気が滅入るような長雨が続いていた。朱美は薄暗い空の下、グレーの傘をさして通勤のために駅へと急いでいた。立ち並ぶ小さな家々や、アパートはどれも濡れてくすんで見える。足元のアスファルトはおそまつなもので、あちらこちらできた水溜まりを避けて歩かないといけなかった。
雨なので駅まで車で送ってもらう人が多いのだろう。いつもは通行量が少ない道なのに、今日は結構車が通る。
車に追い払われるようにして、朱美は道の端によった。爪先のすぐそばに水溜まりがあるのに気づき、朱美は踏み込まなかったことにホッとした。轢(ひ)かれないように気をとられていたため今まで気づかなかったのだ。
水溜まりにはスーツを着て傘をさし、つまらなそうな顔をした朱美の顔が映っている。どこからか水が流れ込んでいるらしく、小さくさざ波が立っていた。
(あれ……)
顔を上げたとき、朱美はおかしなことに気がついた。
他の水溜まりは澄んでいるのに、足元のこの水溜まりだけ茶褐色をしているようだ。
少し気になって、水溜まりにどこから水がきているのかそのもとを探す。
よく見ると、水溜まりに接するように排水溝が走っている。おそらくその底の一部がゴミか何かで盛り上がっているのだろう。その上を通った水が、排水溝の縁(ふち)からあふれて水溜まりになっているのだ。水が濁っているのは、排水溝の汚れが混じっているからだ。その排水溝は、横に立つアパートの壁に取り付けられた排水管から流れる水を受け止めていた。
原因がわかって気がすんだ朱美は、再び歩き出そうとした。ほんの一瞬、目が水溜まりの像をとらえた。灰色の空。スーツを着た自分の姿。そして自分の背後に立つ見知らぬ男。
「え?」
思わず見なおした水面にもう男の姿はなく、慌てて振り返っても通りすがりの女子学生と目が合っただけだ。
きっと気のせいだろう。そう言い聞かせて、朱美は小走りで駅へとむかった。
その日の昼休み、朱美は弁当を食べながら自分のスマートフォンをいじっていた。ニュースサイトで見慣れたアパートの写真を見つけて目を見開いた。あの排水溝のアパートで自殺があったらしい。
ある男が、ベランダで自分の腹に包丁を突き刺して失血死したのだ。おまけに、その時間は自分があのアパートを通ったのと大体同じ。
朱美は、思わず悲鳴をあげそうになった。あの水溜まりが茶褐色になっていたのは、排水管を通って血が流れ込んでいたからか。
では、あの水溜まりに一瞬映ったあの男は……
朱美は吐き気がするほどの恐怖を感じた。
長い雨は終わり、それからまた季節が巡って、再び梅雨の時期がやってきた。
「最近、朱美さんどうしたんですかね」
葉山はそう上司に声をかけた。
同僚の朱美のミスが、最近急に多くなったのだ。それも、普段だったらやらないような平凡で簡単なミスばかり。
なにかあったのか葉山が聞いても、「ごめんなさい、少し具合が悪くて……」と謝られるばかり。まったく改善しない。
「さあな。プライベートで何かあったんじゃないか?」
上司は不機嫌そうに言った。
「まったく、個人的な感情を仕事に持ち込むとはけしからん」
(あんたも奥さんとケンカしたときこっちに八つ当たりするくせに……)
葉山は賢明にも思ったことを口に出したりしなかった。
(プライベートと言ってもなあ。心当たりがないんだよな)
実は、朱美と葉山は会社に隠して交際をしていた。二人の関係が悪化したことはないし、個人的な悩みを打ち明けられたこともない。何か事情があるのかも知れないが、恋人とはいえ無理やりに理由を聞きだすようなことはしたくなかった。理由もなくスランプになったのなら、理由もなく治るかも知れない。
結局、葉山はもうしばらく様子を見ることにした。
しかし、朱美の状態はますます悪くなっていった。ろくに食べていないのか、だんだんと痩せていった。それどころか何回か急に叫び出し、飲んでいた飲み物をカップごと床に投げ捨てることもあった。
仕舞いにはとうとう会社に来なくなり、葉山がラインやメールでメッセージを送っても返事がない。
放っておけなくなった葉山は、朱美のマンションまで様子を見に行くことにした。
あいにく強い雨が降っていて、雫をはらって傘を閉じると、マンションの床に小さな水溜まりができた。
朱美の部屋の、安い鉄製のドアをノックする。返事はない。
「朱美?」
ノブを回すと扉はあっさりと開いた。
「朱美、入るぞ」
戸を閉めると、玄関は薄暗くなり、外の雨音が小さくなる。
正直、あの朱美の様子ではゴミ屋敷になっているのではないかと怯えていたが、部屋の中は意外と荒れていない。ゴミ袋が二、三個転がっているぐらいだ。一人暮らしの葉山の部屋の方がひどいかもしれない。
「いないのか?」
小さなリビングスペースには誰もいない。ただ、水をやり忘れたのか、飾られていた観葉植物がかさかさになって枯れていた。
寝室に入ると、 床にはティーポットとカップが割れていた。割れたのはかなり前らしく、こぼれた紅茶は乾ききって跡が残っているだけだった。窓はカーテンが閉められ、かすかに雨音がノイズのように聞こえていた。
朱美はベッドに寄り掛かるようにして床に座り込んでいた。目はうつろで、ぼんやりと天井を見上げている。
「おい、朱美!」
小走りにかけよりながら呼び掛けて、彼女の肩を揺さぶる。
今ようやく葉山の存在に気づいたというように、朱美は濁った瞳をむけてきた。
なんとか意識はあるようだ。とりあえずもっと気をはっきりとさせるために、水を飲ませた方がいいだろう。
葉山はキッチンスペースに走ると、コップを手に取った。蛇口をひねろうとして、息を飲む。コックがガムテープでぐるぐる巻きにされ、固定されていた。まるで蛇口から何か化け物が流れ出てくるのを防ごうというように。
とりあえず自分の持ってきていたミネラルウォーターのフタを開ける。
「ほら、これ飲んでしっかりして」
「いやあ!」
まるでナイフでも突きつけられたように、朱美はペットボトルを払いのけた。勢いよく床に転がったボトルの口から、とくとくと水が床にこぼれる。
朱美は規制をあげ、手近にあったクッションを水の上に投げつけた。口と床の水がクッションに隠れる。
朱美が震える唇を開いた。
「どこにでも、あの男がいるの」
その声は、カゼでもひいているようにひどくかれていた。
「お水にも、スープにも、お風呂にだってあの男が」
「あの男? あの男って誰だ?」
異常な朱美の行動に、葉山の体にじわじわと恐怖が湧いてくる。
「あの雨の日にね、あの男を見たの」
そう言って、朱美は話しだした。その話は混乱していて分かりづらかったが、まとめるとこういうことらしい。
ある雨の日、朱美は自殺者の血が流れ込んでいる水溜まりを見つけた。そこに一瞬、死んだはずの男が水面に映っているのを見た。
「ねえ、地球上の水の量って、昔からほとんど変わっていないんですって」
朱美は笑みを浮かべた。どこか病んだ笑みだった。
「地面に流れた血はね、蒸発して雲になるのよね」
赤い霧が空へ昇り、雲の一部になる。そんな光景が葉山の頭に浮かんだ。
もちろん血が赤いまま蒸発することなんてない。葉山の妄想だ。
「そして雲になった血は、雨になって降り注ぐの」
朱美の視線が、床のクッションをとらえた。正確に言えば、クッションに座れた水を。
「そしてダムに混ざって、蛇口から出てくる……」
くすくすと朱美は笑った。
「つまり、この地上にある水には少しずつあいつの血が混ざっているの。もう逃げられないの、絶対に」
「何を言って……」
クッションに吸い取られなかった水滴がいくつか、床の上にあった。ゆらり。小さな水は揺らめいた。
凸レンズのようになった水滴に、部屋の様子が映し出されている。
驚いた表情をしている自分、ベッドの前に座り込む朱美、そしてそのベッドの上にしゃがみ込んでいる見知らぬ男。
床に散った大小の雫にも、同じ光景が映し出されていた。無数の景色、無数の朱美、無数の男……
「つまり、水を飲むたびに、私は少しずつ少しずつこの男の血を飲んでいるのよ。きっと、私の血にもこの男がたくさんいるに違いないわ」
「うわああああ!」
葉山は、悲鳴をあげてその部屋から飛び出した。
どうしてその男が朱美に付きまとっていたのかはわからない。自殺をして霊となった彼は、たまたま通りかかった朱美を見初めたのだろうか。それとも血を通して自分の存在に気づいてくれた彼女に、自分の無念を知ってほしかったのだろうか?
葉山は何度もそのことを考えていたが、答えが出るはずもなかった。
『雲になった血は、雨になって降り注ぐの。そしてダムに混ざって、蛇口から出てくる……』
朱美はそう言っていた。
あの雨の日から朱美に異変が起きるまで間があったのは、雲となった男の血が降り注いで生活用の水に混ざるのに時間がかかったからだろう。
あれから、葉山は救急車を呼んだが、朱美は衰弱が酷く、結局死んでしまった。もう何日も水分をとっていなかったそうだ。
看護師の話によると、最期は何かを恐れるように手を伸ばし、つるされた点滴を外したいようなしぐさをしていたという。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!