吾輩は猫である。名前はまだ無い。などとネコの割に尊大な切り口を持つ者がいる。人間でもそうはいないだろう。
時刻は夕方、場所は住宅地、所謂ベッドタウンである。今は町の会合の帰りで、思っていたより遅くなってしまってはいるが家の者達も慣れているだろうから心配はしていないだろう。それより今は会合の際、皆が噂していた事が気にかかる。
「怪しい屋敷、か」
そう、町外れの大きな屋敷。隣町に会社を持つ社長のお屋敷だとか何とか。聞いた話によると、私が生まれる前からこの町にあるらしいその屋敷で、最近になって夜な夜な猫の悲鳴――ここではこう表現するのが適切だろう――が聞こえるという。叫ぶような、尾を踏まれたような、興奮した鳴き声が聞こえるのだそうだ。まあ事実、町で見る猫の数はうんと減り、心配から飼い猫にリードさえ付ける家も増えているらしい。屋敷の近隣住民も、何度か屋敷の人間に会い、問うたそうだが、毎夜その時間には寝ているという。まさか屋敷に上がってまで探すことは出来ないので、真実は闇の中と言うものだ。
だが、虎穴に入らずば虎子を得ず。という諺もある。そこで私は考えた。
私は自慢では無いが、町でも良く顔が知られている。丁寧な礼を怠らなければ屋敷に上がる事は難しいことでは無い筈だ。家の者達には悪いが、帰るのはもっと遅くなりそうだ。
そうしてしばらく、歩いて向かったのはかの屋敷。荘厳ささえ感じさせる年季の入った鉄の門。そこから覗く緑の揃った綺麗な庭。奥に建つ、貴族でも暮らしてそうな立派な屋敷。その全てが夕日に照らされ、幻想のようである。言っては何だが、この小さな町には似つかわしくは無い程だ。
まあ、何はともあれ入ってみるとしよう。悪いとは思いつつ、門の脇の塀を登り、敷地の中へ。
庭は外から見た印象程は広くは無かったが綺麗に草木が揃えられており、昼下がりにはティーセットでも出してそうな程の高貴さがあった。そう表現するしか無い。
そして庭を散策する。塀の端から屋敷の壁の端まで。不自然に掘り返したような場所や腐臭のする場所は無く、もしこの屋敷で猫殺しがされていたとしても、庭で処理をしている訳ではなさそうだ。むしろ本当によく綺麗に整備されている。良い庭師がいるのだろう。
「こら、ダメでしょう。そんな所に居たらまた庭師さんに怒られるわ」
庭の切りそろえられた木を見ていると、そう突然声をかけられる。びっくりしてつい逃げ出しそうになるが、それは礼を欠いた行為だと自分に言い聞かせて踏みとどまる。
ゆっくり振り返ると、夕日を遮る為だろうか、庭で日傘をさした少女がいた。年の頃は十から十二といったところか。髪は綺麗に結ばれ、服装も一瞥しただけで高価なものだと分かる。だがはて、この屋敷に娘がいるとは聞いたことも無い。成程、なんとなしに一歩、屋敷の秘密に近づいたようだ。
「これはすまないお嬢さん。突然庭に入った無礼を謝罪しよう」
緊張を隠し、出来るだけ紳士的に応対する。まあ庭に侵入した時点で紳士的も何も無いが、それはそれ。今後の対応で挽回しよう。
「どうしたの? 何もわたしはアナタがお庭にいることに怒ったりはしないわ。ただ、お庭のお世話をしてくれているおじさんは怒るでしょうから」
少女は初対面の私に臆したり、警戒することもなく、かといって追いかけ回すような事もなく、そう微笑んで言った。なんとも……こんな少女が今どきいるものか。箱入り娘というやつだろうか。
「なら、謝罪の方はその庭師のおじさんとやらに会った時にするとしましょう――」
話している途中で、少女は私に近づき、私を捕まえる。
「――な、何をするんだ!? 離したまえ、そんな年端もいかないキミがそんな私のような」
「ほら、部屋に戻りましょうファータ」
そう、私の抗議を無視して少女は名を呼んだ。無論、私はそんなメルヘンな名前では無い。
少女の部屋だろうか。質素なものだ。上質そうなシルクのベッド、少し大きめの本棚、精巧な作りのテーブル。それだけの、品はあるが最低限の部屋。とても子どもの部屋とは思えない。
少女は私を部屋に押し入れると、すぐに扉を施錠して出ていってしまった。ごはんを持ってくる。と言っていたのだからダイニングルームにでも行ったのだろうが。
確か、ファータというのはイタリア語で妖精という意味だったか。まったく、私はそんなに可憐なものでは無い。ただのしがない一町民であるというのに。
しばらく、時がたって日が暮れ月が上る。高い天井のはめ殺しの窓から、それは綺麗な三日月が見える。ベッドから見上げると、それはまさに夢のようであった。と、少女が帰ってこないので部屋を観察し、本棚を眺めたり、ベッド下に潜ったりテーブルの上でくつろいだりしたのだが、何も分かることは無い。ただこの部屋に何も無いというのを知るだけだ。
棚に納められた本は絵本もあれば文学作品もあり、育ちが良いのが見て取れそうでもある。
私が時間を持て余し、もう寝てしまおうかと考えていた頃。扉へ誰かが近づく気配を感じた。
「ごめんなさい、ファータ。隠れてごはんを用意するのに時間がかかっちゃって、お腹減ったでしょう?」
言いながらミルクとパンのカスを乗せた二枚の皿を持った少女が部屋に帰って来た。二枚の皿を危なげに片手に乗せ、もう片方の手で扉を開ける。見ているこっちが怖い。服装は薄手のものに変わり髪型も結んであったものから変わっている。下ろされ縛る物の無くなった髪は綺麗な広がりを持っている。
私の心配は無用に少女は器用に皿をテーブルに並べる。所作の一つ一つが丁寧だ。持ってきた料理は他人に出すにはお粗末極まりないが。
「ほら、食べてファータ」
とりあえずテーブルに近づく。見る限り、ミルクに何か混ざっているようなことは無さそうだ。パンカスも、特に変わった所は無い。正直なところこの食事内容には言いたい事が多くあるが、少女が誠意を持って用意してくれたであろうそれに口を出すのは気が引ける。仕方が無い、黙って食べよう。
「では、いただくとしよう」
私に期待の眼差しを向ける少女を無視することはできず、出されたものを食べることにした。まあ、それ自体は屋敷に負けず上品な口当たりだ。
「ふふ、美味しい? ファータ。もう、勝手に出て行っちゃだめよ」
そう、少女は微笑む。ふむ。私はファータでは無いが、どうやらそのファータなる誰かは――家族だろう――この家から出て行き、悲しみのあまりか私をファータだと思ってしまっているのだろう。
「じゃあファータ、食器は明日朝に片付けるから、もう寝ましょう」
私が食事を終えるのを見ると、すぐに少女はそう言ってベッドに入る。そうしてこちらへ手招き。
「どうしたの?」
どうしたの、では無い。普通に考えてまずい。少女に捕まったという時点でも私にそのつもりが無いのは明らかだろうが、もし第三者が目撃したとなら、私の紳士としてのイメージは終わりだ。
「もう、今日は恥ずかしがり屋なのね」
今日は、ということは昨日以前のファータと呼ばれていた者は毎夜この少女と同衾していたという事に他ならない。けしからん奴。
オチが思いつかなかったので供養します
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