている。
そして小さくあのトシブミの顔写真が映し出された。今日の早朝、家に押しかけてきたあの男の姿が。
「え……じゃあ、今日の明け方この部屋に来たのは……」
あの時見ないことにした違和感の正体が、今こそ分かった。
もし、あの柱がただの柱でトシブミがただの人間だったら、なぜ盛塩が黒く焦げていたんだ? 外す距離ではなかったのに、なぜカッターで切りかかって、血が布団にこぼれていなかった? トシブミが幽霊だと考えればつじつまが合う。
コツ、コツ、とドアの向こうから、近づいてくる足音がした。
「ゆうちゃん……ゆうちゃん……」
かすれた声が聞こえてくる。
俺は悲鳴をあげたい気持ちで、扉に向き直った。
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