弱気になる彼女の前で、彼は言った。
「あの時以上のストレートを、俺はまだ見たことはない」
彼女は首を傾げた。
あの時?
なんのことかと、顔を顰めながら尋ねた。
彼女からすれば、彼の言う「あの時」がいつかは、知る由もなかった。
「初めて、試合で投げるお前を見た日や。あん時は確か、四年生やったかな」
彼女は覚えていなかった。
四年生?
もうずいぶん昔の話だ。
その試合のことを、はっきりとは思い出せなかった。
「その試合がどうかしたんか?」
「すごいと思ったんや。単純にな」
「私が?」
「お前以外に誰がおるねん」
「ガキの頃やんけ」
「そうやが、俺にとってはそうやない」
「ふーん?」
「あの日見たお前のストレートは、世界でいちばん速かった。今まで見た、どんなストレートよりも」
彼女は呆れたようにため息をついた。
小学四年生が投げる球なんて、たかが知れてる。
“世界一”なわけがない。
それは、考えるまでもないことだった。
「慰めなんかいらんで?」
「慰めなんかやない。本気で言ってるんや」
「ハハ。笑える」
結局、彼女は高校で野球を続けることはなかった。
周りからすれば、それは賢明な判断だったのかもしれない。
普通の女子高生らしく、女の子らしく。
別々の高校に進んだ2人は、今までとは全く違う時間を過ごすようになっていた。
野球を続ける亮平と、新しい夢に向かって、勉強を続ける千冬。
亮平は、千冬の決めたことを否定するつもりはなかった。
引き止めるつもりもなかった。
子供の頃に描いていたお互いの夢は、もう、同じ時間に交わることはないのかもしれない。
千冬はもう二度と、マウンドに上がることはないのかもしれない。
だけど——
夕日の差し込む海辺。
駅舎の奥から聞こえてくる、放課後のチャイム。
千冬を横目に、彼は誓ったのだ。
「お前の夢を、俺が代わりに叶える」
突拍子もない提案だった。
千冬は笑っていた。
何を言い出すのかと、思わず聞き返してしまった。
亮平は、まっすぐ彼女を見つめていた。
「いつか、世界一のバッターになる。そうすれば、お前の見たかった景色を見せられるやろ?だから、待っとけ。俺がいつか、証明したるから」
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