「これこれこういう訳でして、我々アンチョビ教団はイワシを初めとした海洋生物の未来に憂いの念を感じ、彼らの未来をより良きものにする為に、日々活動を続けているのです。」
「あ、あの〜、オノデーラさん?」
落ち着いた物腰で力説する小野寺さんに対して、小さく手を上げて意見をする。
「どうしました尾藤さん、何か質問ですか?」
「…あ、いえ、アンチョビ教団の素晴らしい理念は充分理解出来たんですけど。
ただ、ちょっと生理現象の方が…」
私は分かりやすいように、モジモジする動作をする。
「あ、すみません、ついつい会話に熱が入り過ぎましたね。
誰か、尾藤さんをお手洗いまで案内してあげて下さい。」
「それじゃあ、自分が。」
私を取り囲んでいた信者の一人である男性が名乗り出て、トイレを我慢する私を案内してくれた。
勿論、トイレに行きたがっているのは嘘だ。
トイレの窓から上手く抜け出して、こんな所から脱出してやる!
「では、こちらで待ってますので。」
「あ、はい。」
案内してくれた男性信者は、トイレの前で周囲を見張るように待機しているようだ。
案内役が男性なのもラッキーだ。
多少私が怪しくても、そう易々と女子トイレに入っては来ないだろう。
トイレに駆け込んだ私は、すぐさま窓の位置を探す。
そして私は絶望する。
「……窓、ちっちゃ……」
窓自体はあったものの、とても人が通れるようなサイズではない、換気用と思われる小さな窓が一つ。
そこから無機質な向かいのビルの灰色の壁が見える。
ただ、それだけだった。
「…クッソ、行けると思ったのに。」
他に脱出の手段が無いか、便座に座って思考を巡らす。
「あっ、スマホあるじゃん。」
そうだ、スマホが没収されてる訳じゃないし、私には外部と連絡を取る手段がある。
すぐにスマホを取り出して、一番信頼出来るカイちゃんにメッセージを送る。
『助けて。変な宗教団体に捕まってる。
このビルの6階。』
私はスマホのGPS機能で住所の情報も送る。
さっきトイレに移動する際に、エレベーターの上の階数表示も盗み見といたので、その情報も教えといた。
さて、関西にいるカイちゃんはここまで来れるのでしょうか?
答えは単純、あの子なら絶対に来る!
その確信があるから、警察とかよりもカイちゃんに連絡したのだ。
それに警察だと、通報した時の声が漏れてトイレの前で見張ってる信者の人にバレる危険性があるし。
私は取り敢えず用を足したフリをしてトイレを出て、小野寺さん達が待つ部屋へと戻って来た。
「大丈夫ですか尾藤さん?
どうも顔色が優れないようですが、どこか体調でも悪いのですか?」
「…あ、はい、ちょっと。」
しめた!このまま風邪気味って事にして、帰らせてもらう手もあるぞ!
「そうですか……でしたら、今回は特別にアンチョビ神様の子守唄を歌いましょう。」
「……へ?」
意味が分からん。
子守唄?ナンデ?
「アンチョビ神様の子守唄は、かつてアンチョビ神様が地上にご降臨なされた際に、その神力を言霊と旋律に封入なされた神聖な子守唄なのです。
これを聴けば、風邪程度ならたちまち治ってしまうでしょう。」
「…は、はぁ…」
なんじゃその胡散臭さMAXの子守唄は!
せめて普通に風邪薬をくれよ!
他の信者達も、「あの素晴らしい子守唄を聴けるのか!」とか「君もオノデーラ教主の透き通る歌声を是非とも聴いていくと良い!」とか、なんか盛り上がっちゃってるしさ!
「安心して下さい、子守唄を聴いて眠りに落ちれば、目が覚めた頃にはすっかり元気になってる筈ですから。」
「……うぅ…」
戸惑っている私なんて気にせずに、小野寺さんは一方的に歌おうとしている。
その時だった!
「白狐ちゃんッ!」
私をその名で呼ぶのは、この世界でただ一人。
「カイちゃん!」
部屋の扉を勢い良く開け放ったカイちゃんが、荒い息遣いをしながらも凛々しく立っていた。
「ちょっと、何なんですか貴女は!?」
小野寺さんが、予想外の闖入者に焦っている。
「白狐ちゃん、助けに来たから!」
そう言ったカイちゃんは、凄いスピードで駆けてくる。
あまりの気迫と速さに、他の信者達は呆気に取られて止める事が出来ない。
「と、止め…ッ!」
小野寺さんが言いかけた頃には既にカイちゃんは私を抱き締めていて、勢いそのまま部屋の窓へ向かって全速力で駆け出す。
……ん?窓だって?
「カイちゃん!?ここ6階ッ!」
「白狐ちゃん、不変力で痛覚止めて!」
そう言われて、私は咄嗟にカイちゃんの意図を察した。
カイちゃんは素早く窓を開け、抱き締めてる私もろとも飛び降りたのだ!
「……怖ッ!」
怖がってる暇など無い。
私は不変力で自分の痛覚を不変にするも…
「ぎゃんッ!」
カイちゃんの分までは間に合わなかった。
本当にすまないと思っている。
「カイちゃん大丈夫ッ!?」
不変力のお陰で怪我や死ぬ事はないけれど、私の対応が間に合わなかったからモロに痛みだけは感じてしまうカイちゃん。
流石のカイちゃんも、地面で仰向けになりながら悶絶している。
「あぐゥゥゥ…ッ!
い、痛ぁ………痛気持ち良いィィ!!」
前言撤回。
筋金入りのドMには、飛び降りの痛みですら快感になるのか。
「白狐ちゃんと痛みのサンドイッチ、癖になりそうッ!」
「あ!」
ここでようやく、私はカイちゃんの体の上に乗っている事に気付いた。
「ご、ごめん!」
慌てて私はどくも…
「ああん!どかないで!もっと踏み付けて!」
「どかないと逃げられないだろお馬鹿!」
さっき助けに来てくれた時のカッコ良さは何処へやら、ドMスイッチがオンになったカイちゃんはただの変態と化す。
「…そ、それもそうだね。
でも、流石にすぐには動けないかも…」
気持ち良くはなってるものの、ダメージ自体はかなり大きいんだろう。
痛みのあまり、カイちゃんはすぐには立てなさそうだ。
どうしよう、アンチョビ教団の連中は、いつここまで降りてくるか分からない。
でも、カイちゃんを見捨てるなんて出来ないし…
何とかしてカイちゃんを今すぐ動ける状態にするには……
「カイちゃん!」
「ん?」
意を決した私は、カイちゃんの顔に自分の顔を近付ける。
「んッ!」
「んうゥッ!?」
そして、キスをした。
カイちゃんの柔らかい唇に、私の唇を重ねて。
キスなんて人生初めてだから作法とか全然分かんないけど、恋愛漫画で見た感じを再現するように、カイちゃんの頭を両手で押さえて目を瞑りながらキスし続けること約10秒。
「ぷはッ!
どうカイちゃん、元気出た?」
恥ずかしさを誤魔化すように、唇を離した私はすぐにカイちゃんに聞いた。
当のカイちゃんは、少しの間呆然としていたけれど、突如として体を回転させながらアクロバティックな動きで立ち上がった。
「うおッ!?」
「シュオオオオオッッ!!」
効き目は私の想像以上だったようで、片手で私の体を軽々と持ち上げたカイちゃんは、奇声を上げながら人間離れしたスピードで走って行くのであった。
◆◆
「ハァ…ハァ…」
息切れするカイちゃんの隣で、ベンチに座る私。
どうやらここは、どこかの小さな公園みたいだ。
さっきのビルからもだいぶ離れてるし、奴らが追ってくる心配はないだろう。
「カイちゃん、お疲れ様。
それと、助けに来てくれてありがとう。」
私の感謝の言葉に、カイちゃんは笑顔で返す。
「白狐ちゃんのピンチなんだから、当然だよ!」
「そっか。
でも、よく関西からあんな短時間で来れたな。」
「そりゃあアタシには、超高速仕様のVTOL機がありますから!」
「ああ、そう言えばそんなん持ってたね。」
「…そ、それよりも白狐ちゃん。
さっきの、き、きききキス……キッスッ!」
熟れたリンゴみたく真っ赤になるカイちゃん。
「ああ、あれは状況判断による必要経費だから。」
殆ど事実だけど、私の中にも幾らかは下心があったかもしれない。
その証拠に、私の心臓も未だにバクバク鳴っている。
表情には出さないけど。
ってか、私もファーストキスがまさかあんな形になるなんて、予想もしてなかったよ。
「そんなぁ〜。」
「とにかく、今日は一旦家に帰るわ。
カイちゃんも、仕事戻った方がいいんじゃない?」
「いや!白狐ちゃんが心配だから一日付き添う!」
「公私混同し過ぎだろ。
まあ、カイちゃんの会社の人達は慣れてるだろうし、大丈夫か。」
「大丈夫大丈夫!」
いや、大丈夫じゃないだろ。
後で冷静になった私はそう思った。
⚪︎2人に質問のコーナー
白狐ちゃんの好きなアルファベットは?
「B!私のイニシャル!ダブルB!」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!