夕飯を食べ終わって食器を洗い、そのままお風呂に入ろうとした時、母は相変わらず目も合わせずに、ぼくの洗濯物をこちらに放り投げた。
「自分の分、アイロン当ててね」
そう言って母は再びパソコンに向かう。黙ってぼくはそれを拾い、アイロンをかける。
「……ました。次です。××市の路上で、飲食店経営の⚪︎⚪︎さんが倒れているのが発見されました。△△県警は、殺人事件として捜査しています……」
無機的なニュースの声に、パソコンの打鍵音、アイロンの蒸気の音だけが響く、狭い和室。どことなく重たい空気だ。ぼくはアイロンをかけ終わると、机の新聞紙に目をやった。
『今の若者は就職してもすぐ辞める。その理由は、叱られ慣れていないからだ。理不尽な叱られ方をすることも多々あるが、社会に出て働くと往々にしてそういう事があるのものだという事を理解して欲しい。(H.Kさん。56歳)』
見たくない嫌なニュースばかりが、目に飛び込んでくる。ぼくは溜め息を一つついて浴室に入ると、衣服をカゴに投げ捨て、そのまま温かいお湯の中へと身を委ねた。
「ふうー……。はあー……」
さっきから溜め息が止まらない。ぼくはお湯に浸かりながら考える。母からの話って一体何だろう。嫌な予感しかしない。
手短に体を洗い、再び温かい小さな極楽に全身を委ねる。このままずっと、浸かってたいな。現実なんか、見たくない。
「いつまで入ってるの!」
「……今出る」
「お風呂から出たらすぐ話をしましょう。早くしてね」
「うん」
とても気が重い。ぼくは部屋着に着替えてドライヤーをすませると、台所の椅子に座った。テレビの音声は消え、古い蛍光灯のジーという音だけが聞こえていた。母は少しイライラしているのがぼくにはすぐ分かったが、それを抑えたのか、冷静な口調で話し始めた。
「では、話を始めましょうか」
「……うん」
「就活、何か進展ありましたか?」
「……ない」
「ないって、あんたこの先どうすんの?」
出たよ、聞かれて一番困る質問。どう答えても、否定されるやつだ。何を言ってもダメだと思ったぼくは、だんまりを決め込んだ。だが母は、容赦なく話を続ける。
「バイトだって、いまのライブハウスだけでしかやったことないんでしょ? 時給810円で週2だけじゃ、とても経済的に自立できないでしょうが。君はいつまで親のお金をあてにする気なの?」
実はぼくは、みんなやってるような普通のバイトは、やりたくなかった。やりたくなくて、ずっと逃げ続けてきたんだ。
そもそもバイトに応募することすら、ぼくにとっては大きな大きな壁だった。まず面接が怖いし、応募電話をかける勇気すらない。不採用だったらとても凹んでしまうし、採用されたとしても、理不尽な事を言うお客さんがいたりすぐ怒る上司に悩まされたりなど、嫌な話ばかり聞いてきた。
ぼくが今やっているライブハウスのバイトは、知人の紹介だったので、応募電話も面接も無しで運良く採用されたのだった。それでも理不尽に怒られたりはするけど、他のバイトよりずっとマシだと思ってた。
「まずはまともなバイトから始めてみたら? と思うんだけど」
「それは、嫌だ」
「子供の頃から知らない場所へなかなか踏み出せない君にとっては、嫌でしょうね。でもね、そうやっていつまでも逃げてたら、誰も助けてはくれないよ?」
「はあ……」
ぼくは、音楽が好きだから、一生音楽をやりたい。音楽には、世界を変える力がある。ぼくはそう信じてる。みんなが力合わせて毎日何の悩みもなく幸せに暮らせる世の中になるように、音楽の力でこの世界を変えたい。そのために大好きな音楽を、一生の仕事にしたい。今のライブハウスでのバイトも、そのための第一歩のつもりだ。
「あとね、好きなことを仕事に出来る人は、ほんの一握りの人やで?」
——そんなぼくの信念をへし折るかのように、母の口から鉛のように冷たい言葉が飛び出す。
「あー……」
「そんなリスキーな道行くより、ちゃんと人並みにバイトして経験積んで、経済的自立をしてから考えたら? 傷つきやすいあんたにとっては辛い道になるけど、それでも腹括らないと。私はいつまでもあんたの世話はできない」
「うん……」
尤もだ。反論の余地もない。ぼくはもう21歳。いつまでも親の世話になっていちゃいけない。だがその経済的自立が、ぼくにとっては大きな壁なのだ。
社会に出るのは、とても大変なことだ。年間何千人と鬱になり自殺するこの世界。自殺しなくても、職場でのパワハラやいじめ、転職の失敗など、色々と社会人のホラーストーリーを聞かされてきたぼくは、とてもその一歩を踏み出す気になれないでいた。
「私が言いたいのは以上。何か言いたいことある?」
「……ない」
「前話した時も、ない、としか言わんかったよね? またそうやって逃げる気? ……って思っちゃうよね。逃げて逃げ続けて先延ばしにして、その繰り返し。もう何回目でしょうね」
「……」
「まあ今日は遅いから、次こそは何か進展させてね。では」
「はあ……」
こってりと搾られたぼくは部屋に戻り、布団に倒れ込んだ。もう何も考えたくなかったが、癖のようにスマホに手を伸ばしてしまう。SNSサイトを開こうとして画面を見ると、不在着信が4件来ていた。バイト先からだ。
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